9
先週に続いて二度目の朝帰り―――時刻は既に昼だったが―――をした青年を迎えたのは、今回も鍵の掛かっていない無用心な自宅の扉だった。
きちんと揃えて置かれているのは、狭い玄関には不釣合いに高価そうなぴかぴかの革靴。
部屋の主である青年は、それを見てやはりとため息をついた。
「まぁた鍵も掛けずに上がりこんでやがるのか? うちだって、金になるものは無くても、盗られて困るものはあるんだぜ。
―――おい、千秋!いるんだろ?」
自分も、年季の入ったスニーカーをきちんと揃えて脱ぎ、小股一歩で中へ上がるが、首を回さなくても全体が見渡せる狭い六畳一間のアパートに、なぜか友人の姿は見当たらなかった。
靴があるからには、この部屋のどこかにいるはずなのだが。
前述の通り、どこか、という言葉を使う必要があるほど広くはないスペースである。隠れる場所など一つしかない。
「?」
奥の扉の向こうにある洗面所にでもいるのだろう。そうでなければ、手洗いか。
青年は、ふむ、と首を傾げてそちらへ向かっていった。
「千秋?」
扉の前に立って声を掛けたが、内部に人の気配らしきものは感じられない。
明かりもついていないし、シャワーの水音もない。
「……いねーか。どうなってるんだろ」
青年は念のために扉を開けてみて、やはり空っぽの空間を確認すると、不思議そうに首を振って頭を戻した。
―――そして。
くるりと体の向きを変えて畳の部屋へ向き直った彼は心臓が飛び出すほど驚くことになる。
「…… !? ちあき !? 」
つい先ほどまで誰もいなかったはずのその六畳一間のど真ん中に、座敷童子よろしくちょこんと正座しているのは―――確かに人の悪い友人。
目が合って皿のようにまん丸に見開かれた青年の瞳を見ると、金色の髪のその男はひらひらと片手を振って見せた。
「よう」
にや、と楽しそうに片頬を吊り上げて笑う男は、紛れも無く本物だ。
黙ったまま瞳だけで訴えでもされたら生霊か何かかと思ってしまいそうだが、面白そうな声音は現実のもの。死んだ友人が最後に一目会いに来た、という嘘臭いホラー話の類ではないようだ。
そこまで考えて青年はようやく正気に戻ると、大きく息を吸い込んで怒鳴った。
「―――『よう』じゃねぇ!おどかすな、この馬鹿千秋ッ!」
「あらァごめんなさい。ちょっとね、煙草が切れてたもんだから、角の自販機まで買いに行ってたのよォ。靴紐結ぶのも面倒だから、突っ掛け借りたのよね」
どうやらこの友人は青年が自分を探して奥の扉を覗くのを後ろから見たらしい。非常に楽しそうな顔をして、片手を斜めに口元に当てると、わざとらしいオネェ言葉で事情を説明し始めた。
聞けば聞くほど何でもない話である。靴があるのに本人がいなかったのは、青年の突っ掛けを無断借用しただけのことだったのだ。
「そういうことかよ……紛らわしい。びっくりさせんな!」
気の抜けた青年はがくっと首を前のめりに倒すと、園児に向けたら泣き出すこと間違い無しの迫力睨みを友人へ向けて凄んだ。
しかし、友人にしてみれば長い付き合いのうちに見慣れた視線である。「あらァ怖い」と口元の手をくねらせて笑うだけだ。
「気色悪ィからその喋り方やめろ!あ〜寒気がする……うう」
青年は本気で鳥肌を立てて、ふざけるばかりで暖簾に腕押しの相手は放っておくことに決め込むと、コンロに足を向けた。
熱い茶でも淹れて心身を温めようと思った彼の背に、ようやく口元の手を下ろした友人は、買ってきた煙草を取り出して火を点けながら、なおも笑いを消さないでいる。
シガレットバットに火を点けて形のいい唇に挟むと、彼は二三度煙を吸ったり吐いたりして満足そうに目を閉じた。
「……ほらよ」
やかんをコンロにかけて、お茶葉の入った缶と急須を調理台に用意した青年は、手元の辺りを何だか具合悪そうにしている友人を見て、しょうがねーなあという顔になると、何かを差し出してやった。
「―――お、気がきくねぇ」
窓の方へ視線を向けて煙を吸っていた男は、掛けられた声と近づいた気配に視線を戻し、手元に置かれたものを見ると嬉しそうに笑った。
灰を落とす場所が無くて困っていた彼は、タイミングよく差し出された灰皿の上にシガレットバットを下ろすと、軽く打ち付け始める。
「なんで煙草を吸わないオレん家に灰皿があるかなぁ……」
深い深いため息をつく青年だが、嘆きつつも灰皿を差し出してやるのだから、その灰皿をこの家へ持ち込んだ友人は笑った。
「やっぱさ、お前、嫁向きだわ。昨今稀に見るお買い得物件だねぇ」
すぱぁ、と煙を吐き出されて、青年はじろりと白い目を向ける。
「冗談はその性格だけにしとけよ、千秋。オレは断じて女じゃねぇ。誰が男に嫁入るか」
「いやいや、長年連れ添った夫婦みてぇなタイミングのよさ、気配り。女も顔負けだぜ。
あーあ、ほんとに女だったら俺様が貰ってやるのになぁ。勿体ねぇこった」
ぱふぱふ、と相手の前髪を乱しながらくすくす笑いをする友人を、青年はすげなくあしらう。
「たとえまかり間違って女に生まれたって、てめぇの嫁になんかならねーよ。冗談はその服の趣味だけにしとけ」
やかんがぐらぐらと音をたて始めたのを聞きつけて立ち上がった彼に、友人は腰を上げようとする素振りもなくどっかりと胡坐をかいたまま、耳に手を当てた。
「ああ?さっきは性格だけにしとけって言ってなかったっけ?」
「両方とも冗談だってことだ。取り得は顔だけだな」
狭いアパートだから、僅か数歩で目的地に辿り着ける。
コンロのところへ至った青年は火を止めてから急須の蓋を取って、缶の中から茶葉をスプーンですくった。
「顔は認めるわけか?ほう。かの橘義明と入魂の仲なくせに。イイ男なんか見慣れただろ」
「直江とじゃ比べる対象にならねーよ。あっちのほうがずーっとイイ男だぜ?優しいし。よく気がつくし。車の運転だって二種免並み」
急須の中へ三杯の葉を入れながら、青年は背中越しに会話する。茶葉の入った缶の蓋をきっちり閉めて戸棚へ戻す動作の途中で相手の返事が聞こえてきた。
「―――やっぱ惚れたか」
つい先ほどまではふざけていたはずの相手の声が、ふいに沈黙に似た静けさを帯びる。
「千秋?」
青年は戸棚の扉を閉めかけた手を止めて、振り返った。
彼の友人は、いつの間にか煙草を灰皿に打ち捨てて、格好だけは先ほどのままだらしなく、けれど瞳はまっすぐに、彼を射抜いていた。
「……」
目が合ったのは一瞬だったが、その僅か一瞬で、友人の瞳の中に、ひどく優しく、そして悲しげな光を見て取り、青年は黙って目を逸らした。
体を元の方向へ戻した彼は、やりかけていた動作に戻って戸棚の扉を閉め、コンロからやかんを取り上げると、急須へと静かに湯を注ぎ入れた。
彼の友人はそれ以上は何も口にしようとせず、再びシガレットを唇に挟んでいる。
いつの間にかまた窓の外を向いている瞳は、しかし、風景を映しているのではなかった。
普段はどんなにお茶らけているように見えても、彼の瞳はこうしてどこか遠くを見つめるとき、夜の海のように深い色をたたえる。いつものふざけた態度は決して作った仮面だというわけではないが、彼の本質は様々な経験を内に抱いていて、複雑なカットグラスにも似たものだ。誰が覗いてもその芯にあるものを知ることはできないし、誰が目にした一面も彼の中のごく一部でしかない。
まだ少年と呼ばれる歳のうちから故郷を離れて、おそらくは本人しか知らない苦労と経験を重ね、あちこちを点々と流れたのちに、とうとう今のような水物の商売に落ち着くことになった彼である。
むやみに他人の深みに関わらない彼が、本当は黙った仮面の下できっと色々なことを考えてくれているのだ、と知っている青年は、今のこの沈黙が決して自分を見放した証でないことをわかっているから、心の中で手を合わせながら、古い畳の上に丸いミニテーブルを広げた。
「―――茶、入ったぜ」
テーブルの上に湯飲みを二つ並べ、程よく抽出した頃合を見計らって急須を傾ける。交互に注いで、八分目まで茶を注ぎ終えると、青年は湯飲みの一方を友人の方へ押しやって、そう声を掛けた。
「おう」
気がついたように視線を戻した友人は、ふと僅かな笑みを唇に刻む。
湯飲みを押しやりながら、少しだけ上目遣いにこちらを窺うようにしている相手が、叱られるのをこわがる子どもに似た目をしていたから。
―――男に惚れるなんて気色悪い、とでも言われると思っているのだろうか。この俺様がそんなことを言うとでも。
「高耶」
「……何だよ」
千秋が友人の名を呼ぶと、呼ばれた方は一瞬びくりと瞳を揺らしてから、努めて震えぬよう抑えているらしい声で返事をした。
「何をビビってんだよ。顔上げろ顔。ンな弱気そうなツラしてたらガキどもにナメられっぞ!」
千秋はふふんと鼻で笑いながら、友人の額をぴしゃりと叩いた。
「てっ」
「なぁに言ってやがる、この程度で。ガキどもは俺様よりよっぽど容赦ねぇぞ?体当たりでぶつかってくるんだろ?もっとビシッとしろビシッとォ!」
平手でバシリとやられては容赦も何もあったものではない。青年は生理的な涙が浮いてくるのを感じながら友人を睨んだ。
「あぁ?そんな目じゃ全然足りねぇな。深志の仰木はどこ行った!妹にちょっかい掛けたバカどもを、睨むだけで震え上がらせたのは誰だったのかねぇ」
わざわざ怒らせようとイントネーションを調節して煽ってくる彼が、本当は自分の元気を取り戻させようとしているのだと、青年は痛いほどわかっていた。
「ちあきっ……」
目に力を入れようとすればするほど、視界がぼやけてくる。
ぼやけた視界の中で、千秋が笑うのが見えた。
「何だぁ?泣いてんのか?ばっか野郎、泣くことなんか何にもねーだろ。人を好きになって何が悪い?てめぇの感情の始末くらいてめぇでつけろ。てめぇで自信持たなきゃ誰が納得する?
……わかってねぇみてえだから言ってやるが、俺様は誰が誰を好きになろうが構わねぇよ。お前の気持ちはお前のもんだ。お前が何を思っても、その結果何を得ても、それでいいじゃねーかよ。つらかろうが何だろうが、お前の感情はお前のもんだろ。ほりゃ!」
お道化たようにデコピンをかますと、千秋は高耶をぐいっと引き寄せた。
『趣味の悪い』スーツの胸に頭を抱きこまれ、髪をぐしゃぐしゃにされながら、高耶は肌触りの良いシャツの布地に顔を押し付けて泣いた。
優男のように見えて実はしっかりした体。不器用なふりをして本当は器用な指は、髪をぐしゃぐしゃにするような仕草で慰めてくれてる。
顔を押し付けるとふわりと漂う、苦い香り。わざと辛口のを吸ってること、オレは知ってる。
そして、こんなに趣味が悪いのに、どうしてこのシャツはこんなにも柔らかくて滑らかなのだろう―――
「お前はお前の好きなようにしろ。俺は俺の好きなようにする。
たとえお前がお月さんに恋しようが、俺は変わんねぇよ。……わかってねぇなぁ、バカ耶」
そう、お前と同じだ。
口が悪くて、態度も悪くて、性格もはちゃめちゃで……
―――でも、本当は誰より優しい。
「じあぎ」
「ん?何だ?バカ耶」
「ありがど……」
「ばぁか」
『趣味の悪い』けれど質の良い布地が、高耶の拳の中でぐしゃぐしゃになるのも構わず、きつく伏せられた顔の下に涙がしみてゆくのも構わず、たとえそこで鼻をかまれようとも構わずに、口の悪いお人好しは、友人を抱きしめてその髪を撫でてやりながら、穏やかに微笑むのだった。
03/11/15
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