そのとき、乗客たちは何かとてつもない震動に襲われたことに気づいた。
知覚したと同時に、彼らは自分たちの状況を思いだし、飛び起きた。
今彼らは船の上にいる。
先ほどの震動は波によるものとは全く異質な激震であった。普通の状況とは思えない。
そう……自然の現象ではありえない、突発的で激しい揺れ。
つまり、原因は外界にあるものではない。
内部に、何かが起こったのだ。
そう判断して、彼らは完全に覚醒した。
先ほどの揺れは尋常ではなかった。船に何か大きな問題が起こったのである。
おそらくは走行にも支障をきたすであろう、破壊を伴ったと思われる。
それはつまり、この船でのんびり眠っている場合ではないということになる。
跳ね起きた彼らは異常事態に直面した人間ならば誰でもそうするように部屋を飛び出し、隣人たちと騒ぎ始めた。
勘の鋭い者は既に身支度を整え、後ろ暗いところのある者は荷物をまとめ始める。
「一体何だ今のは!?」
「船の走行が止まってるぞ」
「船長は何をしているんだ」
様々な声が上がる中で、ようやくブリッジからの放送が入った。
『こちらはブリッジです。船長よりお知らせをいたします。
乗客のみなさま、落ち着いてお聞きください。先ほどの揺れは当艦の駆動機関に発生した重大なトラブルによる船の急停止のために起こったものです。原因はディーゼルエンジンの近辺で起こった引火による爆発とみられ、只今消火活動に全力を尽くしておりますが、まことに申し訳ありませんがこのクルーズは中止せざるを得ない状況です。トラブルを未然に防げなかったことをクルー全員よりお詫び申し上げます』
動揺を何とか抑えつけて冷静にそうアナウンスした船長であるが、乗客のパニックはむしろ煽られた形である。
駆動機関付近で爆発が起こったなど、いつまた大爆発に発展するかわからない。いつ沈むともわからない船に今自分たちは乗っているのである。恐怖しない方がおかしかろう。
「何だと!」
「馬鹿な……」
「一体どうなっているんだ !? 」
乗客は口々にあるいは叫び、あるいは頭を抱え、あるいはまた手近にいた憐れな客室係を締め上げはじめた。
その興奮がブリッジへの突撃に発展するかと思われたそのとき―――再びアナウンスが入った。
『乗客のみなさま、追ってお知らせいたします。
只今、近海を航海中の船と通信が繋がりました。半時間ほどでこちらへ到着するとのことです。
みなさま、どうぞご安心ください。乗客のみなさまにはそちらの船に移っていただきます。みなさまの安全を確認したうえで、我々クルーも救助船へ移ります。
みなさま、ご安心ください。客室係がテンダーデッキまでご案内いたしますので、落ち着いて誘導に従ってください。
繰り返しお知らせいたします。
現在当艦は自力走行不可能状態にあり、また、みなさまの安全のために救助船への避難を行います。あと半時ほどで船が参りますので、乗客のみなさまにおかれましれは、速やかにテンダーデッキまでご移動願います』
客室デッキの廊下では、叩き起こされた客室係たちが声を嗄らしながら、乗客たちをテンダーデッキへと誘導していた。
客たちはみな極度の興奮状態にあり、救助船が来るという情報すら真偽は怪しいものだと言い合う。
本当に自分たちは助かるのか、この船は沈むのか、と客室係を責め立てる者も多い。
気の毒なのは客室係たちであった。深夜にようやく眠りに就き、やっと少し微睡んだと思ったら突然の揺れに眠りから引きずり出され、さらにチーフに叩き起こされ時間外労働にいそしむはめになったのである。
恐慌状態に陥った乗客たちに責め立てられ、自分たち自身も不安に苛まれながらの誘導作業が困難をきたしたのは何ら不思議ではない。
乗客の大半は着のみ着のままでテンダーデッキへと誘導されて行った。
時刻は午前四時。普通の人間ならば眠りの世界を彷徨っていた時間である。いずれも寝乱れた様子に驚きの硬直を貼り付け、あるいは意味を成さない罵り言葉を口の中で呟きながらという状態であった。
しかし、その中でも天晴れというべきは女性陣であった。それぞれの部屋ですっかり寝入っていたところを想像もつかないような事情で叩き起こされたというのに、女性たちは、特に普段はおとなしいで知られる名家の女性たちは、きちんと服装を整え、髪と化粧すらも一通り済ませてから避難してきたのである。本物の淑女は、非常時にこそ、その真贋を現すということを、彼女たちは体現していた。
―――尤も、現在のこの船の乗客の中でどれほどの人間がそのようなことに気づいている余裕を持っていたのかは定かではないが。
乗客たちは各自の事情はともかく、客室係たちの懸命の誘導作業によりほぼ全員がテンダーデッキへと集まっていった。
慌てて着込んだお仕着せの乱れるのも構わずに走り、叫び、客の腕を掴んでは避難経路に放り込んでいったキャビンクルーの中に、宝の姿もあった。極端な混乱状況下では、夜の間に特定の客に連れてゆかれていたということを問題にするどころではなく、同僚の誰一人として仕事に戻ってきた彼に必要以外の会話を仕掛ける者はなかった。
「北翼の乗客は全員避難済みです!」
「南翼も全て確認できました」
「東翼と西翼は?」
「あと御二人です。担当の係から、迂回してこちらへ向かうという連絡が入りました」
忙しく飛び交う遣り取りは、予想外の状況に対する激しい動揺と緊張に加えて、一人の人間としての恐怖や不安も垣間見えたが、クルーたちは厳しく指示を下すチーフマネジャーの指揮下で、何とか仕事をこなしていた。
(どうやら皆、本当にこの状況を信じ込んでいるらしい)
目まぐるしい指示と遂行の合間に同時に、彼らスタッフを観察して、カゲトラは内心で頷いた。
ブリッジに潜入している仲間がうまく情報操作をしたのであろう。
実際には船は沈没するほどのダメージを受けたわけでもなければ、動力部に爆発が起こったわけでもない。ただ、異常と呼べるほどの衝撃を船全体に与えられるように計算して爆発物を要所要所に仕掛けただけである。それが爆発すると同時にブリッジから現状把握のための数値の書き換えをさせて、船全体を騙しているのであった。あたかもこの船が沈没寸前の危機に瀕しているかのように、船上の人間全体を巧妙な詐欺にかけたということである。消火活動はコンピュータ制御で行われるうえ、『火事』の現場へは人間が立ち入れないように通路を塞ぐ形で爆発物を仕掛けてあるので、手前で火に阻まれたクルーはエンジン付近へは近づけない。事実にクルー側が気づくことは不可能であった。
現代の大型船舶は大昔とは違って様々な情報をブリッジのパネルで把握するようになっている。言い換えれば、そのパネル自体に細工をして虚構の『現状』を見せても、誰も事実との食い違いを悟ることができないのである。
ほんの数世紀前までならば、動力部にしても甲板にしても、生身の人間が現場で働いていた。その頃ならばこのような単純な小細工は到底通用しなかったであろうが、奈何せん、現代はこのような大型船舶の操作系統は殆ど大部分がコンピュータによって制御されている。コンピュータそのものに故意に間違った情報を植えつけたときにそれが事実であるのかそうでないのかを人間が自力で判断することは、ほぼ不可能という状態にあるのであった。
神は人間に智恵を授けた。
人間は智恵を授かり、そしてそれに甘んじた結果、自ら動物以下の脆い存在に成り果てた―――
ふとそんなことを思ったカゲトラは唇の端だけで皮肉に笑って、それからまた見回りへ出かけていった。
救助船の到着は、最初のアナウンスからおよそ二十分後のことであった。
たまたま付近を演習航海中だったという海上自衛艦との触れ込みのその船は、『Poseidon』に並ぶ形に艦を横付けして、テンダーボートに乗り込んだ乗客たちを一人ずつ受け入れていった。
外から眺める『Poseidon』は数箇所から黒い煙を吐いていて、傍目にはいかにも沈没間近と見える。
乗客たちはそこから逃れることができたということに胸を撫で下ろし、安堵からすっかり思考を鈍くしていた。
彼らは気づかない。自分たちをボートから引っぱり上げ、艦内の狭い船員室に連れて行ってくれたアーミースーツの男たちが、本物の自衛官でないということに。
自衛官以上に特殊な機関に属している人間たちだということに。
極度の緊張とその後の安堵とで疲弊しきっている彼らには、その微妙な違いに気づくだけの洞察力も冷静さも残ってはいなかった。
『救助船』に収容された彼らは、それと同時に身柄を拘束されたのだということに未だ気づいてはいなかったのである。
黒い羊たちを檻の中へ首尾よく追い込んだ羊追い犬たちは、外から鍵を掛けて中の人間たちを催眠ガスで眠らせると、リーダーにその旨を報告したのであった。
ジェネラウ
「将長!」
『櫻』の一員である《八重櫻》は、今回の任務で指揮している大隊の副長位にある一人の将に声を掛けられて、項で一つに束ねている髪を揺らした。
見る者を圧倒させるほどの長身に、鍛え上げられた肉体を持ちながら、この男には見事なまでに気配がない。その巨体をどのようにしてさばいているものか、ヤエはまるで影のように佇む。足音はおろか、空気に振動を与えることすら絶えているかのように思われるその身のこなしが、男の素性を物語っていた。
『櫻』は『特捜』のさらに奥に存在する機関である。特捜の最高位が黒バッジすなわち将長であるならば、櫻の構成員は平でも黒バッジに匹敵すると言われる。
今回ヤエが派遣されたのは、この任務が緊急逼迫のものであったために事前に演習を行うことができなかったことによる。大隊を率いての作戦は本来、どんなに少なくとも二度は演習を済ませてから本番となるべきであるのに、今夜はただの一度もメンバー全員の顔合わせをする暇が取れなかった。そのような状態の大隊を指揮することは熟練の将長でも易いことではない。
そのような際に、完全な指揮統率力を持つリーダーとして櫻の人間が抜擢されることは珍しくなかった。一匹の羊に率いられた狼の大群よりも、一頭の狼に率いられた羊の群の方が強い―――古来から言われ続けていることである。
言い換えるならば、ヤエ―――八重櫻―――はそれだけの能力があると見込まれて今回の任務に登用されたのであった。
彼は副長の報告を受けるべく後ろへ向き直った。
「目ぼしい乗客は全員『避難』し終えました。女性は第二船室に、老人は第四船室に、そのほかは第三船室に収容して既に眠らせてあります。
船員の方ですが、こちらはまだ事後処理などで手間取っている様子です。ブリッジの潜入員からは異状報告はありません」
副長の報告は手短かであったが、ヤエは眉を少し顰めて口を挟んだ。
「目ぼしい、というのはどういう意味だ。こちらへ来ていない者があるならばすぐに収容せねばならんぞ。何故放っておく」
言葉は静かで淡々としているが、普通の人間の話し方ではない。ぴしり、と厳しい鉄線を仕込んだような、怜悧さがそこにはある。
「一人、避難してこなかった男がおりまして。カゲトラが既に縛り上げて船室に転がしているとの報告が入っております」
副長は頷いて事情を説明した。しかし、それを聞いていたヤエの瞳の色が僅かながら変化したことに、彼は気づかなかった。
「それは自己申告か」
問いは間髪を入れずに肯定された。
「はい。それならば間違いはないかと」
かつて最年少で黒バッジを身につけたカゲトラのことを知らぬ者はない。そして、その後それが何故剥奪されたのかということについての真実を知る者はごく限られている。大半の将たちはそれを仕事中の何らかのミスのためだと解釈していた。カゲトラ自身の能力が問題だったのではなく、運の問題であろうと。
そのカゲトラが自ら手を下したと申告したのならば、それを疑う理由は将たちには無いのである。
副長は『知らない者』の一人であった。
そして、ヤエは数少ない『知る者』であった。
彼は今回のカゲトラの行動に、本来の任務過程から考えて辻褄の合わぬ箇所を幾つも発見していた。そして、今、その理由にも大体のところは気づいていた。
気づいて、深いため息をついた。
―――事情を知らない副長が、滅多に見られないであろう任務中の櫻の大きなため息に驚いているのを、彼は視界の隅にとらえて内心で苦く笑ったのであった。
(カズサの兄君がお嘆きですよ―――三の君)
内心の呟きを聞くことのできた者はただ、ヤエ本人のみ。
その頃、件の青年は船内に残るクルーたちを誘導しにかかっていた。
「乗客は皆様、救助船へ移られました。自衛官の方々がクルーも早く移れと仰っています!そろそろ危ないそうです。早く、ボートへ!」
キャビンクルーの同僚たちと一緒に船内を走り回って他のクルーたちを誘導する。
キャビン・スチュワーデスやウエイトレスの女性たちを先に移動させ、それからウエイターやキャビンクルーもボートに乗り込み始める。
最後までブリッジで頑張っていた航海士・機関士・通信士といったクルーもようやくテンダーデッキへ降りてきて、ボートへ移動し始めた。
「北条さん、あなたはどうするんです。どうして乗らないんですか!」
他の人間を先に乗せて自分はまだデッキに残っている宝に、同僚たちが驚いて声を上げる。
「まだチーフやキャプテンが残っているんです!彼らを探してからオレもそっちへ行きますから!」
宝は遠ざかるボートに向かってそう叫び、それから身を翻して再び船内へと走っていった。
そう。まだこの船のイベントに直接関わっていたチーフクラスの人間たちは船に残っているのである。
おそらくは船の中に証拠を残すまいとして隠滅作業に奔走しているのであろう。
この船が沈没することは疑っていないにしても、滅多なものを残して下船することはできないということなのだ。
「全部で1.2.……7人はいるか。プラス、胡散臭いイベントスタッフの野郎共な」
ホールとその周辺が最もきな臭い場所である。それから、商品たちを入れていた部屋。
とりあえずホールへ向かうことにして走ってゆく。
爆破の影響で照明系統が不安定になったのか、廊下は薄暗く瞬いている。ジジジ、と不穏な音をたてながらランダムに明滅するそれは、フィン・スタビライザーの停止による激しい船の横揺れと相まって、妙に感覚を狂わせるようだった。
ふらふらと揺れそうになる意識を叱咤して駆けてゆくと、途中でついてくる気配があった。
「そっちじゃないですよ」
腕を掴まれて方向を変えさせられるのにおとなしく従いながら、宝は―――カゲトラは船内を探ってきたはずの男に問うた。
男はスーツの上着をどこかへ脱ぎ捨てて、シャツ姿になっている。野性的な気配を帯びたその体を横目に見て、カゲトラは少しだけ微笑んだ。
「どこがあやしい?」
並走しながら肩越しに応酬する。
「ホールや船室にはもういません。どうやら甲板の反対側からボートで脱出するつもりではないかと」
「ボートで出てったってここは海の上だろうにな。どうやって逃げおおせるつもりなんだか」
「そうは言っても、おとなしく縄を掛けられるわけにはいかないんでしょう。何か奥の手でもあるのかもしれませんよ」
鼻を鳴らしたカゲトラに、ナオエは思慮深く首を振ってみせた。
窮鼠猫を噛む、ということわざがあるでしょう、と油断の怖さを諭してくる相手にカゲトラは少し笑った。真面目な顔をして説教するなんて、まるで最初に出会ったときのようで。
「笑っている場合ではありませんよ?」
笑いを見て取って、相手の顔が渋くなった。ここは戦場なのである。安寧の時間と同じに考えていてはたまらない。
それを受けて、カゲトラはようやく真面目に頷いた。
「気をつける」
「私は証拠状況を確認してきます。先に甲板へ行ってください」
「ああ。頼む」
二人は角で二手に分かれた。一方は上部、甲板へ。もう一方はメインデッキのホール周辺へ。
それが起こったとき、逃亡者たちは何が何だかわからずただ竦んだ。
甲板からボートを下ろしながら乗り込もうとしていたまさにそのとき、ボートを吊るしている頑丈な鎖の一本が前触れも無く千切れたのである。万全の安全基準をクリアしているはずのその鎖が、全く突然に。
自然ではありえない、何者かによって切断されたのだということに思い至ったときには、既に遅かった。
先にボートに乗っていた人間たちは、見上げた甲板から仲間がばたばたと落ちてくるのをただ凝視した。落ちてきた人間たちには息があったけれども、いずれも完全に意識をなくしている。
懐にしていたはずの鋼鉄は探っても見つからず、それが既に何者かによって奪われているのだと気づいた瞬間には、追跡者が目の前に飛び降りてきていたのであった。
ギリッ……
既に四本のうち一本を失っている鎖が、降って来た重みに抗議して呻く。
意識のない男たちの上に降り立った黒い影は、しなやかな肢体に冴えた闘気を纏った青年であった。
「特捜の令状により、お前たちを逮捕する」
まず、一人目の首筋に手刀を落とす。
「罪状は、」
二人目の鳩尾に膝、
「非合法品評会の開催及び、」
三人目と四人目の背後に飛んで、二人の頭を左右からぶつけ、
「人身売買の斡旋……」
五人目に昏倒した二人の体を押しやって、よろめいたところをやはり鳩尾に一発。
返す脚で六人目の顎を蹴り上げ、
「……さて、どうする?キャプテン」
最後に残ったのは船長一人だった。
僅かの間に他の六人を昏倒させた青年に、船長は後ずさる。
青年は無言の気迫で以って、じりじりと迫る。
一歩、また一歩。
人間の山の上を器用に進み、船長はやがてボートのへりまで追いつめられた。
もう、後が無い。
青年がゆっくりと最後の一歩を踏み出したとき―――
船長は突如として動いた。
ガラガラガラ……
「っ !? 」
鎖の巻き上げ機に飛びついてレバーを思いきり下げたのである。
そのレバーは、左右で同時に操作しない限りボートを水平に保つことができない。
すなわち、この場合には片側の鎖だけが恐ろしい勢いで巻き送られ、ボートはみるみるうちに急角度に傾き始めたのであった。
……一瞬の対応の遅れが、船長の方を優位に立たせた。
「落ちろ!落ちてしまえ!」
自分は鎖にしっかりと掴まり、船長は脚で船の側壁を蹴ってボートを大きく揺らしたのである。
その一瞬の反撃にカゲトラはバランスを崩し、体勢を整える前にボートから放り出された。
宙に舞う感覚を知ったとき、彼の中の朱雀が燃え上がった。
何という失態。
何という屈辱。
子どもたちの目を思い出せ。意志を殺された瞳は誰のせいだ。
くぼんだ瞼を思い出せ。あの心労は何のせいだ。
すべてを仕切ってきたのは誰だ―――
その憎むべき男に不覚を取るなど、断じて許せぬ。
自分は誰だ。何のために生きている。
特捜を耐え抜いたのは何のためだ。
命よりも大切なものを奪われてまで生きたのは何のためだ。耐えたのは。なぜ。
こんなところで不覚を取るためでは決してない―――!
「くッ―――!」
ぎりぎりのところで鎖を掴み、腕一本で全体重を支える。
鉄の鎖は彼自身の体重を受けて掌に鋭く食い込んできた。錆びた匂いは鉄のものか、それとも流れた血のためか。
いずれにしても、その鼻に突く匂いは彼の中の炎に油を注いだ。
普段は目覚めずにいる炎の鳥が、彼を灼熱の塊に変えてゆく。
その瞳が燃え上がる。
この航海の間中、抑えて抑えて抑え込んでいた、過去との一触即発の暴風雨が、今このとき、枷を無くした。
過去に受けた痛みと、ぶつける場所の見つけられなかった怒り。
今回目の前で見せ付けられた醜悪な宴とその犠牲者の瞳。
それらが、彼の中の朱雀に火をつけた。
「しぶとい奴だ!これでもか!もっと鎖を伸ばしてやろうか」
カゲトラの変化を知るよしもなく、男はまだボートから落ちずにいる相手にいきり立った。
殆ど狂乱状態に近い揺さぶりを続けるが、相手は腕一本で未だしがみついている。
「ばかな……」
それどころか、特捜の青年はゆらりと自分の体を引き上げ、ボートのへりに戻ってくるではないか。
ゆっくりと。
不気味なまでにゆっくりと。
「ばかな!一体どうなっていると……」
ガシャン!ガシャン!
無言で激しい殺気を纏い近づいてくる相手から目をそらし、追いつめられた男は狂ったようにボートを揺さぶり続けたが、それはもはや無意味だった。
チャ、と音をたてて黒い刃が現れたときには、男にはただ鎖を掴むより他には何もできはしなかった。
「この船にしみついた全ての嘆きの代償を……支払え。
到底足りるものではないが、せめてもの慰めに―――」
振り上げられた刃が薄明かりの中でぎらりと光る。
ヒュッと空を切り裂く鋭い音がして、その黒い刃は男の腹に吸い込まれる―――筈、だった。
しかし、それよりもほんの一瞬だけ早く、男は頭部に飛び道具を受けて昏倒していた。黒い刃は虚しく空を切ったのみである。
「殺してはいけない、高耶さん!」
同時に、声が降って来た。
甲板から覗き込んでくるのは、
「……直江……」
握り締めていた刀が、ゆっくりと下へおりた。
鎖を巻き上げて甲板まで戻されたボートに、身動きすることを忘れたように立ち尽くすカゲトラを、直江はきつく抱きしめた。
彼が限界を越えた理由もその衝撃もわかっていて、ただ優しく背中を叩く。
昔の傷を思い出したんですね
怖かったんですね
心の底から怒ったんでしょうね……
でも
もう怖くない
ここにいる
私がいます
その広い穏やかな胸の中で、カゲトラは高耶に戻った。
ようやくゆっくりと開いていった指から、黒い刃が落ちた。
直江が微笑む。
「お疲れ様でした……高耶さん―――」
クリスマスの朝が明けた。
明るい光に満ちた朝日はどこへも同じように差し込んでくる。
特捜の指揮下にある自衛艦の船室で眠る標的たちにも。
黒煙を吐き出し続ける空っぽのクルーザーにも。
そして、特捜の医療部に横たわる十二人の子どもたちの上にも。
『Poseidon』はそっくりそのまま証拠物件として特捜から警察の手に引き渡され、自衛艦に拘束された人間たちにもこれから取り調べが待っている。
罪を認め、償う日々への夜明けであった。
そして、白いベッドに横たわる子どもたちにとっても、以前とは別の厳しい現実が待っている。
クリスマスの朝は、彼らにとって、直面して乗り越えねばならない現実への夜明けであった。
目覚めるまで、彼らにほんの僅かでいい、安らいだ眠りが許されていますように。
一人、青年は祈る―――。
やがて、渡ってきた特捜の将たちに『Poseidon』を引き渡すと、カゲトラは彼らの気づかないうちに姿を消していた。
「行こう」
差し出した手の擦過傷を、相手は労わるようにそっと舐める。
痛みよりも、甘い陶酔が体を満たしてゆく。
涙が出るほどいとおしい。
全ての傷ごと受け止めて、癒してくれるただ一人の存在がここにあるから、生きてゆける。
なおえ、
なおえ。
なおえ……
「お前のいる場所に、連れてって―――」
自分たちだけの天国へ。
03/03/10
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