彼は走った。
胸に大切な愛刀を抱いて、真夜中の街を走り抜けた。
どこへ向かって?
「……っ……はあ、っ……」
ようやく足を停めた彼は、両膝に手をやって、荒い息を繰り返した。
屈んだ顎からぽたぽたと滴り落ちるのは熱い汗だった。
わき目もふらず、ただひたすらに走り続けて辿り着いたのは、出会いの場所。
深夜バスの発着するターミナルの片隅、ぽつんと置かれた石のベンチ。
どさりと腰を落とす。
あのときと同じように膝に肘をついて、顔を伏せた。
「……来ねぇのかよ」
呟いた。
あのときはこうしていたら車の停まる音がして、顔を上げたらでかい男がこちらを見てた……
見知らぬ人間だったから、オレはまた顔を伏せて……そして、
―――ちあき、という人を待っているんですか
低くて綺麗な声が、……っ……
「なんで……」
両手の平を強く顔に押し付ける。右手の傷のせいで、顔の右半分が血だらけになったようだったが、構いはしない。
血や泥で汚れた指の間から、くぐもった声がこぼれた。
「どこに……いるんだよォ……オレ、なにも……しら、な……のに」
思えば、何一つ知らなかった。
『ナオエ』のことはあれから山ほど調べた。
それこそ、過去に手がけた仕事も何もかも、知りうる限りの情報を集めた。
この世界の人間ならば誰でも知っている、腕ききのSE(サービスエンジニア)であり、戦士ともいえる。
かつて覇権を二分していた橘・榊一族の、橘の方に引き取られ、そこで腕を磨いた。
しかし、橘は榊により、潰される。族長始め、一族を束ねるべき人間は一人も残らなかった。海外に出ていた『ナオエ』が18歳の折だった。
そしてそのままSEとしての腕一本でその道にこの男ありと謳われるまでにのし上がった彼は、22歳のときに、ついに一族の仇・榊一族を滅した。情報面から攻め立て、屋台骨をがたがたにしてから彼は一人で本拠に乗り込み、榊一族を文字どおり『殲滅』した。
この男がどの組織にもつかずに一匹狼でいられるのは、誰もがこの事件を知っているからなのである。攻め落とし方といい、最後の完全なる抹殺の仕方といい、この男に手を出して無事でいられようとは誰も思わなかった。
たんに腕が立つというだけならば何とでも篭絡のしようはある。また、たんにSEとして優れているというだけならば物理的に囲ってしまえば済むことだ。
しかし、『ナオエ』はその両方を完全に身につけていた。
そのSEとしての情報処理能力は、先の榊事件において十分に実証された。迂闊に手を出せば、崩れるのは直江ではないのだ。
そして個人としての戦闘能力についても、先の事件において明らかになっている。榊ほどの組織の本拠に乗り込んで、中のすべての人間の息を止めて自らは悠々と戻ってくるなどという芸当を可能にしている人間など、他にいようはずもない。
そうして、彼は不可触の地位を手に入れた。
高耶はここまでの経歴を資料室ですっかり調べあげている。
―――でも、こうなってみたら、全然何も知らないのと同じだ。
『ナオエ』の仕事場や別宅の所在地は情報として知っている。けれど、個人としての直江のことなんて、何も知らない。
連絡手段も何もない。そもそも、あの一晩以来、全く会ってもいないのだ。
自分がこんなに覚えていても、あの男はとっくに忘れてしまっているかもしれない。自分のことなんて。
勝手に心配して、動揺して、死にそうな気分になって……
「ばか、かなぁ……」
自嘲の笑みすら浮かばない。
「なんで……ここまで気になるんだろう……」
呟いて、目を閉じた。
どうして……と呟く。気づかないふりをして。
―――ああ、だめだ。目を開けなきゃ。今こそ、ちゃんと見つめなきゃ。オレの本当の心を、まっすぐ見つめなくちゃ……。
「……」
一度強く目を閉じれば、鳶色の瞳が瞼の裏に浮かんだ。それが答え。
ゆっくりと……開いてゆく。
その先に誰もいなくても。
見つめるべきものは、はっきりしたから。
「好きだよ……」
好きだからだ……
二年経っても、たぶんこれから何年経っても……直江が好きなのだ。
バルルルル……
瞼がようやく半分ほど開いた、そのとき、車の音がした。
けれど直江のそれとは似ても似つかない、暴走車の如き爆音。
それは近くで停まり、慌ただしくドアを開ける音がして、……
―――そして。
「今度は……誰を待っているんですか……?」
02/07/28
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