あと一日だけ、あと一日だけでいいから、このまま傍にいたい……
そんな風に甘えて、数日を過ごしてしまった。直江を知らない自分を演じ続けて、ことあるごとにつらそうな顔をする直江を見続けて、それでも、傷つけ続けても、少しでも長く傍にいたくて……。
直江はオレが直江を覚えていなくても、優しく接してくれた。栄養のあるものを食べなければと言って食事もこしらえ、オレが黙っていれば何か他愛ないお喋りで気を紛らわせようと試みる。直江の別荘には彼の住まいらしく書物もふんだんに置いてあり、よければ読んでくださいと薦めてくれた。オレが読書をしている間は直江も何か自分のことをしているようだが、本当は一目だってオレから離そうとはしていない。オレが喉が渇いて立ち上がると、すぐに気づいて自分が台所へ向かう。肌寒いなと肩をすくめると、何か言う前に直江が上着を掛けてくれる。
完全介護の病院でも、ここまでこまやかに気を使ってなどくれはしないだろう。
そのくせ自分の心の中はすべて鍵をかけて、一言だってオレに記憶を取り戻させようと無理を仕掛けはしない。自分のことも、千秋の知り合いだとしか話さない。自分があなたの恋人だったとか、そのせいでこんなに傷だらけになったなんて、おくびにも出さない。
直江はオレが思い出さない方が幸せだと考えて、自分の心を殺してしまうのだ。オレが幸せになるのならそれでいいと思って。自分の思いもその行き場も脇へ置いてしまう。
そんな直江の傍にいたら、傷つけるだけなのに。……それなのに、オレはここを離れたくなかった。一秒でも長く、直江の傍にいたかった。
別荘の主が珍しく自室にこもっていた日、高耶は海辺に座り込んで、いつまでも飽くことなく水面を見つめていた。
そこへ、例の黒豹がやってきた。このあたりは滅多に人が来ることもないから、こんな大きな獣がうろうろしていても騒動にはならないようだ。小太郎自身も賢いから、誰かに姿を見られるようなへまはしないのだろう。
この間は警戒するふりをしたけれど、もうそんなポーズも必要ないだろうと思って、すり寄ってくるのを受け入れた。
傍らに前脚を揃えて行儀良く座った温かな体に、頬を寄せる。
賢い獣に独り言を聞かせるのは、彼に何を言っても直江に伝わることはないから。直江には言えないことでも、小太郎になら聞いてもらえる。
「なぁ……オレ、最低だよ……直江のこと忘れて、直江がオレを探してるのも知らずに、再会しても直江のこと気づかずに白い目で見て、体で庇ってくれたのにそれでも直江のこと思い出さずに」
あのときも、あのときも、あの男はいつだってオレを見つめていた。いつも変わらぬ瞳で。愛しているとあんなにも雄弁に語っている瞳を、自分は素通りした。あの目で見つめられたのに思い出せなかった。
直江があんなに痩せたのはオレのせい。あんなに寂しい微笑はオレのせい。
何もかも、オレのせいだ……
「……ん」
小太郎が、慰めようとするように頬を舐めてきた。
この物言わぬ獣は、おそらく人間たちの言葉も思いもすべて理解しているように思える。直江も一人きりであの島にいたとき、きっと彼に慰められてきたのだろう。こうして黙って側にいてくれるだけで、百の言葉よりも満たされる。温かな体で冷えた心を癒してくれるのだ。
「ありがとな……」
腕を伸ばしてその首に回すと、おとなしく身を任せて寄り添ってくる。長い尾が背中のあたりにくるんと丸まり、ぱたぱたと叩いてくるのが可愛かった。
「小太郎、これからも直江をよろしくな……」
グルル、と喉を鳴らして獣が答える。しかし何か物言いたげにぐいぐいと鼻先で頭を押してくるのは、自分でやれよとハッパをかけてくれているのか。
「オレにはその資格はないよ……のこのこ直江のもとになんて戻れない。オレは特捜に帰って、直江とはもう会わない」
黒い毛並みに顔を埋めて告げると、小太郎は驚いたように身動きしてうなり声を上げた。
彼は彼なりに心配してくれているのだろう。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど……。だってオレと関わってるってだけで直江にはどんなに迷惑がかかってるか……必要のない怪我までするし、そんなにしてまで守った相手にはあっさり忘れられたりしてさ……」
高耶は俯いている。その唇が震えていることを、黒い獣は見て取った。
「でも直江は、直江は優しいから……そんなオレでも愛してくれる。心をすり減らして、他人の目で見るオレをあの眼差しで見続けて……あんなに痩せて……」
「直江は優しすぎるんだよ……どうしてあんなにも優しいんだろう?オレなんか見限って自由になったらいいのに、どうして何も言わずにオレを守り続けるんだろう。直江……」
「直江……好きだよ……こんなこと言う資格はもうないけど、好きだよ……なおえ……好き、大好き……なおえぇ……っ!」
高耶は海へ向かって呟いた。そして、誰もいない砂浜で叫んだ。
二度と口にできないであろう台詞を、思い切り迸らせて、彼は泣いた。
その傍らには、黒い獣がひっそりと寄り添っている。
03/12/20
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