あの男は一体何だったのだろう。
突然電話を掛けてきて―――それも無修正の肉声で―――こちらに危険をさとすような忠告を寄越して。聞き入れられようはずもないからそのまま現場へ出かけたオレを、その身を挺して庇った。
あの逃亡者の女は特捜側の情報では一般人だということだったが、実際にはそうではなかったのだ。もともと裏側に属していて、今は解散した一派の者だった。それであの女は銃の扱い方に通じていたのだった。一見してただ者ではない筈のあの不思議な男をして、体を使って盾と為らしめるほどには。
これは特捜の調査ミスだった。明らかな。
はっきり言って、脱走者への追跡調査は他の事件よりもおざなりにされがちなのである。脱走者はもともと特捜の管理下にいたわけであるから、その行動範囲や心理にはある程度見当をつけることができるからだ。
それが油断だった。逃亡者の恋人の身元やその個人的な能力を調べるのを怠っていたことが、こういう形で結果に現れた。
自分が無傷であったのはただ、あの誰ともわからない男が庇ってくれたから。隙を見せた自分に落ち度があるのは当然だが、必要な情報を下ろしてこなかった特捜にも原因がある。一般人でないのは明らかだが特捜でもないあの男に、傷を負わせた。それは本来特捜に許された捜査権限の範囲を超える事柄である。全く無関係の人間を下調べの不足ゆえに負傷させるなどということは。
だが、自分はそれを上に報告しなかった。―――否、自分がそう判断したのではなく、駆けつけた友人の言によって。
「その男のことは、上には黙ってろ。その方がいい」
呆然と床にへたりこんだまま動けずにいた自分のもとへ、首尾を問う友人からのコールが入ったのは、男が去ってから一時間ばかり過ぎたころだったろう。まともな返事を返せない自分を心配して、千秋は即座に現場まで駆けつけてくれた。
その場の状況を見て説明を求めた千秋にすべてを話し、得られた返事がこうだった。
「……重傷だった。まともに撃たれたんだ。肩を。普通なら歩いていられないほどの傷だった。それなのに」
カゲトラは―――高耶は、床に座り込んだまま、幾筋も痕を残して尚流れ続けている涙もそのままに、子どものように首を振った。
それを痛々しい眼差しで見つめる友人だったが、敢えて首を振る。
「でもその男は自力で去った。それでいいんだ。死体が出たならともかく、自分で歩いて出ていった人間のことを心配する必要はねぇよ」
「でも、千秋!」
ぽろっと新しい涙の粒がこぼれた。それを人差し指で拭ってやりながら、友人は優しく諭すように呟くのだった。
「お前は疲れてる。ひどく疲れてるんだ。しばらく休め。上には俺が報告しといてやるから、全部忘れて頭を空っぽにしてろ。な?」
千秋―――ナガヒデは特捜に連絡を入れて現場の後始末を要請すると、友人を自宅に連れ帰り、シャワーと着替えをさせて寝かしつけた。
幼い子どもに還ったかのような不安定な友人の様子に胸を痛めながら、彼はじっとその寝顔を見守った。
半年と少し前まで第一線で活躍していた敏腕のSAはしかし、こうして心の闇を彷徨う眠りに落ちている今は、年齢よりもずっと幼く見える。閉ざされた瞼は怖い夢を見ている幼児のように時折ぴくりと震え、唇は誰かの名を呼ぼうとするかのように僅かな上下を繰り返す。
千秋の知る、現役の頃の友人は、決してこんな寝顔をさらしはしなかった。あの狭い休憩室で仮眠を取るときでも、本当に眠っているのだろうかと疑ってしまうほど、乱れのない表情で眠っていた。
眠っているときというのは、本来ならば普段は押し沈められているその人の心の奥底があらわになるものである。精神が健やかならば、満ち足りた表情で年齢よりも幼い寝顔を見せる。逆に、深い苦悩を抱えた人間の寝顔は見ている者がつらくなるほど苦しげなものになる。
その意味で、特捜の将たちの寝顔はおそらく、感情の乱れを感じさせないものであるはずである。精神の統制が完全でなければ、仕事をこなすことが許されないからだ。だからこそ、以前のカゲトラの寝顔は殆ど仮面のように動かなかった。
しかし、今。
目の前で苦しげな寝顔をさらしている友人は、特捜はおろか、普通の成人男性としても何か心に問題があるに違いないと思わせるほど、弱りきっている。
その問題は―――本人よりもこの自分がよく知っている。
心の中の大きな領域を確かに占めていた存在が、無理矢理に抹消されたという事実だ。
ぽっかりと、今の高耶の心の中には大きな穴が空いている。そして、そんな穴の存在自体を知りえない状態にある本人は、自分が何故これほどまでに不安定なのかという理由すらわからず、よりいっそう追いつめられてゆくのだ。
―――そんなにも、あの男の存在がお前の中では大きかったんだな。
喪ったら子どもみたいに蹲ってしまうほど。あんなに鋭い刃だったお前が、柳の葉のようにくたりと崩れてしまうほど。
千秋は苦しげに眉を寄せる友人を見下ろして、苦く一人ごちた。
当然といえば当然のこと。
心という砂山は小さな思いが一粒一粒降り積もって出来上がっている。その砂山を、他者が両手を突っ込んでごっそりと裾野から取り去ってしまったら、山は崩れてしまう。最も大切な土台を、その人の心の大地を取り去るということはすなわち、その上物の崩壊であるのだから。
高耶の心にあの男が一粒一粒降り積もらせた思いの欠片は、荒々しい手で無理矢理かき乱され、取り去られ、そして奥底へとめちゃくちゃに投げ込まれてしまったのだ―――。
千秋はぶるり、と頭を振った。
めちゃくちゃにされた砂粒を元通りに直すことができるのは、たった一人。
自分にできることは、こうして見守ることだけだ。
彼は唇を噛んで友人を見下ろす。
何かを探すように彷徨う手はしっかりと握り返してやり、きつく寄せられる眉間は指の腹で何度も撫でてやって、彼は、いつまでもそうしていた。
そして、やがてようやく友人の眉間の皺が消えると、彼は静かに寝室を出た。
「……あの野郎、今度会ったらがつんと言ってやんねーと」
ぱたんと扉を閉めた彼の口からはそんな呟きがこぼれたが、それは誰に聞きとがめられることもなく、そのまま夜の空気に溶けていった。
仕事部屋へ入っていった彼は敢えてコンピュータ回線を使って特捜へカゲトラの療養休暇要請を入れ、それからふと気になったように寝室をそっと覗いて、異状のないらしいのを確認すると、そのまま家を出た。
疲れきっている友人を休ませてやるために、静かなところへ行かせる。そのために必要な着替えや書類関係を取りに、友人宅へと千秋は足を向けた。
03/08/16
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