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目覚めると、長い睫毛があった。
伏せられた瞼に密生する睫毛は男とは思えないほど綺麗で、そこだけを見ればまるで眠り姫みたいだ、と思った。
でも目の前にあるのは自分よりも十一も年上の男の顔で、その貌は類稀な整いよう。
賢しく広い額にこぼれている前髪は地毛ながら綺麗な茶色をして、それよりも少し濃い色の眉はきれいな弧を描いている。男性らしい精悍さを見せるその眉間から、まっすぐに通った鼻梁は、どこか貴族的で、この男の出自を語るように思える。男性的な削げた頬と顎のラインは思わず触れてみたくなったほどで、そんな自分に気づいて内心で苦笑した。
―――そんなことを考えて、ようやく現実に気づく。
青年は目を見開いた。
なぜ、直江が目の前にいる。ほんの少し身を乗り出せばキスしてしまいそうな距離に。
向かい合う形になって眠る男の僅かに開いた唇からは規則正しい寝息がこぼれている。
青年は精神的にも肉体的にも硬直したまま、それを凝視した。
―――あぁ、そうか。昨日オレがいきなり熱出して、またここに泊めてもらったんだっけ。
考えてみれば夕食の途中からの記憶がない。
確か、話をしていて、何かでからかわれて、憤慨してやけ食いしたんだ。それで……
青年はゆっくりと記憶を手繰ってゆき、自分が誤ってワインをあおってしまったことを思い出した。
そして、彼は目の前で熟睡している男を改めて見つめ直す。
たぶんあの後直江がベッドに運んでくれたんだろう。
ほんとに毎回毎回、世話をかけてばっかりだな……。
目覚める気配のない男の寝顔を穴があくほど見つめて、青年は微笑む。
なんか、かわいい。
同じ男だと思うのが悔しいくらい整った顔は、眠っていると少し幼く見える。時折ぴくりと動く瞼とか、寝息をたてている唇とか、そんなのを見ていると手を伸ばして触りたくなる。
「……なおえ……」
青年はひどく大事なものでもあるかのように愛しそうにその名を呟く。
舌の上で転がすようにして、そうっと言の葉にのせる。
名を呼ばれても目覚めようとしない男に、彼は少し大胆になって手を伸ばしてみた。
触れたいと思ったのは頬や顎だけではなくて……
一週間前に初めて触れたその唇に青年は指先で触れた。
唇同士を合わせたときとは違う弾力。
自分よりも少し堅い。
目を覚ます気配がないから、ただ触れるだけではなくて、指先でなぞってみた。
上唇と、下唇。
間から静かな息吹がこぼれて指先をくすぐる。
思わず顔を近づけてキスしてしまった青年は、ふと正気にかえって真っ赤になった。
相手の意識のないのをいいことに、何てことを。
すぐさま距離を取ろうと思ったが、そのとき突然―――男が動いた。
腕が伸びてきて背中を抱く。
そのままぐっと胸の中に抱きこまれて、青年は気の毒なくらいがちがちになった。
「……おはよう……」
半ば寝ぼけた声が頭の上から聞こえる。
「な、なおえ……」
両腕で抱きしめられて相手の香りに包まれた青年が恐る恐るといった感じで名を呼ぶと、その腕の動きが止まった。
「みやび?いつから人間の言葉を喋るようになったんです……?」
「は?」
何かがおかしい、と双方が思った。
「え、た、高耶さん !? 」
「だ、誰と間違えてんだよ!」
がばっと身を起こして互いを認めた二人は、同時に声を上げた。
「……すみません!」
あろうことか青年を抱きすくめてしまっていたのだと気づいて、男は目を見開いた。
「あ……いや、ごめん、ちょっとびっくりしただけ……」
一方の青年は相手の謝罪に気が抜けたようで、強張っていた体から力を抜いた。
「みやびって、何なんだよ。お客さんの名前か?」
身を起こした二人は何となく距離を取って手持ちぶさたに見つめ合う。
ふと青年が疑問をぶつけると、シャツ姿で寝ていたらしい男は乱れた襟元を引っ張りなおしながら首を振った。
「いえ、自宅の犬です。普段は雅と一緒に寝ているもので……てっきり彼女だと思って抱きしめてしまいました。すみません」
手くしでさっと梳いた髪は少しラフな格好になっていて、青年は半ばそれに見とれながらその答えを聞いていたが、言葉の内容を頭の中で噛み砕くと妙な顔になった。
「犬と一緒に寝てるのか?」
この男が美女とではなくて犬と寝ているとは、意外な事実だ。
目をぱちぱちさせる青年に男は頷く。
「一緒に寝ているというか、勝手にベッドに入ってくるというか……。とにかく朝になると横にいますね。大抵は彼女が起こしてくれます」
さっきのは朝の挨拶なのだと彼は言って頭を下げた。ついつい癖で抱きすくめてしまったのだという。
「……オレは犬と同列かよ」
青年は複雑な思いを抱いて唸った。犬と間違えられたことへのショックなのか、その程度の認識しかなされていないと思い知らされたがゆえなのか、そのあたりは本人にも察しがつかなかったのであるが。
「すみません……」
男はひたすら謝るのみである。
弁解の余地はない。相手にとっては決して快いものではなかったはずの抱擁を、深く謝罪するよりなかった。
起き抜けに大の男に抱きすくめられていい気持ちのする男はおるまい。しかもそれが飼い犬と間違えての抱擁とあれば。―――尤も、誰だかわかっていて本気で抱きしめられても困るだろうが。
「ま、いいけどさ。……直江に言わせるとオレは直江のことを幼稚園児と同列に扱ってるみたいだし?」
やがて青年はくすりと笑って首を傾げた。台詞の後半は前回出会ったときのやり取りを思い出しての言である。男の笑くぼを気に入ったと言った青年に男は、私は幼稚園児と同じですかと苦笑いしたのだった。
「そういえばそうでしたね。今でもやっぱり意見は変わりませんか?私はまだあなたの中で園児と一緒?」
男も相手に合わせて笑う。じっと相手の瞳を見つめながら問う瞳は、今度はただひたすらに楽しそうに笑っていた。
青年はそんな彼の顔を見つめてにやりと笑った。
「また笑いじわが出てる」
ぷすっと人差し指の先で男の目尻を指して、彼は嬉しそうに首を傾げる。
「……変わらないということですね」
男は腕を組んで、また苦笑いした。その笑いにもきれいな笑いじわが出て、青年はますます嬉しそうである。
「いいなぁ。ほんとにいい感じ」
つんつんとその辺りを突ついて彼は目を細めた。対する男はそれを半ばくすぐったい気持ちで見ながら、
「お褒めいただき」
と悪戯っぽい光を瞳に宿す。
「そうそう、褒めてんだよ。素直に喜んでくれよな」
うんうんと頷きながら心底楽しそうに青年は笑った。
「―――ところで、もう具合は大丈夫ですか?見たところ、熱はなさそうですが」
ひとしきり笑い合った後で、二人は上掛けを除けてベッドを出た。
ぐーっと伸びて気持ちよさそうに息を吐く青年に男が声を掛けると、相手は振り向いて頷く。
「全然平気。悪かったな、また邪魔して。一緒にいた女の人、前んときの人だったよな」
ごめん、と頭を下げる彼に、男はいいえと言って首を振った。
「彼女もあなたが心配だからと言っていました。邪魔だなんて思っていませんよ。それに、会えて嬉しかった」
にこりと微笑まれて青年は動けなくなる。
相手の真意が自分とはすれ違った場所にあるということはわかりきっていたが、それでもそんな台詞を言われるとどきどきしてしまう。
期待なんてしているつもりはないけれど、意識が過敏な状態になってしまっているせいだ。どんな種類の好意であれ、くすぶる火種に勢いを与えるには容易い。
「オ、オレ、シャワー借りる」
つい先ほどの一連の出来事を思い出して真っ赤になりそうな自分を自覚し、彼は慌ててその場から逃げ出したのだった。
酒も抜けて全くの素面であったのに自分からキスをした、その相手をまともに見つめてなどいられない―――相手には気づかれていなかったにしても。
一方、残された男は前回も同じようなことがあったなと思い、一人くすりと笑う。
微笑みかけてやると嬉しそうな顔をして、次の瞬間には照れて赤くなる様子が、とても可愛いと思い、二十二にもなった立派な男の子にそんなことを思った自分を少し不思議に感じた。
少しして、男は、間取りがわかっていないためにどこがバスルームなのかわからず、あちこちの扉を開けては閉めているらしい物音に吹き出した。
そして彼は慌てているであろう青年に向かって笑い混じりに声を掛ける。
「この部屋に入ってすぐのところに扉があるでしょう?それがバスですよ」
「……ありがと」
ややあって、赤い顔をした青年が決まり悪そうに扉から顔を覗かせた。
「いいえ。どうぞ、ごゆっくり」
今度こそ正しい扉を開けて、控えめに閉じる物音を聞き、男は一人、楽しそうに笑うのだった。
彼が本当に楽しそうに、滅多に見せないリラックスした笑みを浮かべていることを―――目ざとい人間が見たならば一目で看破してしまったであろうその表情を―――まだ、誰も知らない。そう、本人すらも無意識のまま。
★ ★ ★ ★ ★ ★
第二夜は、そんな一幕。
純情な青年は悩みすぎた末の知恵熱で倒れ、
お客最優先のはずの男は客を放り出して介抱に勤しむ。
酒に弱い青年は眠り際に取り付けられた約束を知らず、
朝に弱い男は青年から為されたおはようのキスを知らない。
全くの無垢で慣れない青年は言葉を知らず、
生業ゆえに慣れきっているつもりの男は本物の感情を知らない。
それでも―――確実に世界は変わっている。
その人のいる世界へ、
その人を中心に動いている世界へ。
そして、たった一人のその人がやがて世界を完全に支配するそのときまで、
ゆっくり、ゆっくりと、色彩は変わってゆく―――
03/10/19
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