Cherry,
Cherry,
Cherry!




















 夜の街を静かに滑ってゆく車の中、綾子は男の運転技術を見極めようとするようにしばらく観察していたが、そのうち満足したようにその体をシートに預けた。ぐーっと伸びをして気持ちよさそうに頭を反らし、目を閉じて心地よい振動に身を任せる。そうして、ふと思い出したように口を開いた。
「あんた、高耶って言ってわかる?」
 彼女の口から出た名前に、男は目を見張る。つい先ほどまで頭から離れなかった相手の名を、その人とは何の関わりの無いはずの人間から聞かされたのである。それは驚くだろう。
「一体どういうことです?先ほど仰った奥様方の噂話にまさか名前まで出てきたというわけではないでしょうね?」

 そんなことになっているとしたら、彼に気の毒だ。預かり知らぬところでおかしな噂の種にされているとなれば。
 もしそうなら、早く手を打たなければならない。眼差しの奥を厳しくした男だったが、

「違うわよ。さすがに名前まではね。そうじゃなくて、あたしはあの子の勤め先にいるの。三つ年上。保母やってるのよ」
 ここは直進、と指示してから綾子は首を振り、彼女が個人的に高耶とつきあいを持っているという事実を明かした。
「ああ、同僚の方でしたか。それで、高耶さんがどうかしましたか」
 ほっと胸を撫で下ろした男だったが、今度はここでなぜ高耶の名前が出てくるのか気になるらしい。
「どうもこうも、それを聞きにきたのよ。あの子ったらここ数日元気がなくって心配だったからちょっと酔わせて吐かせたの。そしたら直江って名前が出てきたのよ。あんたのことでしょ?」
 綾子は些か物騒な台詞をさらりと吐いた。尤も、件の彼が酒に弱いことは男もよく知っているので、それほどの酒豪でなくても彼を酔いつぶさせることは可能だろうと納得したのだが。
「ええそうですが、彼が元気が無いというのはどうしてです?もしや風邪でもひいてしまったんですか」
 男にとっては目の前の女性が酒豪かどうかということよりも、彼女の台詞の或る一部こそが気になるところだった。
 次の交差点の信号を見据えながら心配そうに眉を寄せる男に、相手は何故か肩をすくめて首を振る。
「体はなんともないわよ。そうじゃなくて、メンタルの問題。何日も連絡が来ないあんたを心配してたらしいのよ。それこそ具合を悪くしているんじゃないかって。ま〜随分と仲良くなったものよね」
 彼女は、そこ右ね、と指示を下してから続けた。
「……聞けば聞くほどヘンな話じゃない?超一流ホストの橘義明が男の子を夕食に誘って、挙句の果てに泊めるなんて。しかも友達になろうなんて言って電話まで遣り取りする仲になったっていうから、これは絶対からかわれてると思ったのよ。
 だから、本性暴いてやろうと思ってね。父を通じて予約取ってもらったの」
 にこりと笑う彼女の表情は、元華族のご令嬢というよりは、歴戦の強者と呼べそうだった。先ほどまでの見事な化けっぷりを思い出して、男は内心深くため息をつく。あの強引な予約の取り付け方はこういう理由だったのか。
 それにしても、やはり連絡を切らしたことで彼には心配をかけてしまっていたらしい。今夜こそはまた電話しよう、と心に決め、男はいつもの鉄壁の微笑を装着した。
「それはそれは。で、ご用件は済みましたか」
「まあね。あんた本当のカタブツみたいだし、心配することもなさそうだからもういいわ。ただし、あの子にちょっかい出したら絞め殺すからね」
「出しませんよ」
「そう?それならいいけど。あ、そこの店ね。過ぎてすぐ駐車場があるから停めて」
 綾子は小首を傾げて、気をつけていなければ見逃しそうな小さな居酒屋の灯りを指さした。
「ね、お酒つきあってよ。あんた強そうだし。もぉ普通の男ってすぐ潰れちゃうからつまんないのよね〜」
 男の愛車には狭すぎる感のある小さな駐車場に、彼は見事な手際で滑り込んだ。綾子の表情といったら、これから待つ楽しい酒盛りに舌なめずりせんばかりの様子である。
「私も潰れたらどうするんですか」
 切り返しの必要もなくすんなりと収まった車のエンジンを止めながら、橘は何とも元気すぎる相手に苦笑を返す。黙っていれば文句なしのお嬢様だというのに、これではまるで男友達のようだ。
「あら、そうなったら放って帰るわよ。心配しなくても今の季節ならまだ凍死したりしないでしょ。これまで捨ててきた男でもそんな話聞いたことないしね」
 綾子は毛皮のケープを脱ぎ捨て、小さなハンドバッグから魔法のようにジャケットを取り出している。よほどうまく畳んで仕舞っておいたのだろう。
 男が感心して見ていると、その視線を感じたのか彼女は笑い出した。
「ご覧なさいな。働く女の出来不出来は、いかにコンパクトに荷物をまとめられるかでわかるのよ。あたしだってOLじゃあないけど、立派に働く女だもの」
「すごいものですね。私は泊まりがけで出かけるときはいつも荷物に困るんですよ。どうもうまくまとめられなくて」
 男は首を捻りながらドアを開け、ぐるっとまわって助手席側へ移動した。外からドアを開けて綾子に右手を差し出すと、
「ありがと。でも、気をつかってくれなくていいわよ。あたしはあんたの客じゃあないんだし」
 その手につかまって車外へ出ながら綾子が笑った。
「おや、お客様でないとしたら、何なんですか?」
「共通の友人を持つ初対面の人間同士でしょ。あたしは決まった人以外の男と不必要に接触する趣味はないの。だから、もっとさばけてよ。女扱いしないでさ」
 にっと笑う顔は確かに、女性として接するよりも気の置けない友人として付き合う方が似つかわしそうだった。
「あんたそのスーツ、せめて上着だけ車に置いていってよ。上品な店じゃないんだから、さばけてさばけて」
「そうします」
 この歯に衣着せない、竹を割ったような女性は、異性慣れしていないあの青年の友人として頷ける。このくらいカラッとしていれば、彼も気を使わずに接することができるのだろう。

 街角の小さな居酒屋には明らかに不釣合いな仕立て下ろしの上着を脱ぎながら、男はこのとき、またも客以外の人間に意識をとばしていた。


「はーいこんばんは、おじさん」
 引き戸になった店の入り口をがらがらと勢いよく開けながら、綾子が声を張り上げる。
 その元気な声に店中が振り向くが、知った仲の人間ばかりであるようだ。綾子と見て取るとその視線が直ちに和らぐのが男にもわかった。
 ―――しかしながら、真っ赤なカクテルドレスに華奢なハイヒール、その上滅多にお目にかかれないような類の男を連れての来店は、掛け値なしに酔っ払いたちを驚かせたようだった。
「おや綾ちゃん、何だいその格好は?お見合いでもしてきたのかい。とびきりいい男連れて」
「あらやだ、違うわよ。この人は友達の友達。ねえ、それより今日の日替わりは何?おじさん」
 店の主人であるらしい、前掛けに鉢巻の男とテンポよくやり取りするのを、後ろにおとなしく控えた男は第三者的に眺めていた。普段ならば店とのやり取りの一切を男が仕切るのだが、今日はまるで逆の立場である。こうなったらとことん相手のペースに合わせようと高見の見物を決め込み、久々の庶民的な居酒屋の空気に懐かしく親しむ男だった。
「おらよ、綾ちゃんのために特等席を空けてやったぜ。お連れの兄ちゃんと一緒にこっちへ来た来た」
 店の奥のテーブルをわざわざ空けてくれたのは、綾子と顔馴染みであるらしい二人連れの客だった。綾子はありがとうと笑顔の大サービスを振る舞い、さらに景気よく、こちらに大ビール一本あたしの奢りでね、と店の親父に注文している。そして、そうした一連のやり取りを眺めている男に振り向き、
「ほらほら上がりなさいよ。掘り炬燵じゃないけど、足崩していいからね」
と自ら率先して靴を脱ぎ始める。気取りもせずにさっさと靴から足を抜いた彼女だが、上の段に登ると向きを変えて靴の踵をきちんと揃えて並べる仕草は、幼い頃から厳しく躾けられてきた彼女の過去を如実に物語っていた。
「ああ、正座は慣れていますからお気遣いなく。それにしても、これは久しぶりです」
 靴を脱いで一段高い畳に上がる形式の座席に懐かしい新鮮さを覚えながら、直江も彼女同様のきちんとした所作を経てテーブルについた。
「おじさん、あたし日替わりね。……で、あんたは何にする?」
「私も日替わりで。後はあなたのおすすめにお相伴預かります」


「あんた強いわねぇ。あたしと飲んで顔色変わらない奴って二人目だわよ」
 生のままの日本酒の杯を幾度重ねても涼しい顔をしている男を見て、酒好き魂に懸けて対抗してきた綾子は、やがて、感心したように呟いて杯を置いた。
 日替わりの定食をメインに、綾子のおすすめ一品料理をテーブル一杯に広げ、そこらには滅多にいない見目良い男女の二人連れは、クリスマスも近いこの季節には全く相応しからぬ、色気の全く無い食事風景をかもし出している。
「こういう商売をやっているとこちらが先に潰れるなんて問題外ですからね」
 酒の入ったガラスのコップをテーブルに置いては、上品に箸を使って料理を口に運び、その味に満足げな微笑みを浮かべる男である。本来の仕事中ならば惜しみなく相手へと向けられているはずの瞳や微笑みは無く、美味い料理に対する自然な反応として無意識に唇を綻ばせるのみだ。
 対する綾子は綾子で、ひたすら健啖家ぶりと酒豪ぶりを発揮した後は、とろんと目をうるませて独り言を始める始末。
「あぁ、でもあの人は弱いのよね〜あたしが二杯飲んでる間にもう寝入っちゃって可愛いったら〜」
 半ば寝言になってしまった言葉が、その唇からこぼれた。
「綾子さん?」
 男は相手の酔いを知り、その肩を揺すぶってみたが、反応は無い。器用に皿と杯の間に突っ伏して、綾子はぐっすりと眠っていた。

 こういう無防備な墜落睡眠も、彼と似ているな……

 くすりと洩らした微笑は、夜もたけなわの居酒屋にあってはその場の誰も気づかなかったが、もしも見た人間がいれば、男は誰かとても大切に愛しんでいる者を思っているのだろうと推量したに違いない。


 支払いを済ませ、ほっそりとしている割にしっかりと重さのある体を横抱きにしてタクシーを拾った男は、居酒屋の主人から聞いた綾子の住所を運転手に告げると、自分もシートに背を預けて目を閉じた。


04/09/05



居酒屋の畳で正座して酒盛りをする超一流ホスト。
……。
スーツの上着を脱いだところで、場にそぐわないのは確実ですな。

そしてツッコミ。綾子さんの「あたしのおごりで大ビール一本」も、結局直江さんが払わされてしまいました(笑)

ではでは、読んでくださってありがとうございました。
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