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the only one in deepen heart





















 ごくありふれた外観のアパートの前に、黒い人影がある。
 軽自動車がやっとすれ違うことのできる程度の幅の道には、街灯の明かりも間隔をおいてしか配置されておらず、彼の姿は半ば闇に溶けていた。
 その後姿はすんなりと細く、しなやかな背中を見せて、纏う気配はひそやかに静まっている。
 黒いロングコートの下に伸びた脚は、静かに佇んでいる今の様子からは窺いようもないけれども、その気になって走れば『神の速さを持つ』とまで謳われる俊足だ。飛び道具を実戦で扱えない彼にとって、その脚と俊敏なナイフ捌きが命であった。
 コートの中には黒い仕事着が隠れている。あちこちに細い針や短剣を帯び、そして懐には細刀が仕込まれていた。刃と鞘、そして柄の全てが黒金剛で作られたそれは、彼の一番の愛刀である。しなやかな刃は彼の手のもとで自在にしなり、そして素晴らしい切れ味を発する。
 その鮮やかさは右に出るものを許さない。

 目的の場所の前に辿り着いて、カゲトラは灯りの消えた一つの窓をじっと見上げていた。

               ターゲット
 今夜の標的は、特捜の平の将である。彼は表の社会に属する人間と恋愛をして、およそ一月前に無断で特捜の管理下から逸脱していた。
 これまでに二度、特捜の将が追っ手となって勧告を繰り返しているが、そのいずれにも男の諾の返事は無く、二度が二度とも追っ手を振り切って逃走したのである。
 今夜のカゲトラが最後の勧告であった。その返事が諾であろうとも、否とあろうとも、これが最後の機会である。
 おとなしく恋人と別れ、特捜へ戻るか。
 あるいは共に死んで愛を完遂するか。
 どちらになろうとも、恋人たちは分かたれるのである。
 特捜の下にありながら禁忌を犯した男はその罪を支払い、触れてはならぬ世界を知った恋人もまた、その代償を払うことになる。
 それが生き別れか死に別れか、選択肢は二つに一つであった。


 ―――してはならないことをした、それが罪なのだから。同情はできない。

 カゲトラは哀しい恋人たちを思い、僅かに眉を寄せたが、それだけであった。
 胸の中で打ち鳴らされる激しい警鐘は明確な言葉にはならず、仕事人の顔になった彼はその仮面の下に全てを押し込めた。

 説得に応じてくれるのならばそれが一番良い道だと信じている。
 例えこの世で添うことはできなくとも、命が無くなれば何もならないのだから。
 せめて同じ空の下に生きていれば、それだけで幸福だとは思えないのだろうか。相手が生きているという事実ただそれだけで、無尽蔵の喜びとは思えないのか。

 死んでしまったら何もかも終わりなのだ。
 どんなに呼んでも、揺すぶっても、二度と声を聞くことができず、瞳がこちらを見ることはないと―――思い知らされること。それが死だ。
 優しく頭を撫でてくれた手は冷たく横たわり、聞くと安心できた鼓動は真っ赤に流れ出して池を作る。愛情ゆえの叱責も二度とは耳にできない。たった数時間前までは笑いあっていたのに、もう、そこにあるのはただの物体でしかない。
 それが死だ。
 あまりにも早すぎる、親との別れだった。

 だから―――
 例え言葉を理解することはなくとも、瞳が焦点を結ぶことがなくとも、温かな体温があり呼吸がある、それだけで涙が出るほど幸せだ。いつか戻ってきてくれるかもしれないと、希望を持つことができるから。可能性がゼロではないから。
 彼女がごくたまに唇に刻む、微かな微笑みが、どれほど力になるだろう。つらくて厳しい修行の合間に黙って手を握っているだけで、どんなにか癒されただろう。恐ろしい夢に追いまくられて現実から逃げ出したくなったときでも、彼女を思えば耐えられた。
 愛しい妹は、もしかしたらたった今、笑っているかもしれない。ベッドの上で、窓の外に浮かぶ細い月を見ているかもしれない。
 そう思えるだけで、幸せだ。


 ―――そう、生きてさえいれば……。


 カゲトラは胸を襲った一瞬の得体の知れない痛みを軽く首を振ることで振り払い、空気を動かさずするりと身を進ませた。
 瞳の色は冴えて、全身を覆う気配は既に切り替わっている。
 彼は特捜の将として、任務を遂行するだけだ。






 ―――キィ

 僅かに軋んだ音を立てて、扉が開かれる。
 刹那、鋭く空気を切り裂いて何かがそこへと飛んだ。
 扉に突き立ったのは、手のひらに納まるほどの短剣である。しなやかな刃は板に突き立った後も、しばらく唸っていた。

「なるほど、一月現場を離れてはいたが、そうは鈍くなっていないようだ。安心した」
 ほんの一瞬前までその刃のある場所にいた人影が、喉の奥で微かに笑った。

 カタッと音をたてて、彼は部屋の明かりを入れた。
 明るくなった部屋には、ベッドサイドに立ってびりびりと空気を震わせるような闘気をまとった男と、その背に庇われた女の姿がある。
「最初からそこまで本気になる必要はない。私は説得に来ただけであって、何も暗殺紛いの不意打ちなぞしやしない」
 部屋を入ってすぐのところにいる三番目の男は、相手の臨戦態勢を目にしても表情を変えることなく言った。闘気は微塵も見られないが、その気配には一分の隙もない。
「後ろのご婦人を無闇に怯えさせるだけだ。殺気を収めろ」

「……これは、大物のお出ましだ。元将長のあんたが出てくるとは想像もしなかった」
 逃亡者は、気配を変えてそんな言葉を返した。
 言葉尻はどこか笑ってでもいるような風であったが、その瞳だけは元のまま、追いつめられた者に、―――そして、たった一つの何かに全てを捧げた者に―――特有の光を宿している。
 その背中で庇った女性が、彼の砦。
 女性は固くなってはいるが、気丈に自分の足で立っている。
 追っ手との対峙は三度目になる。彼女もそれなりの覚悟をしているのであろう。戸口にいる男の普通でない気配を読んでいながら、怯える色を見せていない。

 カゲトラはそんな逃亡者たちを静かな瞳で見据えて、口を開いた。

「―――お嬢さん」

 びくり、と肩を揺らした女性に、追跡者は淡々と続けた。
 標的は瞳をきつくしてますますしっかりと背後を守っている。

「何度も聞かされてわかっていることだろうが、あなたが諦めてくれなければ彼は死ぬことになる。それとも……一緒に逝った方が幸せだとあなたは思うか」

「忘れてもらっては困るが、選択肢はもう一つある。俺がお前を倒せば済むことだ」
 返事ができない女性の前で、標的が口を開く。

 カゲトラは黙って首を振った。

「倒せない。一つのことに全ての思いを捧げたお前には、冷静な判断力が欠けている。勝ち目は無い。―――まして足手まといがついていれば」

 言葉はただ静かで、冴えた光を宿す瞳に出会った標的はそれ以上何も返せなかった。

「お嬢さん、もう一度聞こう。
 生き別れるか、二人で死ぬか、どちらかだ。どちらを選んでもらっても私は構わない。決めるのはあなた方だ」

 最後通牒を突きつけても、カゲトラはあくまで淡々としている。

 恋人を引き裂くのも任務。最初から全てを踏まえていて敢えて犯した禁忌ならば覚悟もついているはずであろう。
 あるいは二人を共に死なせてやるのも一つの道。死んでも離れがたいというのならば叶えよう。今さらこの手に血を塗ることを厭うものでもない。

「尤も……個人的な意見を述べるのなら、私は生きる方を選ぶが、な。死は何物も産まない」

 呟くような言葉だけが、彼の生の声であった。



 カゲトラの静まりかえった仮面にさざなみを生じさせたのは、―――女性の言葉だった。



「―――あなたにはわからないのかもしれない」

 彼女の声は怯えていなかった。カゲトラよりも、恋人よりも、ずっと強く揺るぎない、けれど静かな声音であった。

「どうしておとなしく別れないのかと不思議に思っているのでしょう。それならわからないわ。どうしてこんなにも逃げ続けているのか。
 逃げて逃げて地上の果てまでも逃げ続けようとする私たちの気持ちは」

 彼女の瞳は強い輝きを浮かべている。そして同時に、カゲトラを憐れんででもいるかのような哀しい色も。

「別れられるくらいなら、最初から恋したりしない。何もかもわかっていて、それでも、好きになったのだから。あなたがたの言う『管理部』が許さないということはわかっていて、敢えて一緒になったのよ。
 彼の事情が私を巻き込んでも構わない。巻き込まれて本望だからついて来たの。危険であっても、逃げるということがどういうことなのかわかっていても、何も枷にならなかった。
 逃げて逃げて逃げ続けて、それでいいの。傍にいられればそれでいいのよ」

 彼女の言葉は微塵も震えなかった。その心の確かさを反映して、静かに、けれど強く、綴られてゆく。


 カゲトラの脳裏で再びあの警鐘が鳴り始めた。


 ―――どんなに危険かわかっていて、それでもついて来た

 ―――こんな危険な状況で誰かを傍に置くなんてとんでもない、それでも……
 ―――それでもあなたが欲しいから


 いつか誰かが同じことを言っていた。前にもこんなことがあった。
 誰か―――誰の声―――……?


 心を掻き毟られる。

 心の中のどこかが血を流して喚きたてている。
 それなのに―――どこなのかがわからない。どこにある?どうしてこんなにも痛むのだろう?




 女性の言葉に心の奥底を激しく掻き乱されたほんの一瞬、カゲトラは周りの全てを忘れていた。

 その刹那―――


 見開かれた瞳に、何かが映った。

 飛びかかってくる、手負いの獣の姿が―――。



03/06/04



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欠環6です。
妙なところで切ってしまいました……次回の展開は大体ご想像通りです。はい。
バトルモード!

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image by : Ciel(←閉鎖されました)