シアワセノジョウケン
ようやく定まった『居場所』に安んじていられたのは、翌朝までのことだった。 朝。 いつものように魔法使いの腕の中で目覚めた彼は、珍しく目を覚まさない相手に少し驚きながら その腕から抜け出し、寝台の傍で丸くなっているハリを踏まぬように気をつけてそっと床に降り立して、 リビングに至ると、籐のソファの上に上がりこんで背凭れにことんと頭を預けた。 「……昨日は怒涛の一日だったな……」 思い出すと、果てがない。 情報屋と交わした約束はフイになってしまったけれど、『魔女』の話を聞きに行った。 ハリと一緒の市場も楽しかった。初めての世界はあんなにも鮮やかで生き生きと綺麗で、とても好きになれた。 そして、帰って来たら、今度は魔法使いから突然の告白を受けた。 居場所を失くした自分に、確かなその場所を与えてくれた。 傾きかかっていた天秤は、その男のもとへ振り切れた。 今、こんなにも安堵している自分がいる。あの男の優しさゆえの残酷を恐れていたけれど、それはもはや過ぎたのだ。 傍にいてほしいのだと、いなくならないでと、言ってもらえた。 どんなにそれが力になったか。 自分の中で漲っている熱い血の流れがそれを証している。 これまで精霊力が消え、体温が落ちて、このままもしかしたら全ての力が消えて緩慢な死を迎えるのではないかと 恐怖していたのに、そんなことが嘘のようにこの体は生き生きと命の力を増している。 「羽……出せないかな」 ふとそう思って、戯れに力んでみたが、さすがにそれはできなかった。 でも、それでも構わないのだ。 もうこの場所が自分のいる場所だから。 どこへも行かない。 それなら、羽はもう要らないのだ…… 羽を失くした妖精は、代わりにこの上ない安堵とあたたかな場所を手に入れた。 何ものにも替えがたい、彼だけの場所を。 そうして微睡むように目を閉じていると、ふいに耳障りな音を聞いた。 そう、ちょうどカラスの鳴き声のような音を。 「?」 何だろう、とリビングの向こう、柱を透かして見えている庭へと視線を向けると、果たしてそこには一羽の 大きなカラスがいた。 まさに大鴉と言っていいだろう、漆黒の体。優美な線を描くそれは、ふつうのカラスには見えなかった。 ハリがふつうの虎に見えないのと同じように、そのカラスは何か外界と一線を画しているかのような 不思議な気配を帯びている。 これは、使い魔だ。 高耶はすぐに悟った。 そして、それがカラスであるということと、丘の上の魔法使いと呼ばれる直江の邸内に簡単に入り込んだこと とを考え合わせると、それが何者の使い魔なのかは容易に知れる。 『北の魔女』。 烏山に住むという、その『魔女』が寄越した使いに他ならない。 そこまで瞬時に考えて、高耶はぱっと立ち上がった。 警戒の色を全身に帯びた彼に、件のカラスはクルッと首を傾げ、面白そうに瞳を巡らせた。 「……何の用だ。『魔女』の使いだろう」 問う声に、相手はいやな音をたてて笑う。 「これはご挨拶ですな。使いではない。この鳥は私本人が直々に遠隔操作している」 喉の奥で笑ってからその嘴からこぼれてきたのは、意外にも低く艶やかな美声だった。 ただし、紛れもなく男のそれである。 しかし高耶は別段驚いた様子もない。 『魔女』というのはその家系、その血を引くものという意味であるから、それが男であれ女であれ、 呼ばれかたは『魔女』なのだ。 魔法使いと『魔女』の違いは、身に着いたその魔法力が学習によって習得されたものか、血筋からくるものかという 点に集約される。 魔法使いというのは、元々普通の人間の生まれで、魔法を習って使役できるようになった者を言う。 一方『魔女』はその血筋に生まれ、習わずとも生まれ着いて魔法を使役できる者のことである。―――ある意味では、 普通の人間とは別人種なのだ。 「―――それで、その魔女がオレに何の用だ。……それとも、直江に何か?」 「いえ、貴殿にしか用はありませぬ」 カラス―――『魔女』は人間そっくりに首を傾げて見せる。 そして黒いつぶらな瞳で、しかし鋭く妖精を見上げてきた。何とも薄気味の悪い光をたたえている。 「……貴殿、落人ですな?」 「直江と並び称されるあんたなら知ってて当然だろ。わざわざ顔を見に来たのかよ」 高耶はやはり動じない。本能的に嫌った相手に皮肉さえ含めて問うと、 「ここの男と一緒にしないでいただきたい。心外きわまりない話ですな」 『魔女』はため息をつくような仕草をして、大げさに首を振った。 いちいち気に障る動き方をする。 普段なら陽気で明るい妖精は、今は眉間に縦皺を刻んで敵意を剥き出していた。 この邸の主、優しい魔法使いのことを悪く言われたのもその苛立ちに拍車をかけている。 まるで飼い主の前に四足を踏ん張って全身の毛を逆立てている仔猫のようなその姿に『魔女』は 面白そうな笑い声をたてたが、ふと気配を変えて続けた。 「―――ところで、貴殿、故郷の友が窮地を知っておいでか」 そうして、数分後。 珍しく寝坊してしまった魔法使いは、真っ青になったハリに叩き起こされることになる。 ―――高耶さまがどこにもおられません――― (14/11/02)