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街のイルミネーションが一際賑やかになる、十二月の頭。
ウィークデイが終わった金曜日の夕方、さあこれから遊びに繰り出すぞと浮き立つ勤め人たちの流れを透かし見て、こちらは対照的にこれからが仕事の時間という男は、内ポケットから取り出した煙草を唇に挟んで火をつけた。
こうして街角で相手を待つのは、連続五日目になる。
イベント満載の十二月と言う月に入ったため、毎年のことであるが、仕事が立て込むようになった。
『仕事のしすぎじゃないのか?体に気をつけろよ』
初対面にもかかわらずこちらの体を心配してくれた人の顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
仕事が詰まっているせいで、その彼ともこの五日間は連絡を取っていない。
全く違う環境にある人間同士ながら、初対面からなぜかうまが合う相手。十一も年下だというのに、そんなことはどうでもいいくらい、同じ目線で付き合える。広く浅くがモットーの自分にしては珍しいほど気に入っている。
初めて電話をかけた日から、時間が取れれば毎日話をしていた。こちらからかけなければ、シャイで他人への配慮が過分な彼はかけてきてくれないから、ずっとこちらから連絡を取った。けれどこの五日間は自分が時間を取れなかったせいで、電話をかけていないし、向こうからも当然かかってきていない。
彼は急に連絡を寄越さなくなった俺をどう思っているだろうか。
それとも、気にもしていないのだろうか。―――そんなことはない、と、短い付き合いではあっても彼を知っている俺は思うのだが。
それでは、彼はこの五日間、鳴らない電話を前に、寂しい思いをしていたのだろうか……
そこまで考えて、男は俄かに矢も盾もたまらなくなり、コートのポケットに入れてある携帯電話を掴み出した。
二つ折りのそれをパチリと音を立てて開き、メモリを呼び出すボタンに指を伸ばしたとき―――
「―――あら、どちらへご連絡なさるの?待ち人はここよ」
笑いを含んだ艶やかな声と共に、彼の今夜のお相手が姿を現した。
曇り一つなく磨かれたセンチュリーがそこに停まっており、運転手が外側から後部座席に回りこんで扉を開けたところである。
すらりとした綺麗な脚が現れ、カツンと音を立てて街路に降り立ったのは赤い小さなヒール靴。手を差し伸べる運転手に軽く指先を預け、彼女は車外に現れた。
「お待たせしてしまったかしら。御免なさい」
深く一礼して去る運転手に顎を僅か引くことで労い、彼女はすぐに目当ての人物へと向き直った。
その先にある男は、既に携帯電話を仕舞い、仕事中は常に唇から絶やさないいつもの柔らかな微笑を浮かべている。つい先ほどまでその手を冷たい空気から守っていたキッドの手袋は、いつの間にかポケットの中に消えており、彼は長い指を揃えたきれいな手を、今夜の『恋人』のために差し出した。
「こんばんは。つい今し方来たばかりです。お気になさらず」
男が微笑みを深くしながら言うと、当然そう言ってもらえると考えていた女らしい満足そうな笑みを唇に浮かべて、相手は小首を傾げた。うぬぼれではなく自分の魅力を十分に知り尽くしている、そういう種類の反応である。悪く言えば自分中心で我が侭なタイプの女だ。そして、そのような状況がごく当然としてまかり通ってきた育ちでもある。
実際、上流階級のご婦人を多く虜にしているこの一流ホストに対して今日の約束を取り付けた方法にしても、彼女は随分と強引だった。元々は今夜の彼のお客は今目の前にいる彼女ではなかった。しかし、彼女は父親を通じて本来の客と話を付け、男を貸し切る権利を譲り受けたのである。それも前日になって。
男の主義としては、このような強引で粗暴なやり方をする人間を相手にはしたくなかったのだが、本来の客である女性に頼み込まれ、引き受けることにしたのである。
「初めまして。橘義明です」
男にとって初顔のこの客は、元華族・柿崎家の令嬢、綾子である。
きれいな栗色の髪は肩よりも長く伸びて、ゆるやかに波打っている。白い毛皮のケープの下から伸びた、美しい体のラインを際立たせているシルクのカクテルドレスは目の覚めるような赤だったが、彼女のはっきりとした造りの美貌によく映えていた。
「初めまして。義明さんとお呼びしてよろしいかしら?」
「喜んで。それでは私は綾子さんとお呼びしましょう」
手首までを慎ましく覆う赤いシルクの袖が、男がさりげなく差し出した腕に物慣れた様子で絡みつく。
恋人よろしく寄り添った二人は、周囲の人間の目を一つ残らず引きつけていることにまるで注意を払わず、男の先導で歩き出した。
「お車はどちらに?」
「あの角です。脚がお疲れですか」
ひらひらと舞う華奢なヒール靴にちらりと視線を投げて気遣う男に、綾子はいいえと首を振った。気遣われたことを喜ぶように、自信に満ちたその微笑みが深くなり、その様子を見ていた男は相手がかなりの経験を積んでいることを推量した。
若い未婚女性ではあるが、中身は海千山千の奥方連中とさほど変わらないのだろう。自分を連れ歩くことをちょっとした自慢にする程度には、夢見がちな純情さを通り過ぎている。
果たして、男が停めておいた車の前に至り、助手席の扉を開けて中へ入れてやろうとしたとき、綾子はくすりと意味深な笑みを浮かべてこう言い出した。
「早速だけれど、二人になれるところへご案内してくださる?」
『二人になれるところ』にも色々あるが、背の高い男を見上げて僅かに首を傾げた彼女の瞳が示唆するものは明らかだった。『二人きりになれて、誰にも邪魔をされないところ』という意味だ。
「……承った予定とは違いますが」
男は内心でため息をつきながら、首を振った。馴染みの客ならば、こんな無粋は言わない。彼がどういう主義であるかは十二分に心得て、きちんと節度を守った『我が侭』を言うだけだ。しかしこういった初顔の客は、しばしば見当違いの我が侭を言い出す。
「堅いことを仰らないで、連れて行ってくださいな」
綾子は男の腕に手をかけ、上目ににっこりと微笑みかけてくる。自分を拒絶されることなど考えもしない、若いが故の傍若無人さである。
「いえ―――私のことをどうお聞きか存じませんが、今仰ったようなお相手はできかねます」
男が鉄壁の微笑みで断りを入れても、
「あら、どうして?もしかして床入りのしきたりがあるのかしら。三晩通わなければならないのでしたっけ」
さらに赤裸々な物言いで首を傾げるのみ。とんだお嬢様である。
「そのようなことを大きな声で仰るものではありません。周りに聞こえますよ。……とにかく、乗ってください」
男はとうとう微笑を苦笑に変え、綾子を車に押し込んで周囲から隔絶した。
車の中で、綾子はまだモーションをかけてくる。断られて気分を害したため食い下がってくるというよりも、相手が自分を拒むことが心底不思議でならないという様子だ。
「ねえ、どうしてお嫌なの?私がおきらい?」
「いいえ。ただ、承っていないことは致しませんのでね。あなたのお話では今日は食事の後で夜景を見るとのことでしたよ」
このままでは車を出すこともできない。男はひとまずエンジンをかけて暖房を入れるだけにとどめて、我が侭な客に向き直った。
「今から予定を変更するわけにはまいりませんの?」
「申し訳ありませんが。驕っているとお思いかもしれませんが、それが私のやり方なので」
「一度だけ、とお頼みしても?」
「大変申し訳ない言い方ですが、そういったことをお望みでしたら他を当たってください。私は遊び相手には向きません」
難攻不落の男を落とした、と女友達の間で自慢でもしたいのか、綾子は執拗に食い下がってくる。これは説得に時間がかかりそうだ、と男は内心で呟いた。
これまでにもこういった状況に陥り、相手の気持ちを変えさせるために時間を費やしたことは数知れない。特に、まだ馴染みの客よりも初顔の客の方が多かった駆け出しのころには。
説得自体には失敗したことはないし、これからも穏便に事を収めるつもりでいるが、最終的に成功するまでに、多少なりとも時間が必要なのはいつも同じである。それを思って男は内心でため息をつくのだ。
この分では、今夜も彼に電話をすることはできそうにない。
―――さて、このとき、何よりもお客様第一の筈のこの男が仕事中に客以外の人間のことを考えているという珍事に、本人は全く気づいていない。
「どうしても駄目ですの?私にも意地というものがありますのよ」
「女性に恥をかかせるのは本意ではありませんが、私は最初からこういう主義でやっておりますのでね」
「私がまだまだ小娘だから、ということですの?」
「とんでもない。綾子さんは十人とすれ違ったら十人が振り返る魅力的な方ですよ。ですからもっとご自分を大切になさってください」
「あら、小娘も奥様も駄目なら、義明さんは一体どのような方がお好みですの?むしろ女性ではなく男性の方がよろしいのかしら?」
「は?」
思いがけない台詞に目を剥くと、口調は変わらないのに、綾子の瞳に浮かぶ色は先ほどまでとは全く違う真剣なものに変わっていた。それは決して男を口説く女の目ではなく、ひどく真面目な、逃げを許さない追求の眼差しだ。
「奥様方の噂を耳にしましたの。義明さんが男性の方と仲良くなさっていると」
追求の眼差しは、落とそうと思った男が同性に興味を持っていることを逆恨みするものではなく、誰かを守るために男に挑んでいるような、そんな不思議な色を帯びていた。
「……参りましたね。そんな噂が流れているとは」
男は相手の瞳の色を不可解に思いながら、まずは誤解を解こうと口を開いた。
「確かに最近親しくなった男性はいます。けれど、男の私が男性の彼と親密になったからといって、なぜそれが恋愛関係だと解釈されてしまうのか、不思議ですね。普通は友人と形容するでしょう」
男にとっては全く見当違いの邪推だから、ただ苦笑するのみ。疚しいところなどありもしないから、敢えて顔に鉄面を張り付けることもない。本心そのままの苦笑は、綾子の疑念を晴らすに十分だったようである。
「お友達……でいらっしゃるの」
「ええ、そうです。数少ない友人の一人です」
「そう……ほんとにただの友達なのね」
俄に砕けた口調になって呟いた綾子におやと目を見張りながら、男は頷く。
「ええ。ですから、私が先ほどのようなお申し出を受けられないことと彼とのことは全く無関係です。私は色情魔でも男色家でもない。それだけのことです」
あくまで堅い橘の言葉にしばらく観察するような目を向けていた綾子は、突然笑い出した。
「やだもぉ、ほんとにあの子のいったとおりだわ〜」
先ほどまで色気たっぷりにしなだれかかっていたことが嘘のように、彼女はばしばしと男の肩の辺りを叩いて笑い転げている。そんな様子にさすがの男も呆気にとられ、滅多に崩さない表情が驚きに染まった。
「ほんっと、カタブツなのねぇ。こりゃ苦労するわ、あの子も。ねぇ直江さん」
本名で呼ばれて橘は今度こそ驚いた。その名前を知っているはずのない相手である。たとえ馴染みの客であっても滅多に本名を告げることはないのだ。それなのに、初めての客がその名前を知っているというのは、一体どういうことなのか。
「どうして……」
「どうしてだと思う?さんざん聞かされてたからよ。可愛い弟分を取られた相手を一目拝んでやろうって来たら、まあ!あの子の話してたとおりの男じゃない?笑っちゃ悪いけど、笑えちゃうわよ」
男の驚きをよそに、綾子は止むことなく彼女にしかわからないことを喋り続ける。
「何の話です?」
男は話がどうなっているのかさっぱりわからず、眉を寄せるのみ。
「だって、あまりにも話がうさんくさいから、絶対からかわれてるんだと思ったのに。本物見たらこりゃ本物のカタブツ……あははは」
おかしくてたまらないとばかりに、綾子は腹を抱える。
「……ですから、一体何の話を」
そろそろ本当に問いたださなければと声を大きくしたが、それを遮って綾子が新たな提案をした。
「ね、飲みにいかない?いい店知ってるの。……ああ、誘ってるんじゃないわよ。あれは冗談。ほんとにのってきたら殴ってやろうと思ってたけど、よかったわ、そんなんじゃなくて」
「はあ」
ナビするから車出して、と急かされて、男は困り顔のままアクセルを踏み込んだ。
04/08/08
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