都会の夜に闇はない。
愛車―――四輪ではなく二輪の方―――を駆って風を切ると、体の横を流れてゆくのは無明の黒ではなく煌々しいネオンの七色光。
フルフェイスのメットを隔ててさえ耳につく、徘徊族の喚声。
―――そんな喧騒の夜を、しかし千秋は半ば別世界のように意識から遮断し、ガラスを隔てて流れてゆく早回しの映画のようにおぼろげに横目でやり過ごしながら、頭の中は別のことで一杯になっていた。
『テスト』と、管理部のミスとが重なって、友人の心は、いま―――ひどく乱されている。
その存在を刻々と肥大させ続けている心の空洞。そして、そこに嵌まるべきmissing pieceの突然の登場と、そこに響きわたった唐突な銃声。
頭が忘れても心が忘れていない唯一人の人間が、目の前で撃たれ血を流すさまを見て……遠い過去の両親の最期を思い出さなかったとは、到底思えない。たとえ意識的に結び付けていないにしろ、高耶の心の中は激震に揺さぶられたに違いはなく、そんなピースが幾つも幾つも重なり合ったときにいつか限界点を越えるであろうことは容易に想像がついた。
たった今はまだぎりぎりのところで踏みとどまっているようだが、このまま第一線に置いて捜査任務を任せるには余りにも危うい精神状態だ。
―――高耶が自ら特捜の管理下に戻ってきて、半年。無理矢理に白く塗りつぶされた一人の男の記憶は、彼の中で今まさに、鮮やかに甦ろうとしている。忘れたままではいられず、その一方で、思い出せば修羅の道である。
お前らは……本当にバカだ。どんなになっても二人一緒に逃げ続ければ良かったのに。
なぜ戻ってきた。覚悟なんてどんなにつけていても目の前に立ちはだかる現実の前には無力だろう……?存在を忘れてしまうということがどれほど鋭い痛みであるか、想像なんかでわかるものか。
現にカゲトラは大昔のあの怯えた子どもに戻ったみたいな瞳になっているじゃねーか。
……てめぇの首に賞金が掛かっていたときだって、こんな顔はしていなかったぜ。直江よぉ。
こいつが大事なら、閉じ込めてでも自分の手元に置いておかなきゃならなかったんだ。こいつがお前の命を案じて自分から特捜へ戻ると言い出したんだろうが何だろうが、縛り付けてでも引き止めなきゃいけなかった。手を離しちまったらお終いなんだ。
「見て……られねぇよ……」
―――千秋は喧騒の只中で独り、きつく目を閉じた。
「……だから―――」
友人の家へ行った千秋が、着替え類などを適当にバッグへ詰め込んで戻ってくると、眠っていた筈の人影がリビングの窓辺に佇んでいた。
「……っ」
白いシャツの人影が、青い月の光の中に溶けて今にも消えてしまいそうで、千秋は思わず息をのむ。
物音に気づいて振り返った相手は頬に未だ涙の筋をつけていて、彼の心臓を鋭く抉った。
「……高耶、目が覚めたのか」
「千秋……」
バッグを椅子の上に置いて近づいてきた彼に、相手は涙の止まらぬ瞳で名を呼ぶ。
「何だよ、そんなに泣いて。男だろ」
手を伸ばして頭をぽんと叩き、からかうように笑い掛けたが、相手はその笑いにつられる気配もない。
瞼を伏せて、また新しい涙を流しながら、ひくりひくりと喉を詰まらせて切れ切れに訴えるのみ。
「ちあきぃ……夢を見たんだ……怖い夢……」
両腕で自らの肩を抱いて泣くのが抱きしめてほしいのだとわかり、千秋は友人を包み込むようにして抱きしめた。
「……何だ、怖い夢って」
「誰かが……呼んでる。オレを呼んで、呼んで……でも、そこへ行こうとすると、もう……いなくて。つかんだ筈の手が無いんだ……もうどこにも無いんだ……」
夜泣きをする赤ん坊のように、友人は千秋の肩で泣いていた。
「手を離しちゃいけないって、わかってるのに……捕まえられないんだ、あの手を。
怖いんだ……もう二度と捕まえることができないのかもしれない……!」
この男がこんな風に他人に縋りついて泣くなどとは、かつて最年少で黒バッジを許された『カゲトラ』を知る者のうち、一体何人が想像できるだろうか。
十歳の頃に、家族旅行で出かけた先のニューヨークで榊の抗争に巻き込まれ両親を目の前で喪い、たった一人の妹はショックで植物状態に陥った。
自分自身も正気でない状態のときに、恐怖に駆られてFBIのガードを撃ち殺した少年は、事態を収めに来た特捜の手によって日本へ連れ帰らされ、目覚めたときには特捜入り以外に選ぶ道を許されていなかった。
矯正機に掛けられて精神制御を施され、『櫻』の幹部の一人、『カズサ』によってSAとなるための訓練を受けてできあがったのは、パーフェクトな一人の将であった。
封じられた忌まわしい記憶を思い出すまで、この男はどんな状況下にあっても微塵も表情を変えないマシンだったのだ。
そののちに過去を知り、以来両親を殺した男・開崎への復讐のためだけに生き続けたこの男も、笑顔を見せることはあってもこれほど脆い姿を見せることは一度としてなかった。―――少なくとも、ごく一部の友以外の人目のあるところでは。
その限られた友の一人である千秋は、件の男が賞金首になって姿をくらましていた頃を思い出しながら、今また同じ男を想って無明の闇に泣く友人の背を、あやすように何度も叩いてやった。
引き離された半身を呼んで目の前で泣く無防備な背中を、自分はただ抱いてやるしかできない。
一度はこの友人の選択を後押しして、恋人と共に日本を出るところまで付き合った。『脱走』の幇助は厳重処分の対象であるとわかっていたが、訓戒で済まずに降格されようとも、孤高の場所にいた友人がようやく見つけた伴侶と共に飛び出してゆくのを知らん顔で放っておくことなどできるはずもなかった。たとえその選択が後にどのような結果をもたらすにしろ、友人をせめてこの目で見届けるくらいのことはしなければ気が済まなかったのだ。
そして、その結果をこうして今、再び引き受けることも……最初から決めていた。
引き合う二つの魂を添わせてやるために、どんなことでもしよう。
どんな結果を繰り返しても、三度は。
一度目は、二人が互いの命と未来を賭けて自ら別れる結果に終わった。
二度目もそうなるかもしれない。それでも、あの二つの魂が完全に切り離されることはないと思うから、三度目までは背中を押してやる。
自分にはこの友人の魂を救ってやることはできないのだから。それが可能な唯一人の男のもとへ、導いてやるだけだ。
千秋は、友人の背を叩いてやりながら、安心させるようにゆっくりと囁いた。
「……大丈夫だ。その手は必ずお前をつかまえに来る。そう遠くないうちに。
信じろ。俺様が保証してやるから。―――俺の目の前で死んだダチの名前にかけて」
「 !? ……ちあき……」
この友人が特捜入りするきっかけになった人のことを口にしたとき、高耶は思わず涙を忘れた。
「こう言って俺が嘘ついたこと、あったか?」
抱擁を解いて、目を合わせてきた友人の瞳は、特捜の人間なら誰でも持っている『影』の面を映して深く静まり返っている。
―――その名前はこの友人にとってどれほど重いものなのか、他人のことではありながら、よくわかっているつもりだ。
だから、高耶は首を振る。
「……ない」
それを聞いて、彼の友人はひどく優しい笑みを浮かべた。
微笑んで、彼は友人に言い聞かせる。軽い暗示を含めて、友人を優しい眠りへと誘う。
「な。だから、大丈夫だ。泣くな。何も考えないでいいからもう一度ゆっくり眠れ……」
翌朝早く、彼の友人は機上の人となった。
03/11/04
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