さっきのが、あの視線の主だろうか。
夜も更けてsound peopleが静かな眠りに落ちたころ、そうでない世界に属する者は動き出す。
例えるならば、夜行性の獣のように。
しなやかに。ひそやかに。無関係な昼間の世界の人々には全く気取られることなく、暗躍する。
仕事着の黒装束をロングコートの下に隠して、特捜の将・カゲトラは行動を開始した。
上司から指令を受け取ったときに脳に記憶してある標的の所在地へと、彼は風を乱さず闇をすり抜けるようにして進んでいった。
もし一般の人々に目撃されることがあっても彼らの脳に余計な刺激を残すことのないよう、何ら特殊な気配は纏っていない。ひっそりとその場の空気に溶け込んで、ただ歩いてゆく。
下された命令は果たされなければならない。あの電話があろうと無かろうと、それに左右されるものではない。請け負った仕事を確実に遂行することが、特捜の将のすべてであるから。
大またに風を切って標的のもとへと向かいながら、しかし彼の頭の中は一連の不思議を思っていた。
表面上は全くもって静かだが、その胸中は仕事中の彼らしからずざわめいている。
足早に闇をすり抜けながら、彼は消せない疑惑と共にあった。
あの視線。
あの電話。
自分の背中にいつも張り付いていながら不快感を起こさせない奇妙な眼差しと、違わずまっすぐにこちらの本名を呼んできたあの電話の声。
こちら側の世界に属する者以外ではありえない鮮やかさを持ちながら、電話の音声は無警戒だった。聞こえてきた低めの美声は、一切修正を施さぬ肉声そのままだった。間違いない。
同業者であるならば音声には手を加えて身元を知られぬよう計らうはずなのに、さっきの電話はそうではなかった。
あまりにも、わけがわからない。
自分を知りすぎるほど知っているらしい、けれどこちらからは見知らぬ相手。
同じ世界の人間でありながら、堂々と地声で電話を掛けてきた、その男。
一体何が起こっている?
自分の知らぬところで何かが動いている。自分を中心に、見えない水が音をたてて渦を巻き始めている。
何が―――何かが―――
背後で、足元で、姿も見せずに、しかし確実に、動いている。
自分の知らない『自分』を取り巻いて、何かが始まろうとしている―――。
同じ頃、都会の真ん中に立った或るマンションの一室に、同じ世界に属する人影があった。
一見ごく普通のビルのようでありながら、その立地の特異性は見るものが見れば明らかである。
他の建物からは死角になり、けれど辺りを見渡すには不自由の無い、攻防共に最適な条件の物件に、その部屋はあった。
モニタと端末とケーブルがひしめくその無機質な空間に、そこだけ生身の男がいる。
完全な防音と電気的介入への妨害網を誇るその部屋は、こちら側の世界にその名を知らぬ者のないその男の、他者の侵入を許さない奥津城―――仕事場であった。
男は、フィールドに出る際の黒いアーミースーツに身を包み、黒光りする愛器の手入れに勤しんでいる。
黙々と手を動かすその仮面の下では、彼はしかし暴れ出しそうな激しい感情を秘めていた。
二代目になる愛器を磨いていた彼は、ふと一代目のそれを思い出す。
一年ほど前に自分の油断が招いたミスで手放さざるを得なくなったその銃には、二つの忘れ得ない歴史が刻まれていた。
一つ目は、それの初仕事となった一件。四年の歳月を経て成し得た復讐劇の締めくくりを、あの銃が飾った。滑り止めの手袋をしていてもぬめってしまうほど、朱に染まっていたそれは、過去との決別の杯だった。
そして二つ目は、台尻に刻まれた傷跡の一件だ。渾身の力で振り下ろされた黒金剛の刃をよくぞ跳ね返したものだと思う。
そのとき同時にできたもう一つの傷は、今も自分の左の脇腹に痕を残している。
―――彼の刃を受け止めた証。
―――彼を庇って負った傷。
「―――ッ」
手の中にある愛器の台尻に、今は無い傷跡を幻に見ながら、彼は手が震えるほどきつくそれを握り締めた。
ぶるぶると、悪寒でもおぼえているかのように震える手を睨みつけていた彼は、やがて、ようやく激情を押し殺した。
磨きあがったそれを左の脇に吊るしたホルスターに差しこみ、立ち上がる。
夜の闇に出かけようとしている彼は、ふと掌へ視線を落とした。
空っぽの手のひら。
男は、形容しがたい色をたたえた瞳で、自らの両手のひらを凝視した。
……どうしてあなたの手を離してしまったのだろう
こぼれ落ちた言の葉は、男の空っぽの腕をすり抜けて、どこかへ消えていった。
03/04/13
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