「……すみません。何だか元気がなくなってしまいましたね。私が余計なことを言ったからですか。本当にすみません。あなたにそんな顔をさせたかったわけではないのに……」
男はそんな青年に心配な顔になった。
俯き加減になった青年を覗き込み、真摯な声音で謝罪する生真面目さが彼の誠実さを物語っていて、青年にはよりいっそう慕わしかった。
大きな手のひらがそっと頭に置かれて、あやすように髪を撫でてくる。
「すみませんでした」
優しい手の動きが愛しくて、嬉しくて、泣きそうになる。
「……怒ってねぇよ」
青年は精一杯の思いで顔を上げた。
「直江が謝ることじゃない。子どもっぽいことして恥ずかしかっただけだ。だから謝らなくていい」
見上げると、いつも変わらない瞳が申し訳なさそうな光をたたえてまっすぐに見下ろしている。
「……それでも、あなたにとって失礼なことを言ってしまった」
傷つけたくてからかったわけではないのにと後悔する彼に、青年は首を振った。
自分が顔を曇らせたのは相手の台詞のせいではないのだ。尤も、それを告げることはできないが。
「いいってば。ちょっと前にも千秋の奴に同じようなことを言われたから、思い出しただけ」
言い訳の代わりにそんなことを言うと、男は僅かに首を傾げて問うてくる。
「同じって、リンゴ?」
「そう。あの野郎は青森リンゴって言ったけど」
青年が肯くと、男はふむ、と顎に手をやって、微笑んだ。
「なら私は長野リンゴということで。いっそ『世界一』でもいいですけどね」
『世界一』というのは男の大きな手にも余るのではないかというサイズの日本産のリンゴの名である。対比として思い浮かぶのは、昔食べたことのある馬鹿でかい梨である。名前を忘れてしまった、とふと青年は思った。
「赤さ世界一、とか言ったら殴るぞ」
「違いますよ。もっと色々な意味で世界一なんです。"only one"と言ってもいいですよ」
男は上目に軽く睨んできた青年にそんな言葉を返す。
わざと気障っぽく発音された英単語に、青年は思わず吹き出した。
「オンリーワンって……何だよそれ」
「世界に二つと無い、という意味ですよ。ね、世界一でしょう」
男は説明して片目を瞑ってきたが、その程度の単語の意味くらいわかっている。
「そうじゃなくて、何でオレがオンリーなんだよ。どういう意味なんだ、それ」
君は僕のオンリーワン、とか言ったらぶん殴るぞ、と冗談めかして言った青年だが、その心中は複雑だった。
そんな青年の心中に気づく由もなく、男は首を傾げる。
「ある意味、そうなんですけどね。あなたのような人は初めてだ。こんな風に楽しく過ごせる人なんて」
極上の笑みを向けられ、青年は僅かに赤みを増した頬を自覚しながら、敢えて目を逸らした。
相手の瞳と自分の瞳は、別の次元で交わっているのだから。決して同じではない。
「―――だからさ、直江は仕事のし過ぎなんだよ。少しは息抜きもしろよな」
びしっ、と人指し指を突きつけて、青年は別の話題を持ち出すことで自らの心を振り払った。
男は自分を心配してくれる彼に微笑ましい思いをして肯いた。
「息抜きですか。例えば?」
「例えばって……どっか田舎に行ってのんびりするとか。あ、でも直江みたいなのが田舎に現れたらあまりにも不似合いすぎるか……そうだな、あれだ、海外のリゾート!そういうのだったらぴったりだ」
青年は例えばと聞かれて首を傾げ、それから出まかせに言った言葉に自ら首を振り、次に、思いついたように手を打った。
「えーと、……そう、思い出した。コタキナバル!あの辺の海ってすげー綺麗だって聞いたぜ。そういうとこ行ったら?」
どうだどうだ、と瞳の奥を躍動させながら見上げてくる様子の微笑ましさ。
「海ですか?」
問うと、相手はこくこくと頷いて言葉を次いだ。
「うん。透明な水と眩しい太陽、溢れる緑……とかいうキャッチフレーズだった気がする。直江、泳ぎとかも得意そうだし」
「―――カナヅチだと言ったら驚きますか?」
疑いもせずに言う青年に、男は悪戯心を出した。意味深な間を置いてから口を開くと、相手は驚いて目を見張る。
「カナヅチ !? 直江が !? 」
叫んでから、
「……嘘だろ?」
「嘘です」
恐る恐るといった風に声を低める彼に、直江はくすりと笑って肯いた。
間髪をいれずに即答されて、からかわれたことに気づいた青年はたちまちぷうっと膨れる。
「……オレをからかって楽しいのかよ。意地の悪い男だな」
怒ったぞとばかりにフォークを突き立て、彼はメインディッシュの付け合わせとして添えてあったポテトをぽいぽいと口に放り込んだ。
マナーも何もかも放り出して行儀悪く大量に頬張った彼は、まるで親の仇でもあるかのようにがふがふとそれを噛み砕く。
ひとしきり噛んだ後で彼は傍らにあったグラスを引っつかんだが、男はなぜか慌てて止めた。
「高耶さん、待っ……」
だがその制止は既に遅く、青年はグラスの中身を一気に喉に流し込んでいた。
「……ん?なに、なおえ」
ポテトをすっかり飲み込んでしまった青年は男の様子に気づいて問うたが、既に呂律があやしい。
そう、青年があおったグラスは彼のものではなく、男のものだった。
中身はシャンメリーではなく、正真正銘のワインである。アルコール度数はウィスキーとまではいかないにしろ、シャンメリーとはわけが違う。
青年はそれを一気に飲み下してしまったのである。
「あなたときたら……。また酔ってしまいますよ。どうするんです?」
「なんで?大丈夫だってば。オレは正気だよ」
青年は不思議そうに首を傾げているが、その瞳は半ばもやをかけたように微睡んでいる。
男は深いため息をついて相手の手から空のグラスを取り上げた。
そして、それをそっと掲げる。
「……あなたの正気に乾杯」
―――むしろ『完敗』かもしれないが。
既に手元があやしくなっている青年からフォークも取り上げて、男はぱたぱたとその頬を叩いてやった。
「高耶さん。高耶さん、眠るのならベッドに行きましょう。風邪をひきますよ」
「ん〜……」
青年の黒い瞳が瞼の下から見え隠れする。
懸命に開けようとするのを、体が許さないといったような風である。すっかり寝る体制に入ってしまっている様子だ。
「熱っぽいような状態でお酒が入ったりしたら……見事なものですね……」
男は半ば独り言めいた呟きを落として青年の肩と腰に手を回した。
力を入れすぎないように気をつけて体を支え、立ち上がる。
「なおえ?」
「眠かったら寝てかまいませんよ。運んであげますからじっとして」
「ん……」
しっかりと体を支えられて安心したのか、青年は目を閉じてしまった。そうして懐くように体を寄せてくる。
ぺたりと張り付かれて男は閉口した。これでは運びようがない。
「高耶さん、そんなにくっついたら動けません。いい子だから腕を離して」
背をぽんぽんと叩いて言い聞かせても、青年の腕は緩む気配がない。
「なおえ〜あったかい」
ぎゅうっと抱きついての呟きに、男は思わず破顔した。
「高耶さん、甘えてるの……?」
「む〜……」
完全に寝ぼけているらしい青年は、寝言とも返事ともつかない声を返したのみ。
無防備に懐いてくるのを可愛いと思う自分を、男は意外とも思わずにいる。
「高耶さんは男の子でよかったですね。女の子がこんな風に警戒心を持たないでいたら、どうなるかわかりませんよ?もう少し気をつけないと」
そんなことを言っても、既に眠りの世界に引き込まれつつある相手には理解されない。
「……ぇ……」
彼が何ごとかを呟いたのに気づいて、男はその体をぐいと抱き上げた。
「何ですか?聞こえませんよ。もう一度言って」
相手の唇を自分の耳元に近づけるようにしてから言ってやると、相手はこんなことを言っていた。
「なぉ、ぇ……ちゃんと……休み、取れよ……体壊したら……元も子も、ないんだからな……」
男は今度こそ微笑んだ。
「ありがとう、高耶さん」
ぎゅっと背を抱きしめて囁くと、相手は、ん、と言って首をすくめる。
くすぐったいのだろうか。その仕草があまりにも可愛くて、男はますます強く相手を抱きしめた。
「ねぇ、そんなに言うなら一緒に行きましょうか、コタキナバル。一人で行ってもつまらないけれど、あなたが来てくれるのなら楽しそうだ」
相手にまともな返事ができないことはわかった上で敢えてそう囁いた。
「約束ですよ……?」
相手から返ってきたのは、規則正しい寝息だった。
03/07/04
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