Cherry,
Cherry,
Cherry!




















 12

「……?」
 テレビはうるさいし気が散るから、といつものようにFM放送を聴きながら洗濯物を畳んでいた高耶は、ふと、ラジオから聴こえてくるものとは異なる物音を感じ、畳む手を止めて周りを見回した。
 六畳一間の小ぢんまりとした生活空間には、普段と異なる何物も見当たらない。物音は家の中ではなく、外から聞こえてきたものであるらしい。アパートなどの住宅が立ち並ぶこの近所では、終電を過ぎると往来を行き来する人間は殆どいないので、道路をただ歩いている靴音でも結構な音量となって家の中へ聞こえてくるのだ。殊に、一人暮らしの青年のように、自ら物音を発生することが少ない家では。
 さて、よくよく耳を澄ましてみると、彼はそれが複数の人間の話し声であることに気がついた。

 ……お客さん、大丈夫ですか。足元が随分あやしいですが―――
 ……ああ、大丈夫です。この人を送ったら私も帰りますので、申し訳ありませんが、表で待っていていただけますか―――

 会話の背景に車のアイドリング音が聴こえてくるところから推して、タクシー運転手とその客であろう。
 しかし、青年を硬直させたのは平凡な会話の内容などではなく、『お客さん』の声に聞き覚えがあったからだった。

「―――直江っ !? 」

 悠長に洗濯物を畳んでいる場合ではない。
 高耶は次の瞬間には飛び上がって部屋を突っ切り、薄くて頼りない安アパートの扉を壊す勢いでガチャリと開け放っていた。



 酒豪のくせに墜落睡眠してしまった綾子を自宅まで送ってきた直江は、彼女に付き合って杯を重ねるうちに自分も酒量を過ごしてしまったことに、タクシーに揺られる道中で気づいていた。
 久しぶりの強い酩酊感に精一杯神経を張って対抗しようと試みつつ、綾子を抱いてアパートの下に立つ。タクシーの運転手はそんな彼の様子に気づき、心配そうに車から降りてきた。

 大丈夫かと問われ、彼女を送ったら帰るから車で待っていてくれと頼んで、運転手が踵を返したとき、急にアパートの一室の扉が物凄い勢いで開かれ、意外な人の声を聞いた。

 直江!―――と、自分の本名を叫ぶのは、五日間ぶりに聞いた彼の声だった。


「高耶さん?」
「やっぱり直江だ!どうしてお前がこんなところにいるんだ?」
 重い荷物を抱えていて機敏に動くことができない男を、突っ掛けで走り出てきた青年が階段を駆け下りてきて補った。
「……って、ねーさん !? どうかしたのか?」
「ああ、大丈夫ですよ。酔って眠っているだけです」
 腕に抱いている女性に気づいて驚きと心配の表情になった青年だが、男が首を振って否定してやると、ほっとその緊張が緩んだ。
「それより、あなたもここに住んでいるんですか?」
「ああ。もともとオレが住んでて、便利なところだって話したら、ねーさんも越してきた」
 立ち話はともかく、ねーさんを寝かしてやらないと……と呟いて綾子のハンドバッグを開け、ねーさんドア開けるからな、とことわりながら、青年は部屋の鍵を取り出した。
「ねーさんもオレも二階だから、ついて来いよ。手が塞がってて鍵開けられないだろ。手伝うよ」
「ありがとうございます。じゃあお願いしますね」
 鍵とハンドバッグを手にして先導する青年の後ろについて、重い荷物を抱えた男は一歩一歩気をつけてアパートの鉄板階段を登っていった。



「どうもありがとうございました。お陰で助かりました」
 二人がかりで綾子をソファに寝かせ、目に付いたタオルケット類で体を包んでやってから、部屋を出て鍵をかけ、郵便受けに返却すると、男は青年に向かって小さく頭を下げた。
「いや、別に何もしてねーよ。直江こそ、ねーさん送ってきてくれてありがとな」
 青年は大きく首を振って、ふわっと笑顔になった。目の前に相手がいて、話をすることができるのが嬉しくて仕方が無いという表情だ。尤も、辺りが暗いので、その表情は相手にはつぶさには観察されなかったのだが。
「一応今夜のお客様ですからね。それにしても、まさかあなたに会えるとは思わなかった」
 一方こちらも心底からの微笑みを浮かべ、男がつと手を伸ばす。湯上りなのか少し濡れた感のある艶やかな黒髪に指先を遊ばせる仕草は、まるで猫を撫でる愛猫家のようだ。
 可愛い可愛いと言わんばかりの動きで髪を撫でられて、青年は思わずドキリと首をすくめた。
「直江……」
 酒豪の綾子と付き合ったからには、相当量の酒を入れているに違いない。そのためなのか、普段とはどこか違うとろりとした眼差しが、青年の奥底に燻る感情に揺さぶりをかけた。

 ああ、直江、ちょっと酔ってるんだ。
 いいかな。
 それなら、触ってもいいかな。直江の髪の毛。柔らかい茶色の髪。

 高耶は相手の眼差しに惹かれるままに身を乗り出し、手を伸ばした。
 たまらなく好きなその男へ向かって。五日間声を聞けずにいた、夢にまで見そうになった、その男が目の前にいる。辺りは暗くて、静かで、誰もいなくて、しかも相手はほろ酔い加減。
 酔いに任せて触るくらいには、大胆になってもいいんじゃないか―――。

 すっ……と伸ばされた手が求めるものに触れようとしたそのとき。
 男は急に目を閉じ、倒れこむようにして廊下の手すりに体を預けた。

「なおえっ――― !? 」

 青年は心臓が潰れる思いをして、その体に縋った。以前から心配していたことが的中し、仕事のしすぎで過労にみまわれたのかと思ったのだが、幸いなことに、すぐに男の両目は開かれた。
「直江……どうしたんだよ。お前こそ具合悪いんじゃないのか」
 びっくりしたあまり、青年の瞳は少しだけうるみを帯びている。その瞳を間近に見て、男は済まなさそうに微笑んだ。
「ああ……すみません。実は、彼女に対抗して少し酒量を過ごしてしまったようなんです」
 お恥ずかしい、と微笑む男に、青年はほら、と肩を貸してやり、
「ねーさん強いからなぁ……でも、ねーさんが寝たってことは、直江はねーさんに勝ったわけだ。流石だな」
 うんうんと頷きながら相手の体を支えて歩き出した。
「でもこの状態じゃ、とても家には帰せねーな。今日はうちで休んでいけよ。狭いけど、お客さん用の布団くらいはあるから」
 足下のおぼつかない相手に肩を貸して自宅へと連れてゆく青年は、すっかり保育士モードになっている。先ほどまでは髪に触るだけで躊躇っていた恋する青年そのものだったのに、今は半身が密着していてもドキドキすることもなく、世話焼きの血が騒いでいる様子だ。
「すみません、お世話をかけて」
 いよいよ抗いがたい眠気にみまわれながら、男はゆっくりとした発音でそんな青年に礼を言った。肩に凭れる重みが、彼の眠気に比例して段々増してゆく。
「いやいや。うちなんか何のもてなしもできねーし。……ああ、オレやっとくからいいぜ。そのままで」
 標準よりも大柄な男二人が並んで入るには狭すぎる玄関で、よく磨かれた質の良い革靴を脱いだ男は、いつものようにそれの向きを変えようとして屈み込もうとしたが、相手の体調を最優先したい青年は首を振って中へと誘った。

「こっち座れよ。ほら」
 青年に勧められるまま、男はすみませんと言いながら畳の上に座った。いつか、酔うと寝てしまうと言っていた男は、確かにこの時点で既に焦点があやしくなっている。どうにかコートと上着を脱ぎ、半分眠りながらもきちんと畳んで自分の傍らに置くと、彼はそれ以上一歩も動けなくなった。
「これ、水」
 青年がコップに入れた水を持っていくと素直に飲んで、彼はとうとう目を閉じる。
「すみません、寝ます……」
 殆ど夢の世界に居ながらも律儀にそうことわり、その次の瞬間には彼は寝入ってしまった。畳の上にきちんと正座した状態で瞼を下ろし、体を揺らすこともないそのさまは、一見すると瞑想する僧侶のようにも見える。
「おい、直江、そんな端っこで寝るなよ……無理か」
 青年は相手を移動させようかと考えたが、すぐに諦めた。自分以上の長身を移動させることができるほどの腕力は自分にはない。下手に触って起こしてしまったらかわいそうだ。
 彼は相手をその場に置くと、押入から布団を持ってきて男の傍らに敷いて、そこへ慎重に男の体を横たえてやった。一番上まできっちり留められたボタンが眠るには窮屈そうに見えたので、上から二つ外して幾分楽な格好にしてやると、男は目を覚ます気配もなく静かに寝息をたてている。

「ほんとに直江も寝るんだな……」
 子どものように熟睡している相手を飽くことなく見つめながら、彼が以前言っていたことを思い出して、高耶はくすりと笑った。
 仰向けではなく横臥して少し丸くなった姿をお昼寝中の園児たちと重ねて、直江にもあんな頃があったんだなぁ……と昔を想像してみた彼である。
 きっとこの長い睫毛は幼稚園の頃から保母さんたちをめろめろにさせていたに違いない。こんな綺麗な鳶色の目が幼児特有のぱっちり眼に見開かれ、しかもその周りをこんな長くて濃い睫毛が縁取っていたのだ。母性の面でも、女という意味でも、保母さんは瞬殺間違いなしだろう。
 顔立ちだって、昔も今もとびきりの別嬪さん。肌なんかつるつるふかふかで、ほっぺもぷくぷくしていたんだろう。
「……可愛すぎる……」
 目の前に眠る、自分より十一も年上の男の時計の針を三十年ほど戻して想像し、青年は思い浮かんだ姿に頭を抱えてしまった。

 パッパー!

 些かおかしな方向にテンションを上げようとしていた彼を現実に引き戻したのは、外から聞こえてきた車のクラクションだった。

 一瞬それが何を意味するのかわからず、こんな夜遅くに非常識だな、と眉をひそめたが、すぐに男の乗ってきたタクシーだと気づいて、彼は慌てて立ち上がった。
「忘れてた……金払わねーと」
 急いで通学用鞄をさぐり、財布を引っぱり出すと、彼は精算のために外へ出ていった。



04/09/13



高耶さんちの畳で正座して熟睡する超一流ホスト。
そして高耶さんは危ない妄想に頭を……(笑)

ほのぼの路線のはずなのに、むしろコメディになりかけているような気が。
―――それでいいのか?

ではでは、読んでくださってありがとうございました。
ご感想をformにでも頂けると嬉しいです。


Cherry, Cherry, Cherry!

next : 21
back : 19



midi by : Nocturne
Photo by : おしゃれ探偵