一仕事終えた青年は、職員用の更衣室で給仕の服装を脱ぎ捨てると、一切の痕跡を残さぬよう身の回りの物品を鞄にしまい込み、抜かり無くチーフに辞去の挨拶をして出口へと向かった。
職員用の出口は、大使館の裏側の目立たぬ場所に設けられている。表側の重厚な扉とは打って変わった粗末なスチール製のドアを開け、脇に佇む警備員に軽く会釈して出てゆけば、ここでの任務は滞りなく終了である。後は本部へ戻って例のマイクロカードを上層部に引き渡すのみだ。
短期のバイトを終えて帰ってゆく、どこにでもいる若者の態で、青年は大使館沿いの道をごく当たり前の速度で歩いていった。
1ブロックを通り過ぎ、交差点を渡って次のブロックを右に進んでいったとき、一台の車が彼の傍らに滑り込んできた。とうにその気配に気づいていた青年は、助手席のウィンドウを下ろして運転席から身を乗り出す男に、にやっと笑みを投げる。
「お帰りの足はいりませんか?」
青年の歩く速度と同じペースで車を動かしながら、運転席の男がそんな声を掛けると、
「おとなしく送ってくれるならいいけど、そのまま連れ去られそうだからやめとく」
青年はくすくすと笑いながらつれない返事を返した。
「そんな意地悪言わないで。俺はとっても躾のいい犬なんですから」
男もまた、喉の奥で笑っている。
黒の礼装とエメラルドのタイピンを完璧に着こなしたいい男の『犬』発言に、青年はとうとうその場に足を止めて身を折った。
「高耶さん?ちょっと、笑いすぎですよ」
苦しそうに声をこらえて笑う青年に憮然としながらも、男は車を止めて迎えに出てきた。
何がそんなに面白かったのか、未だ声も出せないでいる青年を助手席に押し込み、彼は再び運転席に納まる。
「いつまで笑っているんですか、悪い子ですね」
「だっておまえが―――」
目尻に涙さえ滲ませた青年は、男の抗議に何か言い返そうと体ごとそちらへ向いたが、
「ン、……ん」
一言も言わぬうちに黙らされてしまった。情熱的なくちづけによって。
運転席と助手席という甚だ不自由な位置関係ではあったが、長身の二人にとっては大した距離ではなく、彼らは久しぶりの抱擁を思う様貪った。
バルコニーでの中途半端な逢瀬で生まれた熾き火は、人目のない密室での奔放なくちづけで一気に燃え上がる。
いつの間にか胸元に滑り込んでいた手が弱い場所を探る動きに、青年は喉を鳴らした。
しかし―――
「ん……こら、何してる」
男の悪戯な指先は愛撫のどさくさに紛れて青年の懐から切手大のカードケースをつまみ出した。
「って、直江、何すんだ !? 」
カードケースを耳元へ持っていって耳を澄ませた男は、急に体を離すと、見事な早業でサイドブレーキとシフトレバーを操作した。
青年が反応する間もなく、カードケースを窓の外に放り出して、車を急発進させる。
「 !? 馬鹿野郎!あれは……」
慌てて後ろを振り向いた青年は、一瞬の後に先ほどまで自分たちがいた場所に火柱が立つのを見て絶句した。
「爆弾としては大した威力ではありませんが、胸元に持っていてはさすがにね」
間一髪で難を逃れながら汗一つかいていない男は、たちまち人が集まってくるのからさっさと遠ざかるためにアクセルを踏み込みながら、片目で青年に笑いかけた。
「あれは偽物です。罠ですよ」
―――あの男は今頃、偽物が無くなっていることに気づいてほくそ笑んでいるか、そうでなければ気づかぬまま偽物を渡して締め上げられているか、どちらでしょうね。
交差点に差し掛かるたび、鮮やかなシフトさばきで曲がってはまたアクセルを踏み込み、という手順を繰り返しつつ、男はすらすらと事情を説明してゆく。
「おまえって……」
しばらく二の句が告げずにいた青年は、やがて、お手上げのポーズを取ってシートに身を沈めた。
適わねーな、と唇を尖らせながらも、その顔は笑っている。
「どうですか?なかなか気の利く犬でしょう?」
男はうーんと伸びをして寛ぎ始めた恋人へ視線を流して、ニィと唇の端を吊り上げた。
「……手に入れた物を簡単には渡さないのも、犬だからか?」
青年は、どこまで行くつもりなのかハンドルを放そうとしない男を上目に見上げながら、深い漆黒の瞳をきらりと光らせた。
「まあね」
「どこに隠し持ってるんだよ。本物のカード」
「いい子にしていたら、後でちゃんとあげますよ」
シフトレバーから一瞬手を離して恋人の顎をくすぐると、男は郊外へ向かう幹線道路に乗り入れてアクセルを踏み込んだ。
「後でって……順番が逆だろ?それを上に渡すまで仕事は終わらねぇんだぞ」
都心から離れる方向へ進んでゆく車をどうすることもできず、流れ去る夜景を視界の端に捉えながら、青年はじいっと男の横顔をねめつける。
「多少遅れたって構わないでしょう?翌朝一番に本部へ送り届けてあげますから」
男は痛いほど突き刺さる視線を嬉しげに受け止めつつ、時折ちらりと片目で恋人を見やった。
「オレはな、翌朝までなんて短すぎるって言ってんだよ」
ふん、と男の視線をかわした青年は、シートに深く身を沈めて腕を組んだ。
「おや、まあ」
思いがけず可愛い台詞に、男の視線がとろとろに甘くなり―――
「てめえ!前見て運転しろッ!」
掠めるようにキスを奪われた青年の叫びがBMWの頑丈なボディを揺さぶる。
「すみません。やっぱりこの犬は躾が悪いようです」
恋人の絶叫も何のその、楽しげに笑う男の胸元で、タイピンの石がきらりと光った。
道路の明かりに反射したその輝きに何か引っかかるものを思えて、青年が瞳を眇める。
「……『これ』か?」
ほんの一瞬で疑問の答えを見出した彼が、『カゲトラ』の鋭い眼差しで男を見上げると、
「ええ、あなたに差し上げようと思って。これも残念ながらイミテーションなんですがね」
い し
宝石より、中身の方に価値があるでしょうから。
やわらかく微笑むはちみつ色の瞳に、青年は今度こそ本当にお手上げのポーズを取った。
「おまえって奴は…… ほんとにサイコーだな」
*
いつかの香港とは比べ物にならないまでも、キラキラと宝石のように輝く夜景を眼下に見下ろす部屋で、久方ぶりの逢瀬を楽しんだ二人は眠りに落ちる前の睦言を交わす―――
なんだかんだ、毎年一緒に過ごしてるな。クリスマス。
段々庶民派の内容になっていますけどね。
別に、環境なんかどうでもいいだろ。
あなたの天国は『ここ』ですからね。
おまえの腕があれば、それでいい。
欲の無い人だ。
ばか。オレはとんでもねえ強欲なんだぜ。
あなたの『強欲』は俺の『渇望』するところですから。嬉しい限りですよ。
おまえこそ、欲の無ぇ奴。オレはとっくにおまえのモンだろ。
それを言うなら、俺だってとっくに全部あなたのものですよ。
自分のものだってわかってるのに、欲しいと思うのは、やっぱり強欲だろ?
そんな強欲、俺は大歓迎です。もっといっぱい印しをつけていいんですよ。
って言ってもな……これだけ見たら虐待されたみたいだぜ?
誰にも見せないんだから、いいでしょう?
そういや、そっか。
endless talk ...
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07/12/31
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