北条宝の名前で借りている月極の古びたアパート。目立たない場所に、けれど様々な意味で都合の良い場所にあるこの部屋で、高耶は時間を待っていた。
仕事に出るのは夜である。ご近所の迷惑にならぬよう、非公式の訪問はそっと静かに行われなければならない。
まだ宵の口の今、彼には畳に寝転がって上がりかけの細い月を眺める以外に取り立ててすべきことを見い出さなかった。
掃き出し窓の向こうに見える空に、やがてゆっくりと星の光が現れ始める。空が夜のベールを一枚一枚重ねてゆくのと同時に、青い白い小さな光の粒があちこちに出現するのだ。
夜の帳がすっかり降りきったころ、漆黒のびろうどの上にはたくさんの光が縫い付けられていた。
―――それを見ていると、ふいに胸が疼いた。
まただ。無いはずの何かが刺激されるような痛み。
わけがわからず苦しくなる。
頭の中で割れんばかりに鐘が鳴る。
狂ったように叩いて叩いて、―――いつか壊れるまで…… ?
きつく目を閉じて体を丸めたとき、ふと電話が鳴った。
既に時刻は真夜中と称してもよいほど遅い。普通の電話が掛かってくる時間ではない。
一体誰だろう。真夜中の電話。
ここは北条宝の名前で住んでいる場所だ。大家や新聞屋などの表社会の関わり合い以外でこの場所を把握している人間は、両手に満たない。
こんな時間であることを考慮すると、電話の向こうにいるのは『管理者』以外には考えられないのだが、業務連絡ならば直接、耳の後ろに埋め込まれているコールを使えば済むはずだ。任務を請け負った時点で自分はそのプロジェクト下に組み込まれ、そのための緊急回線を割り振られているのだから。
わざわざ電話回線などを使って連絡をしてくる理由など思い当たらない。
警戒しながら受話器を上げると、待ちかまえていたように速やかな声が聞こえてきた。
『―――高耶さん。あなたですね?』
「ッ !? 」
深みのある落ち着いた声だったが、自分を高耶と呼ばれてカゲトラは瞳の奥を針のように鋭くした。
本名を知られている。そして、自分がここにいて、この電話番号を使用しているということも。
あり得ないことだ。こちらは相手を知らないのに。
「―――誰だ」
砕けるほどきつく受話器を握り締め、無理矢理に動揺を押し殺して誰何する。
『いいから聞きなさい。今夜の仕事はいけません。やめなさい。―――もう一度だけ言います。今夜の仕事に行ってはいけません』
一方的に言われた言葉尻は命令調だったが、なぜか緊迫し、さらにこちらを案ずるような響きを含んでいた。
本当に言葉どおり危険だから忠告したというような、そんな気配。
「何だと !? お前はいったい……」
『……』
ぷつり、と途絶えた回線。
残ったのは虚しい電子音だけだった。
ツー……ツー……ツ……―――
一体どうなっているのだ。
見知らぬ人間がどうして自分にこんなことを言って寄越す?忠告めいた、―――いや、忠告そのものの台詞。
そもそも、今夜の仕事のことをなぜ知っているのだ。この家も。電話番号も。
特捜の情報を正攻法以外で入手できるような腕利きのSEは滅多にいないはず。
そして、その僅かな人間たちの誰一人として、自分と関わりあいになったことのある者は無い。
何のかかわりも無い間柄であってわざわざこんな風に『忠告』してくる人間がどこにいよう?
何もかもが―――狂っている。
何かが―――自分の知らない何かが―――動いている。
「わけがわかんねぇ……一体何が起こってるんだよ」
高耶は受話器を握り締めたまま、いつまでも固まっていた。
電子音だけの世界が、やがて、ぱたりと沈黙に消えた。
03/03/29
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