10
遅まきながらの青い春に患う青年だったが、忙しい現実は彼を物思いに浸らせておいてはくれない。
外泊した夜に上がりこんでいた友人は翌日一日を黙って付き合ってくれたが、その次の朝には彼自身の仕事に戻るため、じゃあなと手を振った。一つの店のナンバーワンを張っているホストとなれば、そうそうプライベートに時間を費やすことはできない。彼は彼を待つお客たちのもとへと帰っていった。『共に過ごす一時を幸せだと言う女たち』のために、彼は働いている。
一方、青年自身も卒業の大詰めを控えた本業のために登校せざるを得ず、彼は物思いに沈む暇も無く一日を外で過ごすことになった。
「仰木くん、どう?卒論進んでる?」
学生部屋の机に向かい、資料を広げている高耶に、同じ部屋に机を並べる先輩が声を掛けてきた。
「まだまだです。今日も午後から保育園で実地研究なんですよ」
「ふーん。確か、就職先だっけ?」
回転椅子をくるりと回して体ごと振り返ると、相手は手近にあった椅子に腰掛けて足を組んだ。
「はい。……まあ、無事に卒業できたらの話ですけど」
高耶が頷いて、ふと苦笑いしてみせると、
「いやいや、大丈夫。普段からきちんとやってるだろ、仰木くんは」
相手はいつもながら明るい言葉を返してきた。この院生は研究室の癒し系キャラとして皆に親しまれている。高耶も彼を見ていて、院に進んで机上で学ぶよりも実際に園児たちの相手を勤めてやる方が余程重宝されるだろうに、と思うことがよくあった。
青年がそんなことを考えているとは知るよしもなく、先輩はふと思い出した様子で話題を変えた。
「ああ、そういえば、昨日のメール見た?」
「いいえ。何か来てたんですか?」
相手が言っているのは研究室のメンバーが連絡用に使用しているメーリングリストのことだ。
昨夜は友人と色々な話をして過ごしたので、メールチェックをしなかった高耶である。
「先生からのお知らせで、クリスマスに集中講義があるってさ。イブと次の日と両方。両日とも朝から夕方まで!……そりゃ、別に誰か相手がいるわけじゃないけど、何だかなぁ」
「クリスマスに?それはまた、微妙な……」
一体何を思ってそんな日に講義を持ってくるのだろう、と首を傾げてしまう。
先輩の説明によれば、他大学から講師を招いての講義であるため、こちらと先方との予定がかみ合うのがその日しかなかったということである。
「まあ、この研究室に入ったら別れるってジンクスにみんなやられてるけどな。あー、余計寂しいよなぁ」
この研究室、数代前からのジンクスで、『ここに入ったら付き合っている相手と別れる』というものが実際に蔓延している。
話を聞いてみれば面白いほど、みんながみんなシングルになってしまうのである。おかしなことに。
だが、
「……オレなんか、そもそも最初から一人なんですけど」
ちょっと悲しくなる青年だったが、
「あ、大丈夫大丈夫。入るときは別れるけど、出ていくときには出来るっていうジンクスもあるから。仰木くんも近いうちに出来るって」
と先輩は相手の肩を叩いたのだった。
「クリスマスかぁ……」
研究室ゼミを終え、午後は実地で園児の相手をして一日を過ごした青年は、帰宅して軽く夕食を済ませると、締め切りの迫ったレポートをちゃぶ台の上に広げて頬杖をついた。
しかし、肝心のレポートは遅々として進まず、彼の意識は段々違う方向へと流れてゆく。ふと昼間の会話を思い出し、そこからまたあの男へと思考が誘導されていった。
「直江はクリスマス、どうして過ごすのかなぁ」
お客さんと一緒なんだろうか。
あの女の人、佳澄さんて言ったっけ、あの人と過ごすのかな。
あの男ならば、きっとそれこそ絵に描いたようなロマンティックなクリスマスの夜を演出するのだろう。
ゆったりと落ち着いた、洗練されたディナー、そしてたぶん、二人並んで夜の街を散策。それから、もしかしたら、甘い夜―――
高耶はそこまで考えて、はっと赤面した。
あの男と過ごした二度の夜を思い出し、ただそれだけで充分甘かった触れるだけのくちづけの感触を呼び覚ます。優しくて、温かくて、いたわるようで、からかうようで。
そしてこの間は、相手が眠っているのを幸い、自分からその唇を奪ってしまった。まさか自分があんなことをするなんて、後になって思い返すと穴を掘って隠れたくなるほど恥ずかしい。
「そういえば直江、電話番号まで教えてくれたよな……」
まさか掛けてきてくれるなんてことはないだろうけれど。
青年はつい期待してしまう自分を叱咤するように両手で頬をはたき、深くため息をついた。
そして、ちょうどその瞬間、
―――電話が鳴り出した。
「うわっ!」
高耶は文字通り飛び上がった。
恐る恐るそちらへ首をめぐらせて、呼び出し音を発し続けている電話が決して幻聴でないことを確かめると、彼は今度は時計へと目を走らせる。
八時二十三分。
ホストの彼が私用で電話を掛けられる時間とは考えられない。
ということは、これは直江ではないはずだ。
青年は深く息を吸い、おっかなびっくりに受話器を耳に当てた。
「……もしもし?」
「こんばんは」
果たして―――聞こえてきたのはあの耳障りの良い落ち着いた美声だった。
「っ!……直江か……」
青年は思わず息をのんでしまう。すると、電話の向こうでは小さくため息が聞こえ、
「他の人からの電話を待っていましたか。すみません」
淋しそうな気配に慌てて、高耶はぶんぶんと首を振る。たとえどんなアクションをしたところで、相手からは見えやしないのだが。
「ち、違う!時間がまだ早いから、直江は仕事中じゃないかと思ってた。それでびっくりしただけ」
……違う。本当はそんなことを言いたいんじゃない。電話もらって嬉しいって、そう言いたいのに。
「そう?私は今日の仕事がキャンセルになりましてね。あなたはどうしているかなと思ってかけてみました」
「オレはさっきまでメシ食ってた。今はレポート広げて悩んでたとこ」
「おや、お邪魔してしまいましたか」
「いいんだ。切るなよ!……うまいことが思いつかなくてぼーっとしてたんだよ」
「そうですか?ところで、レポートってどんな課題なの」
「発達学特論の小レポートなんだけど、……」
話し始めると、上流階層のご婦人方を相手にする高級ホストなだけあって驚くほど博学な男は、色々な角度からアドバイスをしてくれた。専攻して学んでいる学生の自分よりも、一般人のこの男の方が物知りだというのは驚きだ。けれどそれは自分が無知すぎるというわけではなく―――というのは別段自分を買いかぶっているつもりではない―――、この男がいかに幅広い分野の知識を持っているかということを示している。
「……はあ、なるほどなぁ。うん。うまいこと書けそうだ。ありがとう」
ちゃぶ台の上のレポート用紙にたくさんのメモを取り、高耶は問題が解決した晴れやかな声で礼を言った。その嬉しそうな気配は相手にもすぐに伝わったと見え、
「どういたしまして。部外者の突っ込みも捨てたものではないでしょう。ちょっと違う視点から見ているから、面白いことが言えるんですよ」
『友達』との会話を楽しむオフタイムのホストは、相手の役に立って満足そうな響きをその声に混ぜる。
「うん。助かったよ。……なんかほんとに、色々と世話になりっぱなしだな」
しみじみといった様子で青年が呟くと、
「いいえ、とんでもない。私はあなたと話していると楽しいんです。どうしてでしょうね」
受話器の向こうの男はいかにも楽しげな口ぶりでそう返してきた。
「……さあな。でも、オレも、直江と話して楽しいよ」
相手の楽しさが社交辞令でも何でもなく、本心からのものだとわかるから、青年の胸はすれ違う決定的な『何か』にツキンと痛んだ。
オレは直江と話して楽しいよ。電話をもらって本当に嬉しい。
でも、この『楽しい』も『嬉しい』も、直江の『楽しい』『嬉しい』とは違う―――
そんな青年の胸の内を知る由も無く、オフタイムのホストは万人が聞き惚れるほどイイ声で電話越しに笑った。
「それは良かった。ねえ、他には何か話はありませんか?今日は学校に行っていたの?」
「あ、うん。研究室ゼミの日だから。それから午後は保育園に寄って園児と遊んできた。ガキ共はほんとに元気だよな。もうくたくただぜ」
「そうですか、ご苦労様ですね。園児と遊ぶって、鬼ごっこなんかですか?」
「そうそう。なんとか鬼ってやつ、色々な。色鬼とか、影鬼とか、あとは氷鬼とかもあるな」
「影鬼はあなたには大変でしょうね。園児たちよりずっと影が長いから」
男は長身の部類に入る青年が小さな園児に取り囲まれて追い掛け回されている様子を思い浮かべているらしい。喉の奥を鳴らす回数が頻繁になった。
「ああ、まったくだ。あいつらときたら、小さい体して、はちきれるくらいエネルギーたっぷりなんだからな。あいつらと比べたらオレなんか『おにいちゃん』ていうより『おじさん』の部類に入っちまう」
青年は肩をすくめて笑ったが、
「おやおや。そんなことを言ってしまったら私はどうなるんです?『おじいさん』ですか?」
受話器の向こうの男にはただ笑い飛ばす内容ではなかったようである。青年よりも一回り近く年上の自分を引き合いに出して問いかけてきた。
その微かな拘りを嗅ぎ取り、青年がふと悪戯な笑みを浮かべる。
「うーん……いっそ『仙人』て感じかなぁ。物知りだし、優しいし」
「……褒め言葉と受け取るべきなんでしょうかね、それは」
「褒め言葉に決まってる。それとも、やっぱり否定してほしいのか?」
「仙人もおじいさんには変わりありませんしねぇ。私はおじいさんなわけですね、あなたから見れば」
喉の奥で生まれるのは、からかうような笑いだが、どこか苦味も帯びている。自分では到底真似のできないオトナの男だとばかり思っていた相手が、こうして時折まるで拗ねているような気配を見せることが、青年にはそのたびに新鮮に思える。そんなギャップがさらに愛しさに拍車をかける。―――そして同時に切なさも。
「……オレから見たら、直江は手の届かないお星様だよ」
ぽつり、と返した言葉の寂しげな響きに、受話器の向こうで男がはっと息を飲んだ。
「……どうして、そんなことを?」
ややあって、こちらも真摯な気配へと切り替わった言葉が返る。
「私はただの男です。この間も言ったけれど。あなたが私に何を見ているのかはわかりませんが、私はこの通り決して褒められた人間ではないし、あなたほど綺麗な心を持たない。手の届かないところでキラキラ光っているのはあなたの方です」
世慣れたホストは、未だ無垢な青年へと、心の底から湧き出す言葉を与える。決してお客へ対するリップサービスではない、本心からの、何の打算もない言葉。ただ驚くほど滑らかに内側から押し出された生の言葉を。
「そんなことない……」
嬉しいくせに否定の言葉を口にするのは、もっと男の声を聞いていたいから。男が自分のために優しい言葉を紡ぐのが幸せでならないから。
「いいえ、あなたはたくさんの美点を持っているんです。他人を思い遣る優しさも、自分に対する厳しさも、何ものにも染められない無垢な心も。私なんかよりもずっと、あなたは自信を持っていいんです。ね、俯かないで。顔を上げて。私に笑顔を見せてください」
もっと、もっと聞かせてほしい。
耳元で、まるで囁かれるように近くで、その豊かな声で紡いで。
何度も。何度でも。耳が聴こえなくなるまで。聞いていたい。
お前の唇が生み出す言葉。オレのためにだけ生まれてくる言葉。
聞かせて。
もっと―――
「高耶さん。聴こえている?大丈夫ですか?」
大丈夫だよ。
聴こえているよ。
オレの耳はきっと、聴こえなくなってしまうそのときまで、お前の声を拾い続けるだろう。
たとえ傍にはなくても。記憶の中にある、この優しい言葉を、何度でも再生し続けるのだろう。
だから、直江。
ずうっと先まで覚えていられるように、もっともっと、オレにお前の言葉をくれ。
「直江……オレ、お前の声が好きなんだ」
本当は声だけじゃなくて、全部が。
「低めで、滑らかで、聞き惚れる。なれるなら、お前みたいな声になりたいなぁ……」
自分がなりたいんじゃない。聞いていたいんだ。
「私はあなたの声が好きですよ。感情がよく伝わってくる。くるくると変わる表情と同じで、声も雄弁にあなたの気持ちを語ってくる。そのまっすぐさがとても好ましい」
嘘つき。
オレの気持ちなんか、わかってないくせに。
なのにこんなに―――
「嬉しい」
そう呟くと、私も嬉しいですよ、と、受話器の向こうの男があの笑い皺を刻む気配がした。
04/07/16
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