―――平静な仮面の下で、男は落ち着きなく思考を彷徨わせていた。背後から掛けられた声にもしばらく気がつかなかったほどだ。
「―――様、―――様でいらっしゃいますね」
見れば、あちこちにいる給仕のうちの一人が自分の名を確かめていた。男はその若い給仕の姿を素早く上から下まで確認したが、印象的な黒い瞳のほかにはこれといって特徴のない青年である。一体これが例の『手引き屋』なのか判断をつけかねて、
「ああ、何だね?」
彼はただ、鷹揚に頷いた。
果たして、若い給仕―――の格好をした『関係者』らしき人物―――はシャンパングラスを差し出しながら、声のトーンを一段階落として、男にしか聞こえないように言葉を紡いだ。
「さる方よりご伝言をいただいております。十五分後に、この先の廊下を右に曲がった突き当たりの部屋で待つとのことです」
グラスを渡した後は、他の給仕と何ら変わらない仕草で会釈をしてその場を去った。傍から見れば、ただどこにでもいる給仕が招待客にグラスを勧めただけとしか思われないであろう、鮮やかな一幕である。青年が確かに『手引き屋』だったのだと納得し、男は腕の時計を確かめた。
取引の時間まで、あと十三分―――。
指定の時刻の数秒前に件の部屋の前へ至った男は、素早く左右へ視線を走らせて人影のいないことを確かめると、音も無く扉を開けて中へ滑り込んだ。
明かりは点いておらず、スイッチを探して右側へ一歩踏み出したところで、男は何かを感じた。
そう、これは、気配を消していた者が見動きしたために起こった僅かな空気の振動。
―――しかし、そのときには既に、彼の首筋に強烈な手刀が打ち下ろされていた。
声も無く崩れ落ちた男を引きずり、部屋の隅に仰向けに寝かせると、襲撃者はその体を探り始めた。何か特定の物を探している様子で礼装のジャケットの内側を調べていた彼は、やがて目的の物を発見した。
黒い手袋の指でつまみ上げたのは、切手大のケースである。パチンと開いて中身のマイクロカードを取り出した彼は、自分の内ポケットに用意してきたカードを換わりに嵌め込み、ケースを元通り男の懐へしまいなおした。
彼の任務はこれで完了である。
後の始末はこの男の取引相手がきっちりつけてくれるだろう。
僅か数分で任務を終えた特捜のエイジェントは、来たときと同じく気配を消して、窓からするりと抜け出した。
一方、短い攻防の痕跡すら留めていない部屋にはこのとき、別の人影がある。
先客よりも一回りも見事な体躯を黒衣に包んだ男は、未だ意識無く横たわっている男に屈みこみ、何か細工をしている様子だ。
ほんの数秒で男は目的を果たし、立ち上がった。
窓から差し込む光に、きらりと碧の輝きが反射する。
―――後に残されたのは、自分の身に何が起こったかを知らず倒れている男の姿のみ。男の礼装は何事もなかったかのように乱れが無く、その胸元にはエメラルドのタイピンが光っている。
previous <
07/12/27
|