自分とは何だろう。
そんなことを思うようになったのは、あの視線を知ってからのことだ。
オフで街中を歩いているとき、気づけばその視線がこちらを見ている。
相手を確かめようと行動を起こしかけるとそれは忽ち消え失せ、まるで最初から何もなかったかのような空気がそこには残っているだけ。
さっぱり意味がわからなかった。
仕事柄、狙われやすい身であることは充分承知しているが、視線には殺気のような敵意、害意は全く見られなかった。
けれど、むしろそれよりもずっと強く深く狂おしいような、そんな何らかの感情が見える。それはそんな眼差しだった。まるで―――まるで切なさすら感じさせるような、そんな目。
相手の姿形を一度もとらえたことがないのに、手にとるようにその狂おしさだけが伝わってくる。
一体、何なのだろう、あれは。
怨恨のセンではない。
しかし、その道の人間以外では考えられないような鮮やかな引き際を持つ、その相手。
わけがわからなかった。
自分には全く心当たりの無い何かが、そこにはあるように思えてならない。
そんなとき、ふと気づいたのだ。
『自分』とは、何なのだろうかと。
自分で把握していることよりもずっと多くのことを人間は知らず受け取っている。触れ合っている。
本当に自分の全てを知っていると断言できる人間など、この世にはいるのだろうか。
たとえば街角でふとすれ違った一瞬に。相手に自分の存在が何かをもたらしていないと、確実に言い切ることなどできるだろうか。
バスで隣に乗り合わせた主婦。
散歩中に出会った犬連れの姉弟。
喫茶店のウェイターや、
本屋のレジ係。
それらすべてに知らず係わり合い、すれ違い、触れ合っては離れ、そして幾つかは心の中に影を落とし、降り積もってゆくのだ。
人と人とのかかわり。世界というものの形。
その中に、自分はいる。
自分とは、一体何者であろうか―――。
―――こいつは誰なんだ。
この仕事を請けてから、毎日感じる強い視線。
ただじっとこちらを見ている、害意でも観察でもない気配。
尾行を逆手にとってこちらのフィールドに引き入れようとしても、引っかからない。引き際は同業者かと思ってしまうほど鮮やかだ。
しかし、自分には見当のつかない気配だった。知らない人間のものである。
一度でも関わったことのある人間の呼吸くらい全て頭に入っている。それなのに何も記憶に引っかからないということは、初めての相手だということだ。
視線は毎日色々な場面で感じられる。ふと気づくと奴はこちらを見ているのだ。
害意ではない。しかし害意以上に強い何らかの感情を含んだその視線。
一体何者なのか。
真意が掴めずに困惑する。どう対処すればよいというのだろう。
怖いと思うわけではない。自分は特捜で鍛え上げられた筋金入りのプロである。怖いとか不安だとか、そんな甘い感情はそもそも持ち合わせていない。
ただ、わからないのだ。何故この気配はこんなにも強く自分を見つめ続けるのだろう。
悲しくさえあるような、この痛みは何だろう。
……どこかで。……どこかでこの視線を知っていたような気がする。
確かに初めての気配なのに、そう思うのだ。
そのたびに心が頭を凌駕する。無いはずの記憶が胸を焼く。頭の中で警鐘が鳴る。
何か、何かを忘れている……自分は何か大切なものを忘れてしまっている―――
頭がおかしくなりそうになって、激しく首を振る。
それでも視線は訴えるようにこちらを射抜いて見つめつづけるのだ。
「最近どうしたんだ?元気ねーじゃん」
処は特捜の地方支部。
食堂で遅い昼飯と決め込んでいると、カゲトラにとっては元部下、現上役にあたるアキノが声を掛けてきた。
グループ捜査時にはその上下関係がはっきりと現れるのだが、普段の会話は至ってくだけている。もともとが同僚なのである。
いつも陽気な彼が大口を開けて笑いながら背中を叩いてくると、塞いでいた気持ちが少し軽くなった。
「サンキュ。何でもないんだ。ちょっと疲れてるのかもな」
少しだけだが笑顔になれた。
相手は些か疑問の残る顔で、けれど諦めたように肩をすくめた。
「まあ、言いたくないんならいいけどさ。
ところで今夜空いてるか?」
話題を変えると共に口調も変化している。それに気づいていながらカゲトラは少しだけふざけてみせた。
「晩メシでも奢ってくれるのか?」
相手は大げさに目を見張って深いため息で応える。
「マジメに聞いてくれよ。―――仕事だ」
ぐっと低くなった声音に、カゲトラはようやく眼差しを変えた。瞬時に、見事なまでにその瞳だけが変化する。
アキノが、―――潮がカゲトラに心酔するのはこういう瞬間だ。
全身にまとう気配は先ほどまでと何ら変わらない。傍目には会話の内容が変化したことを悟るのは不可能であろう。それでいて、瞳だけは恐ろしく冴え渡っているのだ。獲物を視界に捉えてその攻略法を探ろうと計算を始めた獣のような、危険で鋭い視線。
仕事と私事の切り替わる鮮やかなまでのその一瞬が、潮には鋭利な刃が光を受けて輝く刹那に似ていると思えるのだった。
静まりかえった瞳に向かって任務内容を告げるとき、その事件の性質を思って僅かに眉を顰めたが、アキノとしての潮は淡々と相手にそれを告げた。
「脱走者の追跡任務だ。今はこの住所にいる」
手に持っていた書類をめくって或る一枚を相手に見せ、殆ど瞬時に了解の頷きを得た彼はすぐにそれをしまい、続けた。
カゲトラほどの将ともなれば、見せられたものをほんの一瞬で暗記してしまうすべは本能的レベルにまで鍛えられている。与えられた情報を頭の中で処理しながら話の続きを聞いているカゲトラに、アキノは敢えて淀みず後半を告げた。
「標的は過去に二度、帰還命令に背いて逃げている。今度が最後の機会だ。お前が言って聞かないなら始末するようにと言い付かった。意志の無い者を矯正機にかけてやる余地は無いんだとさ。
―――でもお前にこの仕事は酷かもな……」
ぼそりと呟いた最後の言葉を聞きとがめて、カゲトラが僅かに首を傾げた。
「どうして酷なんだ?仕方ねーだろ、そういう掟なんだから。無断で抜けるときは、死ぬときだ」
何の疑いも躊躇いもなく言う彼を、アキノ―――潮はどこか痛ましげに見て、そして深くゆっくりと息を吐いた。
「……ああ。そうだよな」
話はわかった、と席を立ったカゲトラ―――高耶の後姿が見えなくなるまで、彼はじっと同僚の背を見送っていた。
「―――付け焼刃だってわかってても、やるしかないんだもんな……」
その代償がどれほど大きいか、今の彼にはわからなくても。いずれ身を以って知ることになる。思い出すことになる。
それでも、『管理者』には従うしかないのだ。
今の彼の精神の均衡が危うい綱渡りとわかっている状況でも、勝手に手を伸ばして救ってやることはできない。 誰にも。
そう、誰にも。
最も『危険』な、たった一人のその男を除いては。
すべてのキィにおける起爆剤に等しく、劇薬でもあり、唯一の救済薬である、彼だけ―――。
03/03/22
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