特捜は特別国家公務員である。普通の公務員とは入隊の時点から異なる。
特捜はその存在を公にされない特殊機関で、主な業務は超法規的捜査活動と諜報活動である。その下で働く隊員たちはいずれも『過去』を持たない。入隊時に戸籍を抹消し、身内との連絡も断ち、『この世』からいなくなった人間たちなのである。その身柄は警察庁預かり、特捜の隊員リストに記されるのみで、一般社会での身分は幽霊ということになる。
そういう特殊機関である以上、入隊後は個人の意志よりも『管理者』の意向に従わねばならない。隊員たちは与えられる仕事をこなすのみである。仕事の内容を選ぶことはできないし、進退問題も上の指示通りにするほかない。特捜への入隊は、心も体も、未来も過去も、人一人の存在全てを込みにした契約なのである。
当然のことであるが、引退も、『管理者』からの許可なくしては許されない。手続きをふんだ引退でなければ、それはそのまま『脱走』となる。
半年前のカゲトラの行動は、まさにこの『脱走』であった。
バッジを外して部下に渡し、コールの電波の届かない場所―――故意に妨害波を流してある場所ということである―――へ遁走した彼は、一ヶ月近い間、特捜の追っ手に発見されることなく身を隠していた。
その後自ら本部へと戻ってきた彼は、自首したことによってその罪を軽減されたが、降格処分と矯正機送りは免れなかった。
カゲトラは矯正機にかけられ、彼を惑わせた過去と或る一人の男に関する記憶を封じられたのである。
そして、半年が経った。
仕事上のミスによって平の将へ降格されたということにされた彼は、それを疑うことなく淡々と任務をこなしている。
周りの人間も、よほど親しい者でなければその経緯を知らない。単なる降格処分はそれほど珍しい出来事でもなかったので、カゲトラの処遇に慰めの言葉を掛ける者こそあれ、疑いを持つ者は無かった。
そして、本当の事情を知る親しい友人たちは、それぞれが厳重な口止めを施され、カゲトラ本人には決して事実を悟らせぬよう行動することを強いられたのである。
ここにいる男たちも、その中の二人であった。
金色のしっぽの男、ナガヒデは、カゲトラの出奔に手を貸したかどで一段階降格されている。半年前までは黒バッジ保持者、つまり将長位であった彼は、現在は濃緑のバッジを胸につけていた。副将長位の証である。そして、件のカゲトラの現在のバッジは紺の地に白い桜であった。平の将は紺バッジを身につけるのである。ちなみに、実地で働く『将』を除いた隊員たちには医療班や通信班などがあるが、彼らはすべて白バッジを所持する。
一方、顎鬚の男、アキノの胸には黒バッジが鈍く光っている。カゲトラの降格に伴って、同じ部署の副将長だったアキノが繰り上がり、将長位に就いたのである。
――― 、 、
日々は事前と何ら変わらぬ潤滑な流れのままにある、と見えているようでありながら、実際には、これほどまでに複雑な事情を孕んでいたのであった。
カゲトラは知らない。
自分が二度目の矯正機にかけられたことを。
カゲトラは知らない。
半年前に自分がなぜ特捜を出奔したのかということも。出奔の事実すらも。
すべてを捨ててまで共に在りたいと願った、
唯一人の相手のことを―――今のカゲトラは覚えていない。
ナガヒデは血のにじむほどきつく唇を噛んで、誰へともなく呟いた。
「……思い出したら地獄だぜ」
地獄―――
誰よりも大切な存在を心の中から抹消して生きていたというその事実が。
狂気を生む。
「でも、今思い出さなくてもいつか必ずそのときは来る。どのみち、避けては通れない道だ。……やるせないけどな、こっちは」
組んだ両手の上に乗せていた顎を下ろして、アキノは額を覆った。
事実を知る身には、親しい同僚が理由もわからずただ精神の根底から襲い来る喪失の痛みに痩せてゆく姿が耐えられなかった。
それでも、結局いつかは事実が甦る。それがたまたま今夜であるからといって、彼にはどうしてやることもできない。
恋人と駆け落ちた時点で、特捜に戻った際に精神洗浄を施されるであろうことはカゲトラ自身がわかっていたはずだ。洗浄は、捜査員が捜査を放棄する如何なる要素も許さぬよう精神を矯正するという目的で行われる。その際にターゲットとなるのは、その捜査員が道を外れた最も大きな理由である『何か』、『誰か』なのである。
駆け落ちた捜査員におけるそれは、『恋人』の存在。
『彼』の記憶を消されるであろうことは、カゲトラにはわかりきっていたはずなのだ。
それでも、彼は戻ってきた。
「―――あの馬鹿。なんで帰って来たりなんかしやがったんだ……」
ナガヒデの苦い呟きには、誰も答えることができなかった。
敢えてカゲトラが特捜へ戻ってきたその理由。
わかりきっていることだが、それでも―――周りの人間たちには、なぜ、と呟くよりほかに道は無かった。
光の見えない明日を取るか。刹那の天国を。
さもなくば、
遠い遠い未来の光を求めて、今を捨てるか。
『彼ら』は後者を選んだのだ―――。
03/05/17
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