シアワセノジョウケン


元居た世界へ還れなくなった一人の妖精が、一級魔法師(でも無職。)・直江の邸に落ち着いてから、五日目のこと。 「旦那。旦那ァ!」 普段あまり人の出入りの無いこの邸に、思いがけず大きな声をかけて入ってきた人影がある。 広い邸だ。 人気といっては主一人であり、時に恐ろしく大きな虎がのっそりと歩いているほかは、いつもひっそりしている。 そんな空間へ一蔵の声はちょうど『木霊する』という形容通りに響いて、その余韻が消える頃にようやく、入れ、と奥から 声がかかるのがいつものことだったのだが、それが今日は違っていた。 「はいはい!」 やけに元気な若い声がして、まるで猫のようなしなやかな身のこなしで現れた少年がいたのだ。 「うわ。珍しい。お客さんだぜ〜直江ぇ!」 屈託のない向日葵のような笑顔で白い歯を見せると、無言で瞬きを繰り返す一蔵がついていけないようなテンポで くるくるとよく動く。 客を認めてぱっと奥を振り向き、邸の主を呼ぶと、くるりと振り返ってにこにこしながらじっと相手を見つめる。 「なぁ、あんた直江の友達? 遊びに来たのか?」 わくわく、と形容するのが最も相応しいと思われる表情をして質問を重ねる。 期待を込めた眼差しで見つめられて一蔵は戸惑った。 「なぁなぁ、なんか大きな荷物持ってるけど、それ何? 直江に関係あんのか?」 見かけの歳より言動が幼い。まるで子どものようにキラキラした瞳をしている。 友達か、と問われれば否定せねばならないのだが、この子犬のような濡れた瞳を曇らせるのはどうにも忍びない気がして、 一蔵が返事を躊躇っているうちに、邸の主がやってきた。 「そんな風に問い詰めると驚きますよ、高耶さん」 思いがけぬほどに、柔らかな声だった。 初めて聞いた。 一蔵は本日二度目のびっくりを味わいながら、その男を見ていた。 眼差しが違う。まるで別人のように。優しくて穏やかで。 なんて目をして、この猫のような少年を見つめるのだろう。 限りない……あたたかさ。 「……おい、一蔵? どうした?」 「あっ……すんません!」 ぼーっと見とれていると、相手は怪訝そうな顔をして問うてきた。 我に還って返事をした拍子に、抱えた箱が音をたてる。 薬草やら魔法石やらがひしめく一蔵の商売道具に目をやって、直江は邸の扉を指した。 「まぁ、上がってくれ。こんなところで立ちっぱなしでは仕事にならないだろう」 「今日の品は何だ? 先日頼んでおいたものは手に入ったか」 一蔵が卓の上に置いた箱を覗き込むようにして直江が長身を折ると、その傍らから高耶と呼ばれた先ほどの少年も 興味津々といった表情で首をつっこんだ。 「あ……それがですね、例の石は既に殆どの蔵で底を尽いていて、俺のルートでは手にいれられんかったのです」 一蔵は言葉尻も微かに、目を伏せた。 期待された仕事をこなせなかった時、それを報告するのはいつも心苦しい。 「……そうか……」 相手のがっかりする顔がつらい。 まして、ついさっきのあの穏やかで優しい表情を曇らせてしまったと思うと、二乗の苦しさに襲われる。 「すんません旦那……お役に立てなくて……」 ついついうつむいてしまう一蔵を、相手は肩を叩くことで慰めた。 「ああいや、気にするな。他の品を見せてくれるか。 今日の一押しは何だ」 話を切り替えると、薬草売りの商売っ気がたちまち息を吹き返し、一蔵は抱えた箱の奥を漁り始めた。 「おっ。見てくださいよ。わしのお勧め品です。……っと、このあたりのはずだが……」 ごそごそと中身を出したり入れたりを繰り返し、卓の上をちょっとした展覧会にして、ようやく目当てのものを見つける。 「おぉ、ありました!これですよ。この香草。 月下香です、幻の……」 大事そうに幾重にも包まれた麻布の中身は、かさかさに乾いた茶色の草だった。 知らぬ者の目にはただの枯れ草にしか見えないのだが、心得のある人間にとってはまさに垂涎の代物だ。 「これはすごいな。ぜひ買わせてもらおう」 直江は目を輝かせてそれに見入った。 彼は薬草や貴石などを、この広い邸のとある一角に設けた研究室に、山ほど持っている。 それらを様々に調合し、実験して、何か新しいものを作り出すのが、彼の趣味なのだった。 魔法師として職についているわけではない彼の、この研究での副産物が、実は収入源になっていたりする。 「直江、好きなんだな。薬草とか、魔法石とか。 今、すごくいい顔してた」 高耶がそんな彼を見上げてにこにこ笑う。 「ええ。唯一の趣味ですからね」 それにつられるようにふうわりと笑みを浮かべた直江だった。 そして、彼は月下香を大事そうに包みから出して量っている一蔵に目を向けた。 「お前にはいつも世話になっているな。ありがとう」 差し出されたそれを嬉しそうに受け取って、その研究価値の高い薬草を細長い薬瓶にしまう。 「旦那……」 人が違ったかのような柔らかい微笑みを浮かべて礼を言う直江に、一蔵は泣き出してしまった。 いつも、他人の気配のないこのだだっ広い邸で黙々と研究に精を出し、人間との付き合いを拒否して、冷めた瞳で 他人と接する直江を、一蔵は心配していたのである。 あんな風では、いつか壊れてしまう。 人のあたたかみや、優しさを知ることなくいては、いつか心が凍りついて死んでしまう。 そう、懸念していた。 それが、今日のこの様子はどうだ。 あたたかい瞳をして、放つオーラすら春の日のように優しい。 人と話すときにいつも浮かんでいた冷めた色などどこにもない。 ……幸せな顔を、している。 「わっ、泣くなよ! 子どもじゃねーんだろっ !? 」 そしてそれは、慌ててハンカチを探す、この少年の影響なのだろう。 見つからずにあたふたと体を探している彼の横から、すっと差し出される手布。 その主は直江だった。 「ありがとうございます、旦那……」 さらに涙にくれる一蔵だった。 「何も泣かなくてもいいだろうに……礼を言って泣かれたんじゃ、まるでこれまで一度も感謝の気持ちを表したことの ない、冷酷無比な客だったように思われてしまう」 苦笑気味に頭を振る直江に、 「だって直江、昔はそうだったじゃん。初めて会ったときの瞳なんか、死んでたぜ? 最近はずいぶん優しくなったケド」 くすりと笑ってその腕に懐いていった高耶である。困った人ですね、とでも言うように笑って、直江はもう片方の手で その頭を撫でた。 「ところで、その人は……」 その瞳の甘さに殆ど驚愕しながら、一蔵が尋ねた。 「いや、人じゃないんだ。彼はその……」 「妖精だ。……元、だけど」 言ってしまってよいものかと視線で問うた直江に軽く肯いて、高耶は自らの素性を明かした。 「え?……えぇぇぇ!」 まじない用品を扱っているくせに、一蔵は妖精に会ったのは初めてなのだという。 息を詰めて、まじまじと上から下まで見つめたあとで、彼はふわぁ、と笑った。 商売っ気を離れた笑みは、子どものように屈託がない。 「そうか、妖精かぁ。だからこんなにキラキラしとるんじゃのう……」 つぶやくのを聞きとがめて、高耶は首をかしげた。 「きらきら?オレが?」 直江がその肩を引き寄せて嬉しそうに腕の中へ収める。 「ええそうです。あなたはいつも本当に綺麗ですよ。特にそのまっくろな瞳がね。 私はその瞳に出会うと何も考えられなくなるんですよ……」 「恥っずかしいこと言うよな〜。その口で何人騙したんだよ」 「失礼な。何人で済むほど少なくはありませんよ。ついでに言うなら、騙したなんて一度もない。 いつも、自分には他に大切な人がいるけれどそれでも構わないかと尋ねてからです。 あ、もちろんその人というのはあなたのことですよ」 何やら聞き捨てならない内容のことをさらりと言っておきながら、最後のとどめの台詞で相手の意識をそこへ向けないよう 計らった直江である。そして高耶は見事に引っかかって赤面した。 「ふっ……ふざけんなぁっ!」 腕から逃れようと暴れるのを、いよいよ強く抱きしめて、直江はくすくす笑いながら頭のてっぺんを顎でぐりぐり押してやる。 「はい、てれないてれない」 「てれてねぇ!」 ―――小さな爪をむき出して引っ掻こうとする仔猫を大きな犬が前肢だけで軽くあしらっているような二人のじゃれあいを 目の前で見つめさせられた一蔵は、その日一日、魂が抜けたように惚けていたという。 あの旦那が……あんな風に笑ってじゃれるなんて…… 世も末だ、と彼が呟いたかどうかは、定かではない。                                          (28/02/02)







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