『仕込み』を終えて部屋に戻ると、二人はひとまず息をついた。
黒装束の襟をくつろげながら、高耶が手首を見る。
「行動開始まであと二時間か」
「中途半端に時間が空きましたね」
テーブルセットのところで卓の上に端末を広げていた直江が、肯いて相手を振り返った。
「とりあえず最終確認して、……それからどうする?」
締めていた場所を緩めて楽になった高耶は男の傍らに膝をついた。
「どうしましょうか。バルコニーに出て星でも見てます?」
「それもいいな」
二人はナオエの端末画面を覗きながら手はずの最終確認をすすめている。
爆発物設置場所、その発火後の周囲のダメージ予定値、乗客たちの『救出』経路の確認と、羊追い犬となるべき二人のそれぞれのポジションなど。
予想される最低限のことを全てシミュレートし終えると、二人はベランダに出た。
空が暗く広がり、遮るもののないそこに星が散りばめられられ、光っている。
瞬くかのように見下ろしてくるその光が、静かで優しかった。
何も知らないようでいて、何もかもを見通しているその眼差し。
神を信じなくても星の光は信じている。
星は何でも知っている。
「こうやって見てると、星って綺麗だよなぁ……」
黒装束の襟元を吹き抜ける冴えた風に首をすくめながら、高耶は頭上を振り仰いだ。
「雲がないからホワイトクリスマスは望むべくもありませんが、この星で感動できそうですね」
手すりに置いた彼の手を包むように自分の手を重ねて、直江が彼に倣う。
「降ってきそうだよな」
こつん、と頭頂部で背後の相手の胸を小突いて、高耶は呟いた。
二人は黙って空を見上げる。
知る限りの星座の名前を頭の中で読み上げながら。
「あの島の星空を思い出します」
しばらくそうして空を見上げたあとに、ふと直江が呟いた。
それを聞いて、相手は返事に詰まる。
「……恥ずかしいこと思い出させるなよ」
一拍おいてようやく、小さな声が返った。
室内から注ぐ光が、俯いた頭のために露になった項の赤さを男に知らせる。
彼はすっかり照れてしまっているようである。
「何で。なにも恥ずかしいことなんかないでしょう?」
包むように重ねた手をそっと締め、耳元に唇を寄せると、軽く首を振ることでやんわりと拒まれ、それが微笑を誘う。
「仕事中にプライベートの話はペース狂うんだよ。流されやすいんだからな、オレは」
恋人の言はこうである。
なるほど、雰囲気に流されやすいところもあるかもしれない。彼には。
そして、自分は雰囲気を仕立てるのが好きだったりする。
「そうですね。……でも今は空いた時間ですよ。『話』、したいんでしょう?」
だから、さっそくそれを実践してみる。
声を低めて相手にだけ聞こえる囁きで耳元をくすぐってやると、相手は反射的に首をすくめた。
「……っ!」
くす、と笑うと、相手は真っ赤になって振り向き、こちらを睨んできた。
「ん?何か間違ったことを言いました?」
重ねた手を手すりから奪い取って口元に持ち上げ、唇を押し当てる。
ちゅ、と小さく音をたててやると、相手は真っ赤になったまま、がるる、と喉の奥で唸るような声を上げた。
「おや、威嚇してるんですか?私は何も間違ったことを言ったわけじゃないでしょう?」
嫌がるようなことを言う割には振りほどかれずにいる手を、ぎゅっと握って首を傾げてみる。
意図的ないじめ。
わかっていて追いつめる。
さあ、可愛い恋人は一体どんな返事を返してくれるものやら。
「―――間違っちゃいないけど」
しぶしぶといった感じで彼は小さく肯いた。
「はい。けど?」
直江はしてやったりという表情になって指先で相手の顎の下をくすぐった。
まるで、仔猫を可愛がるかのような細やかな愛撫。
官能に訴えるような気配は微塵も無い。だから、単なるからかいの域を出ていなかった。
生きのいい恋人で遊んでいるのである。
「―――でも!やっぱり困る!別の話にしよう!」
果たして、相手は意図通りに反応してくれる。
顎の下の指から逃れるように後ずさり、そこが手すりであったことに気づいて、しまったという顔になっている。
これ以上は後ろに進めない。つまり、逃げるすべは無い。
しかし、彼の前を塞いでいる男に本気の色はなかった。
「ふむむ……」
くすくすと笑いながら自分の顎に手をかけて首を傾げると、直江はようやくからかいをやめることにした。
「直江?」
それ以上の悪戯を仕掛けようとしない男に、高耶が首を傾げた。
直江は、不審そうに瞬く瞳に瞬時に肉薄して微笑んでやった。
「本気であなたをいじめたかったわけじゃないのはわかっているでしょう?―――それは後でゆっくりと、ね」
「ば、ばかやろっ」
鼻の頭に軽く噛みつかれて高耶は吠えた。
ぐるるるる、と低い唸り声を上げる彼に楽しそうな笑い声をたててから、直江は話を戻した。
「それで、何の話がいいんですか?
……あぁ、そうだ。私がここにいるわけでも話しましょうか。気になりませんか?」
「なる」
ようやく話がそれて、相手は即座に食いついてきた。
直江は、寒いから中へ入りましょう、と相手を室内にいざなってベッドに腰掛けると、開いた膝の間に相手を座らせて満足したように口を開いた。
「どこから話しましょうか。
この船の意味はご存じですね?そして、この部屋に泊まる意味も。私はこのクルーズに出資しているんです。柊の名で」
相手の両手を一つにして自分の手で包み込み、冷えた指先を温める。
その温もりに肩から力を抜いた相手は肯いて、
「その理由が知りたい。オレが仕事で来ること知ってて出資したのか?それとも、この船自体に用があった?」
問う声は静かだが、的確でぴしりと有無を言わせぬ鋭さを含んでいる。
『高耶』の彼と『カゲトラ』の彼とがない混ぜになった様相であった。
一方の相手は飄々とした風で『ナオエ』らしさを覗かせている。
「もともとは用があってこのテのクルーズに参加し始めたんですよ。そうしたら、特捜が目をつけているというでしょう?これは狙い 目だと思って出資者に名乗りを上げたんです」
声に甘い響きが混ざる。
シャープに削げた顔のラインと、愛しげにたゆたう瞳が彼独特の色気を漂わせていた。
顔は見えずとも気配でそれを感じ取っている相手は、けれどそれに流されはせずに静かに問う。
「最初っからオレを持ち帰るために?」
そこに期待のような感情はない。
むしろどこか声が堅いことに、直江は気づいていたが、敢えて甘いままに答えを与えた。
「クリスマスを一緒に過ごすために。
……迷惑でしたか?」
手を握りこんで、背後から耳元に囁くと、ようやく相手が体の力を緩めた。
「……ばか」
俯き加減にこぼれた言葉は、素直ではなかったが雄弁である。
「それは、構わないと取っていいんですね?」
嬉しそうに顔を緩めて、直江は相手の体を抱きすくめた。
しばらくそれに身を任せて頭をこてんと後ろへ倒していた高耶であったが、ふとくすりと笑うと、手を後ろへ伸ばして恋人の鼻をつまむように指で挟んだ。
「オレは……ある意味嬉しいけど、ある意味傷ついたな」
笑いながらの言葉だが、それが冗談ではないことは直江にはわかっている。
同じ男として、プロの人間として、それがわからぬはずもない。
「すみません」
「理由、訊かないんだな」
即座に謝った直江に、高耶は少し目を見張るようにした。
「わかりますよ。怒っているんでしょう。……差し出たマネをしました」
そう。高耶が―――カゲトラが怒るのも無理はないことを、直江はしてきている。
それをこれまで甘受してきたのが不思議なほどだ。
「……手の上で遊ばれてる気がするんだよ。
オレが仕事するとき、いっつも後ろから舞台立てて動きやすいように手ぇ広げてくれてるだろ。今回だって、タイミングよくこのパーティが開かれたからオレは無駄な待ち時間を過ごすことなく仕事にかかることができた。お前が出資者として名乗りをあげたからだろ?何度か特捜の情報網に引っかかったこのクルーズの概要、あれお前が故意に流しただろう?
―――そういうのが、何だかお前の手の上で踊らされてる気分になるんだよ」
カゲトラは淡々とそう述べた。
その口調が穏やかであるがゆえにいっそう深く彼の思いが伝わってくる。
直江には、目を伏せることしかできなかった。
「お前はいっつも……オレの下に網を広げて待ってる。いつ足を踏み外しても受け止められるように、何もなくてもそうして転ばぬ先の杖をついてくれてる。
オレを守ってくれるのを嬉しいと思うのも事実だけど、その前に……何て言うか―――オレはお姫様じゃないんだぜ?守らなくていいのに。そんな風に守られなきゃいけないような人間じゃない。
お前はそんなつもりじゃないんだろうけど、ある意味オレのこと信用してないってことなんだぞ。お前のしてることは」
いつも、どんなときでも、背後で見守っている直江の瞳と見えない腕を感じている。
それが愛しいのも事実。それが嬉しいのも事実。
でも、……そんな風に彼のフィールド内で泳がされている気がするのもまた事実なのだ。
一人のプロとしての仕事のつもりが、最高のコンディションに整えられた直江の手の上で滑稽に演じているような気になる。
そんな気が、する。
「……すみません」
彼の心情が手にとるようにわかるから、直江はただ謝罪するよりほかにない。
自分が彼を心配するのは恋人として当然のことだが、だからといって相手の仕事領域にまで踏み込むのは確かに許されざる行為であろう。
それでもどうしてもやめることはできないのだが。
彼が次にどう言うかが、大きな問題だった。
どうしても嫌で、許せないと言われたなら、自分の取るべき道は一つ。
今度こそ、完全に彼をさらってしまうだけ。
そうして誰の邪魔も入らない場所で、二人暮らすのだ。何の心配もせずにすむ。目の前に彼が存在している、そんな生活。
―――それこそ、許されない話だけれど……。
直江は暗い願いを抱いて彼の言葉を待った。
そして、高耶はこう出る。
「……でもな、」
ふう、と彼はため息をついた。
そして、綺麗な笑顔になった。
「やっぱりお前の顔を見た時は嬉しかったよ。わざわざ来てくれたのはわかってたからさ」
直江が目を見開く。
そうして一度ゆっくりと瞼を伏せ、再び開かれたそこには涙にも似た感情がたたえられていた。
「……ありがとう」
言葉になるのはこれだけだ。
あとは、ただきつく相手を抱くだけ。
「礼を言うのはこっちのほう。あのときだって、お前がいなかったら無用な立ち回りをやらかすところだった。助かったよ」
腕の中、胸の中で、恋人は笑っている。
少しだけ照れて頬が赤いのが、横から見て取れた。いつまで経っても初々しさを失わないそんな仕草がたまらなく愛しい。
そっと顎をとらえてこちらを向かせる。
「―――気をつけてくださいねといつも言うでしょう?あれはあなたの力を信用していないわけじゃない。
あなたは頑張りすぎるんです。あなたに力が足りないんじゃない。ただ、本当に危ういところまで踏み込もうとするんです。
……そこが眩しいのも確かなんですけどね」
見つめて微笑むと、くすぐったそうな笑みと共に掌が頬に伸びてきた。
「直江みたく何でもできて落ち着いてる奴ってすごいと思うよ。できないことなんか無いだろ?」
左の頬にそっと寄せられた掌が温かい。
その上に自分の手を重ねて、肯いた。
「ある程度はこなせないと、生きてこられませんでしたから。
弱点というものが一つでもあったら、それが命取りです。味方は一人でしたしね」
そういう世界だ。一人で生きようと思ったら、あらゆる点で自分を守れるだけの力を備えていなければならない。
ほんの一箇所でも脆い場所があれば、そこから簡単に攻撃を許してしまう。
自分の傍にいてくれたのは、たった一人だった。
「……有吉さん?」
唇を噛んで、高耶が問うた。
彼がその男に特別な感情を抱いていることは、直江も知っている。
『橘』での、自分の後見人。『榊』によって『橘』が殲滅されたその後も、変わらずただ一人だけ自分に仕えてきた。そして『榊』への報復が終わったそのときに自ら命を絶った……。
自分が一番つらかったあのとき、傍にいてくれたその男。
生涯一人きりの人に出会えるまでは、その男が自分の最後の砦だったのだ。たとえその命が既にこの世には無くても。
「そうですね。あの男がいなかったら私は本当に独りきりでした。……一人の時間の方が長かったですけれどね。結局は。
――― 一本の電話が掛かってくるまでは」
そう、あなたに出会うまでは。
「うん」
その人は今、自分の腕の中で泣きそうな顔になって肯いている。
「二度と離したくないんです。知らないところで何かあったら悔やんでも悔やみきれない」
「うん……」
「弱いのは私の方なんですよ。不安でたまらなくなることがある。またあなたを攫って、今度こそは永遠に逃げ回って二人だけでいたい―――」
それが本音だ。
傍にいないと気になって仕方がない。今回のように自分の目の届く場所で仕事をしていてくれないと不安で押しつぶされそうになる。
目の前で、確かに今ここにいると、存在しているのだと、わからせてくれないと、心が先に音を上げてしまう。
自分の知らないところで彼がもし失われてしまったらと、最悪の想像で心が潰れる。
大切だった存在を悉く喪ってきた自分だから、こうと決めた存在には恐ろしく弱い。
―――沈黙を破ったのは、遠くを見つめるような高耶の声だった。
「……オレたちさ、いつか引退して二人であの島に行けるかな」
恋人の胸に頭を預けて、彼は呟くようにそう言った。
「引退ですか……随分先の話になりますね」
その背をゆっくりと撫でながら、直江が思いを馳せる。
「うん。じーさんになって、それでもよけりゃ……一緒にいよう?」
見上げるようにして誘う恋人の瞳は、冗談めかしているようでいて、その実透明に冴えている。
おそらくは、それほどの歳月を越えなければ二人は一緒にはなれない。無断で抜けることのできない世界に二人はいる。
まっとうに第二の人生を送るには、この世界でやってゆけないほど歳を取ってからでなければならないのだ。
それがわかっているからこその瞳であった。
「歳を取ったって変わりませんよ。あなたはあなただ。……そもそも、歳を取るのは私の方が先ですよ」
恋人の提案に一も二もなく肯いて、直江はふわりと微笑んだ。
その語尾が悪戯っぽく笑っている。自分と相手との一回り近い年齢差をほのめかしてのことである。
「じーさんになっても直江はかっこいいよ。保証する」
対する彼も即座に答えた。
「わかりませんよ?皺だらけになって、髪なんか真っ白になって。むしろ禿げていたりしてね」
「それを言い出したら、オレこそそうなってるよ」
11やそこらの歳の差など、老年域に達すれば何ら問題になるようなものではないのだと笑う。
「お互い様ですかね」
「そうそう」
「歳は取りたくないけど……早くその時がきたらいいな」
しばらくじゃれるように頭を胸に擦り付けていた高耶が、ふとしみじみしたような声音で呟いた。
その時の来るのを、これからどれほど待つのだろう、と。
「―――狂言でも打ちますか。たとえばこの船を爆破して姿をくらます」
直江がくすりと笑ってそんな提案をする。
「はは。なるほどな。死んだことにすればいいんだ」
「そうすればうるさい追っ手も来ませんしね」
冗談だとわかっているから、笑うことができる。
けれど、目は笑っていなかった。もし本当にそれを行えば、今度こそ完全に二人きりになれる。
いっそそうすれば、と囁く声が心のどこかに存在することを、知っていた。
「―――ま、とりあえずは正月までの休暇で手を打ちましょう」
ふっと笑んだ直江が、その場の深い沈黙を破った。
「一週間、つきあってくれるんでしょう?楽しみですね」
それまでの気配をきれいに払拭し、普段の微笑みを浮かべて彼は恋人の額にキスを落とす。
「オレも楽しみだよ。仕事さぼるんだから、色々やろうな。どっか出かけて遊ぶぞ!」
くすぐったそうに首を縮めてから、相手は生き生きと目を輝かせて言った。
「どこに行きたいんですか?お約束で、テーマパークにでも?」
すっかり甘やかしモードになって、直江も笑っている。
ふいに、高耶がくしゃりと顔を歪ませた。
「……本当は、どこでもいい。―――天国に行きたいな。お前といる場所に」
声音が、泣きたくなるほど切なかった。
そして、胸が潰れるほど愛しかった。
直江はそっと相手に問う。
「天国ですか?どこにあるの?」
「ココ」
コツンと相手の胸を小突いて笑う高耶に、直江はこの上なく優しい瞳になった。
「嫌になるまで居させてあげますよ」
顔中にキスを降らせて男は愛しい恋人を抱きしめる。
「……ものすごく不健康な休暇になりそうだよな」
嬉しそうにそれを受けながら、相手はわざと眉を寄せてみたりする。
「ええ?健康的でしょう?仕事の汗を流してすっきり」
至極楽しそうに親指を立ててみせる直江である。
「すっきり、か。……溜まってるもんなぁ」
「ええ、つもる話をすっきりとね」
何なら今すぐにでも―――とたちの悪い冗談を聞かせた男は、即座に鉄拳を食らうことになる。
「ばっかやろう!」
ロイヤルスイートに響いた怒声は、けれど楽しそうに笑っていた。
―――『沈没』まで、あと三十分。
02/12/31
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