タクシー運転手に事情を説明してここまでの料金を払おうとしたところ、ここまでの分は既に男が精算を済ませているとのことで、青年は少し拍子抜けしながら去りゆくタクシーを見送った。
「それにしても、ねーさんが直江の客って……どうしたんだろ。慎太郎さんにぞっこんなのになぁ」
ふと浮かんできた疑問を呟き、まあいいかときびすを返す。真夜中を過ぎた住宅街はひっそりとして、十二月の寒空に薄着で飛び出してきた青年は思い出したようにぶるっと身震いした。
「ただいま」
返事はないだろうとわかっていながら、家に入るときは習慣で呟く。それに、今日は一人ではない。眠っているとはいえ、これまで二十二年の人生の中で一番気になっている特別な人間が、そこにいるのだ。
今頃になってどきどきしながら、六畳一間の我が家に上がった青年だった。
「直江……熟睡してるな」
並外れた長身を狭い六畳に横たえている男をちらりと見やり、彼はその体を避けるようにしてわざわざ遠回りに炊事スペースに向かう。落ち着かない気持ちを何とかしようと冷蔵庫を開ければ、運悪く作り置きの茶が切れており、すぐに口にできそうなものは牛乳だけだった。
「賞味期限が切れると困るしな……飲むか」
ひとりごちて、マグカップを用意する。とぽとぽと音をたてて注がれた牛乳は想像以上に冷たく、喉を流れる刺すような感覚に彼は眉をしかめた。
マグカップを空にして、殊更にのろのろと洗って、水切りかごに伏せて置いて、いつになく時間をかけて歯磨きを済ませて、戻ってきても相変わらず位置を変えずに熟睡している男を見つけて、所在なげに佇んだ青年は、ようやく、気になる人間の側に近寄ることにした。
そうっと枕元に膝をついて寝顔を覗き込む。
いつか一緒のベッドで目覚めた朝と同じように、飽くことなく見つめる。
彫刻よりも綺麗な顔立ちと、少しだけしかめた眉間、伏せられた瞼を縁取る長い茶色の睫毛。僅かに開いた唇。ゆっくりと繰り返される微かな寝息。
ゆっくりと、手を伸ばす。
さっきまで、触れようとして触れられなかった、綺麗な茶色の髪。指を通してみれば、するすると滑らかに梳くことができる。自分よりも少し柔らかい髪質。
さらさら、さら。
相手の意識の無いのをいいことに幾度も梳いていると、病み付きになってしまいそうな気がした。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
くしゅん。
……くしゅん。
繰り返される小さな物音が、微睡む意識を急速に浮上させてゆく。
(何の音だろう)
夢の中で呟いたとき、現実にも寝言を紡いでいたことに気がついた。
意識が現実と結びついた瞬間、はっと目を開けると、目の前には人の顔があった。目の前といっても、至近距離ではなく、手を伸ばして届く程度のところだったが。
くしゅん。
目の前で眠っているいる人が誰だか気づくのとほぼ同時に、その人が小さなくしゃみをした。
「高耶さん……」
十二月の最中、この寒い季節の夜だというのに、その人は布団もかぶらずに横たわっている。くしゃみをして当然だ。
何か掛けるものを、と慌てて身を起こすと、自分の体を覆っていたものが、ばさり、と肩から滑り落ちた。しっかりと重みのある掛け布団である。
男は煌々と明かりのついたこの部屋が目の前にいる青年の家であり、自分は酒に酔って彼に介抱されたのだということを思い出した。
青年は男に布団を使わせてやると、その傍らでうっかり眠ってしまったのだろう。
「私にだけ布団を掛けてくれて……あなたが風邪をひいてしまったらどうするんですか」
申し訳なさと愛しさを混ぜ合わせたような表情で呟いた男は、相手を起こさないように静かに布団から出ると、掛け布団を横に除けて青年のために場所を空けた。
相手の背と膝裏に手を差し入れ、そうっと抱き上げて敷き布団の上に移動してやる。目を覚ます気配の無い体を仰向けに横たえてやり、その体の下から手を抜いて身を離そうとしたとき、彼はおやという顔になった。
「……これは」
いつの間にやら、青年の左手が男のシャツの胸元を握っている。乱れの無い寝息から察するに、無意識の仕草であるようだ。
布団を彼に返してやって自分は暇を告げようと考えていた男は、帰すまいと引き止めるかのような相手の様子にくしゃりと顔を崩した。
「それじゃあ、失礼してご一緒させてもらいますよ……」
先ほど抜け出たばかりの布団に再度横たわり、横に除けておいた掛け布団を引き寄せて二人の体を覆うように整える。
「ん……」
すぐ傍にある人肌の温もりを感じたのか、青年が微かに寝言を洩らし、縋るように男の方へ寝返りを打った。
そんな仕草を見て、男はとても愛しそうに微笑むと、相手の寝顔に手を伸ばし、少し乱れていた前髪を指先で梳いてやる。すると、夢の中にいる相手は、人に構われて喜ぶ仔猫のようにほわっと笑った。その笑顔にいっそう目を細める男である。
「病み付きになりそうですよ……」
髪を梳いたり、頬を撫でたりと、ひとしきり可愛がってようやく満足した男は、どんどん近くへ寄って来る体をしっかりと腕に抱き寄せて目を閉じたのだった。
煌々と明るい六畳間には、そして、二人分の穏やかな寝息が繰り返される―――。
04/11/21
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