完全に動きを封じ込まれ、首を絞められる。
酸素が足りなくなってゆき、薄れゆく意識の中で、男の言葉を聞いた。
「お前の口からそんな言葉を聞こうとは思わなかった。カゲトラ、出戻りのお前がまさか俺を追うとはな」
「出……戻り……?何を……言っ、……」
相手も特捜の将として働いてきた人間である。足掻く隙もなく完全に体を固められ、僅かに自由になるのは顔の筋肉だけだ。
カゲトラが切れ切れに呟くと、組み敷く男が苦く瞬いた。
「―――思い出さない方が幸せかもしれんが、な」
「な、に……」
何を言っているのかわからず、白くなりつつある意識の下でカゲトラは惑う。
『出戻り』とは、特捜を無断で抜け出したこの男のような人間が再び管理下に戻ったときに呼ばれる言い方ではなかったか……?
答えのわからない疑問が、あわや意識の途切れる直前の記憶になろうかとした、その瞬間。
―――突然、カゲトラの体が自由になった。
反射的に呼吸をし始めた体は、突如に大量の酸素を吸い込んで咳込むことになる。
激しく息をしながら、同時に喉を詰まらせるという状態になった彼の体を、誰かの腕が抱き起こした。
「―――カゲトラ!しっかり!」
誰かの腕が背を支え、宥めるように叩いている。
わけもなく力が抜けて、喘鳴を繰り返した。
―――誰……?
「―――ッ!」
カゲトラは正常に働きだした脳の下、自分を抱く見知らぬ腕に気づくと同時に恐ろしい速さで飛び退いた。
「誰だ!何故ここにいる !? 」
くるりと受け身を取って片膝の姿勢に体を起こし、彼はたった今まで自分を介抱していた人間を鋭く射抜いた。
『標的』は既に動かぬ体となって床に横たわり、その傍らに屈んでいるのは印象的な長身の男であった。
特捜の人間ではない。けれど、一般人でもない。
明らかに普通ではない気配を持った、黒装束の男。鋼のように引き締まった敏捷そうな体は、しかし、何の警戒も無く静かに片膝をついてこちらを見ている。
対峙して数秒。
互いの姿しか目に入っていなかった二人の男の視界の隅を、何かが動いた。
「―――危ない!」
カゲトラがそれを察知するよりも僅かに早く、男が動いていた。
まるでスローモーションのように、その体が宙を舞う。
―――ガァン……!
二人が二人ともその存在を忘れていた女が、手にした銃をその体へ向けて発砲した。
響きわたる銃声と、腕を押さえる男の姿。
半ば呆然とその光景を見ていたカゲトラは、女の銃が次に自分へと向けられたとき、ようやく本来の自分を取り戻した。
シュッ……
仕込みナイフを続けざまに放ち、一秒と経たぬ間に喉、胸、腹、そして四肢を射抜く。
一瞬の空白ののち、即死した体はずるりと床に崩れて、動かぬ体の下にゆっくりと血の池が広がっていった。
それが―――哀しい恋人たちの末路であった。
「―――おい!しっかりしろ!あんた!」
カゲトラはまっすぐに男のところへ駆け寄った。
男は床に膝をついて、撃たれた腕を直接圧迫法で止血している。幸い深手ではなかった様子で、大出血の気配が見られないことにカゲトラは安堵した。
「おい、あんた、縛ってやるから動くなよ」
相手が誰なのかもわからないが、自分を庇って撃たれたことは明白だった。カゲトラは男の前に膝をついて、自分の首に巻いてあった保護用のさらしをほどき、それを使って男の腕をきつく縛り上げにかかった。
「あなたは、怪我はありませんね?よかった」
手際よく傷口を縛るのを見ていた男が、ふと呟くように言った。
「……?」
その声音があまりにも温かくて、カゲトラは思わず顔を上げる。
見上げた先には深い鳶色をした瞳があった。
彫りの深い端整な顔立ちに、瞳よりも茶色みの強い髪。
見知らぬ顔には違いないが、一目で記憶に刻んでしまいそうな印象的なマスクである。
その表情は含みの無い穏やかなもので、まるで旧知のごとく微笑みかけられてカゲトラは戸惑った。
「あんた……どうしてオレを庇った?そもそも何故ここに……」
包帯代わりのさらしを最後まで留め付けてから、彼は小さく呟いた。
その声音は心底不思議そうで、けれどどこか引っかかりを覚えているらしい様子である。
その問いに、男は微笑んだ。
悲しい―――見ているカゲトラの方が苦しくなるような、切ない笑みであった。
「私がわかりませんか?高耶さん、私が誰だかわからない……?」
男は、そう、ゆっくりと言った。
低く豊かな声が、名を呼ぶ。教えた筈もない本名を呼ばれたことの不思議を思うよりも前に、カゲトラは―――高耶は、思い出した。
「 !? ……あんた、電話の!」
仕事に出てくる前に掛かってきた奇妙な電話のあの声だ。高耶さん、と自分を呼んだ、あの深みのある声音。
目を見開いた高耶と対照的に、男は悲しげに目を伏せた。
「―――そうですね。あなたにとってはそれだけのことかもしれない」
「オレにとっては、だと?何を言ってる」
「本当に私がわからない?あなたはその方が幸せですか?そうですね。―――それならもういい。私は消えましょう」
男は高耶にとっては意味のわからないことを呟くと、ゆっくりと立ち上がった。
わけがわからず、そして詰問しようにも何をどう尋ねればよいのかすらもわからず、ただ途方に暮れたような顔をして見上げてくる青年を、男は深い色をした瞳で見つめる。
そして、男は僅かに屈んだ。
「でも、忘れないで。私からあなたの手を離したりは絶対にしない。あなたさえ振り向いてくれたなら、いつでも私はそこにいる。あなたが私を必要としてくれるなら……」
見上げる青年の頬にそっと手を触れて、男はいっそ熱いとすら言える瞳で見つめ、けれど静かに囁いた。ほとんど呟きにも近いその台詞だったが、青年には一字一句聞き逃すことなく受け止められた。意味が全く理解できない、ヴェールを透かしたような状態であったのだが。
まるで別の次元で、第三者的に見ているかのような状態でありながら、青年には男の声音が持つ深く深く染み入るような響きを確かに感じていた―――ただ、感じていた。
「立ちなさい、ジェネラウ
「立ちなさい、将長」
男は最後に声音を変えて、ぴしりと高耶を叱咤した。
「自分の足で立てるでしょう。立ち上がって、あなたのいるべき処へ戻りなさい」
―――その言葉に操られるように立ち上がった青年を見て満足そうに微笑むと、男は音もなく扉の向こうへ消えていった。
後に残された青年は目を見開いたまま。
―――ジェネラウ
―――将長、と。
呼ばれたことがある。確かに。前にも……こんな風に呼ばれた。あの声、あの瞳。
―――それなのに、わからない……!
「誰、なんだ……」
呟いた声が歪んでいることに気づくまで、彼は自分が泣いていることを知らなかった。
その涙の所以も、彼にはわからない―――。
03/06/14
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