高耶はベッドから出ると、手早く身づくろいをして左耳の緊急回線をぷつりと押した。
すぐに管理部に繋がり、コード照会の後に交換手ではなく直接上司に入信する。普段ならば交換手に繋がって用件を尋ねられるところなのだが、任務中はその監督者に直接繋がるようになっているのである。
「『―――アキノだ。何があった』」
今回の任務の監督者はかつての同僚・アキノである。カゲトラは一度特捜を無断で抜けようとしたことがあり、その際に黒バッジを剥奪され、現在は平の将に戻されていた。
「『―――アキノ。カゲトラより要請する。当該船は明朝早くに『沈む』。救助隊の入れ物と大隊で、乗客をすべて拘束のこと。
また、これより『商品』の救出を行う。こちらは秘密裏に小隊一個で回収に来てほしい。なお、一切の探知機に掛からぬよう 細心の注意を払ってもらいたい。『沈没』時までは気取られては困る。それから、『商品』たちは身体的、精神的に著しく傷ついているので、そちらの対処もよろしく頼む。
大隊の方は突入予定はない。装備は最低限でいい。ただし、ペーパーだけは必ず用意してくれ。
―――以上だ』」
カゲトラは当初の捜査行動予定とは大きく離れた内容を申告したが、相手は動揺を見せずに対処した。
「『了解。大隊についてはアキノより本部に要請する。
小隊は直ちに現地へ向かわせる。櫻を将長に立てるので、間違いなく連絡をつけるよう』」
『櫻』が出てくることにカゲトラは一瞬だけ眉のあたりで反応を見せたが、それだけだった。
「『了解。通信を切る』」
簡単に肯いてそう言うと、
「『了解。……頑張れよ、仰木』」
アキノは―――潮は、語調を普段の砕けたものに変えてそう励ましの言葉を掛けてきた。
カゲトラは高耶に戻って笑い、
「『あぁ。これが済んだら本部に連絡して休暇を取る。悪いがフォロー頼むぜ』」
と一方的に告げた。
むろんのこと、そんな話は予定にはない。彼は正月までは休みなしに仕事が詰まっているはずだった。
そこへ、事前連絡もなしにこの一方的な通告である。
「『何だとぉ !? おい、後始末はどうするんだよ?』」
当然のことながら、相手は声を裏返した。
現在の任務においてカゲトラはアキノの管理下にある。つまり、その責任は彼にあるのである。
仕事を放り出してさぼられては、皺寄せが彼に回ってくることになるのだった。
「『だから、そこんとこ頼む。半年働きづめだったんだ。頭キレたんだろうとでも報告しといてくれ』」
「『おい、仰木―――』」
プツン
泡を食っている元同僚にくすりと笑って高耶は通信を切った。
「……あなたにしては珍しく、責任を放りましたね」
背後から感心したような声が掛かり、彼は笑いながら振り向いた。
「しょうがないだろ。お前に会ったんだから。これまで働きバチだった分、正月まではしっかり休ませてもらうぜ」
腕を組んで力強く肯く彼に、直江は少し目を見開いた。
「そんなに長く付き合ってくださるんですか?」
嬉しそうに笑うのが愛しくて、高耶の方も笑みを深くする。
そして相手の額をこつんとはじくと、
「お前が言ったんだろうが。一週間は付き合えって。……それに、オレだってまだ話し足りないし」
「話し足りない、ね」
くすりと笑って相手にも同じことを返された。
じゃれ合いは、一足先に瞳を変化させた男の言葉で終わりを告げた。
「さあ、とりあえず仕事を済ませてしまいましょう。
かわいそうにこんな船に閉じ込められたあの子達を助けてあげないと」
二人は昨日あの熊男に見とがめられた場所へと向かった。
既にブリッジを除く各部屋には空調に細工して催眠性のあるガスを通してあり、余計な邪魔が入ることはまずない。
本来ならば夜警の男が歩いているはずの真夜中の廊下には人気がなく、何の妨げもないままに二人は件の船室までたどり着いた。
第7デッキのステートルーム。
カゲトラは夕方と同じように白い手袋の手首から金属製の薄板を取り出すと、それをキー照合機に差し込んだ。
カードキーと同じサイズのそれは、磁気ではなくて電気信号でパターンを読み取り、無効化してキーを開かせるように作られている。電気は磁方向と直交して作用するので痕跡を残さない。特捜の開発部門の作である。
音もなく扉はアンロックされ、カゲトラは扉を静かに押し開けた。
内部で騒ぎが起こる様子は、当然ながら、無い。
各熱源の位置をスコープで確認しながら彼は猫のようにするりと中へ入ってゆき、ナオエを手招いた。
「(大丈夫だ。来い。)」
扉をストッパーで固定すると、二人は一切の音を立てずに奥へ入り込み、子どもたちのところまで歩いていった。
「(……ひどい顔をして……)」
カゲトラが微かな声で呟く。
シングルベッドに二人ずつ寝かされていた子どもたちは、ガスの効果で眠り込んでいたが、それが決して快い眠りでないことは、寄せられた眉とくぼんだ目元からも窺えた。
どんなにか絶望したことだろう。知らぬ間にこのようなところへ売られ、薬を嗅がされて競りの舞台に立たされて。
買い手への引渡しが下船時であっただけ、まだ何も起こっていなかった分、ましだったのかもしれないが。
カゲトラとナオエは目配せし合うとそれぞれ一人ずつを抱え上げた。
感傷に浸る暇はない。
明朝の行動までにはこの子どもたちを安全な場所へと移しておかなければならないのである。
そうして二人は足早にテンダーデッキへと向かった。
第4デッキであるテンダーデッキへは、非常階段を駆け下りればすぐである。三階分の移動は鍛え上げた彼らの足にとっては基礎運動にも満たない。
二人は、テンダーボート使用時に使われる非常用ゲートの前まで音もなく駆けてくると、そこで足を止めて子どもたちをそっと下へ下ろした。
接岸できない港での上下船にはテンダーボートが使用される。このゲートはその際と緊急時にのみ使われるものであった。
カゲトラが要請した小隊はここへ迎えに来ることになっているのである。ゲートの開閉はブリッジに潜入中のSAが行う手筈であった。
二人は連れてきた子どもをゲート横の待合ソファの上に横たえると、再び第7デッキへと取って返した。
二人で六往復。
全部で十二人いた子どもたちの全てを運び終えると、二人は最後に上へ上がって扉の始末をし、それからもう一度第4デッキに下りてきた。
子どもたちは薬の効果が持続しているせいでぴくりとも動かなかったが、彼らの体は意識がないにも関わらずひどく軽かった。
心労のせいで痩せてしまったのであろう。かわいそうに。
カゲトラは眉を寄せてソファの脇に膝をつくと、一人の子どもの額に手を触れた。
いずれもまだまだ幼い、普通ならば親に甘えている年頃の子どもたち。
それが、こんなところで競りに掛けられ、好事家の玩具にされようとしていた。従順になるように薬を嗅がされて。
とても割り切れるものではなかった。
自分もかつて理不尽な争いに巻き込まれて人生を狂わされた身なれば、よくわかる。
彼らがこの後、立ち直るまでにどれだけの時間を悲嘆と苦悶に過ごすのかを。
そこに手を貸してやることはできない。誰にも。
親兄弟でさえ、何の力にもならないだろう。
自分の中だけで、長い長い時を苦しんで苦しみぬいて―――
―――そうしていつか立ち上がれたならいいのだが。
この子どもたちの中の一体何人が親元へ帰ることができるだろう。
無事に家族の元へ戻ることのできる子どもはおそらく、一部だけだ。
何の問題も無い家庭に育ち、突然かどわかされた者のみが、家族の呼び声の元へ素直に飛び込んでゆくことができる。
しかし、親兄弟に問題があってカタに取られてきた大半は帰る場所を既に無くし、そんな行き場の無い子どもたちは特捜入りすることになるのであった。
ショックでまともに口も利けない、そもそも平時でさえまともな判断力を持つとみなすのが困難な幼い子どもたちであるのに、戸籍抹消、身柄は特捜預かりとなり、SAの厳しい訓練を受けさせられ、もし合格しなければあてもなく追放されることになる、そんな過酷な現実が、これからこの子どもたちには突きつけられようとしているのである。
大抵の場合は矯正機にかけられて精神洗浄を受けさせられ、付け焼刃ながら意志の確立を否応無くさせられる。そうやって苦い記憶を無理やりに封じ込められ、役に立たぬ人形ではなくさせるのである。
それでもいつかフラッシュバックを起こしてショック状態になることは多々あるし、そうなったときに自ら命を絶つケースは稀ではなかった。
「―――高耶さん」
ふと後ろから抱きしめられて、高耶は我に返った。
「高耶さん。思いつめないで。
あなたに私がいるように、きっとこの子達にも唯一人の誰かが現れます。きっと……」
強い、けれど優しくて温かい腕が、何ものからも守ろうというように全身を抱きすくめた。
囁かれる、確かな言葉。
自分を過去の鎖から解放し、記憶の泥沼から引きずり出してくれた、たった一人の存在が、ここにいる。
「オレは、本当に幸運だったよ……」
高耶はそっと目を閉じた。
「お前に会えた。広い世界の中で、唯一人のお前に出会えた。それがオレの最高の幸運だ……」
そう、そんな『唯一人』に出会えるケースはきっと稀だ。
自分たちのような奇跡的な巡り合わせでもなければ。
きっと出会えずに別れ別れに生きているたくさんの恋人たちがいるのだろう。
自分にできることはただ、祈るだけだ。
いつか彼らがその人と出会えますように。
「お前に出会えて本当によかった」
目を開けて、高耶は後ろを振り向いた。
微笑みを浮かべて、世界に唯一人のその男を見つめる。
「そのお陰で降格処分になっても?」
相手はくすりと笑って首を傾げた。
「掟破りっていうのもいいだろ?」
そそるだろ?と悪戯な笑い声で答えると、きつく抱きしめられた。
「痛い、直江」
「もうすぐ連中が来る。それまではこうしていて」
「見られたらどうする」
「その前に逃げますよ」
特捜と堂々と顔を合わせるのを好まないナオエである。
ゲートの向こうで動きがあり、カゲトラのコールに入電したところで彼は目立たない場所まで身を移動させた。
「『―――八重櫻より、カゲトラへ。只今より救出作業を開始する』」
落ち着いた低めの綺麗な声が緊急回線に入り、行動の開始を告げた。
「『カゲトラより、了解。商品は既にこちらにある』」
諾を伝えると、ゲートが音もなく開き、向こう側から黒装束の男たちが姿を現した。
二十名編成の小隊で、派遣元はカゲトラの属する支部であるため、顔見知りの面子である。
彼らが獣のように静かに中へ移ってくると、その後ろから白衣の人物が五人続いた。彼らは特捜の中にあっても現場の捜査員ではなく医療部門に属する医師たちである。
今回彼らは子どもたちの心の傷に対応するために同行してきたのであった。目覚めたときに周りにいるのが黒ずくめのものものしい男たちとあっては、無闇に怯えさせるだけであるから。
黒い男たちはものを言わずに子どもたちを抱き上げ、ゲートの向こうの闇へと消えた。そこには特捜の消音ボートが控えている筈である。子どもたちの様子を見て大丈夫だという合図を送った白衣の医師たちもそれに続き、最後に残ったのは、直江よりも幾らか体格の良い、黒装束の美丈夫であった。
切れ長の目には漆黒の瞳。後ろで一つに束ねた髪も同じ漆黒である。直江とは対照的な、和風の美貌であった。
男は襟元に黒バッジをつけているが、櫻の意匠がSAのそれとは異なっている。特殊機関『櫻』のバッジであった。
彼は獣のように引き締まった見とれるような腕でカゲトラに向かって軽く敬礼をすると、するりと闇の向こうへ消えていった。
そして、小隊を見送るとゲートは再び音もなく閉められ、後に残ったのは始めから何も起こらなかったかのような元通りの空間であった。
「―――『櫻』が出てくるなんて珍しい。急な話だったからですか?」
物陰から再び姿を現したナオエが呟くと、カゲトラがそちらに目をやって
「たぶんな。あとは、ヤエがオレと顔見知りだからだろう」
と腕を組んだ。
「親しげでしたね」
眉を顰める男に、高耶は笑う。
すっかりいつもの顔に戻って悪戯な笑みを浮かべると、傍へ来た男に抱きついた。
「嫉妬はありがたいな。でも、オレが堅いってことはみんな知ってるさ。だいたいヤエは有名な女好きだぜ?」
間近で瞳を覗き込んで首を傾げると、相手は渋い顔をする。
「それは理由になりません。あなただって私だって、別段女性が嫌いというわけじゃない。それでもこうして恋人なんです」
額をくっつけて苦く呟く男に、高耶は真顔で肯いた。
「そうだよ。オレはお前のものだし、お前はオレのものだろ。それ以外のどこに目を向けるっていうんだ」
じっと見詰め合ってそう言いきると、彼は相手の額をぺしっと叩いた。
「ちょっとはオレのことも信用しろよ?」
そうされて、苦かった瞳がようやくほどけた。
「……そうですね。あなたのこととなるとつい我がままになってしまう。恋は盲目とはよく言ったものです」
ため息と共に呟くと、
「盲目、か。そうだよな。オレだってさっき拗ねたし」
持ち帰り騒動のことを思い出して高耶も少し目を伏せた。
「大丈夫、私はあなただけですから」
「ならオレのことも信じろ。どんなときでもお前のことだけ考えてるよ。
……たとえ、記憶を無くしても」
笑っていた瞳が、ふと泣きそうになった。
まだ新しい、傷が彼の中には残っている。彼がそれをどれほど悔いて自らを責めているか、知っているから直江はその瞳の端に口づけて肯いた。
「そう、あなたは確かに証明してくれましたね。何があっても絶対に私を思い出す、と。
……ねぇ、もうあのことは忘れていいんですよ。そんな悲しそうな顔をしないで。笑って……」
「ん」
しっとりと濡れ始めていた黒い瞳を瞼で隠して、高耶は自ら相手に口づけた。
幾らも経たないうちに主導権は相手に移り、何もかも忘れるほどそれに酔ってゆく。
かつて記憶の扉を開いた鍵も、この口づけだった。分厚い氷の壁を溶かし、燃える炎をも越えて、自分の奥底の真実へと手を伸ばす、他の誰にもできない口づけ。
何度あんなことがあっても、きっと自分は思いだせるだろう。
この熱い『手』が、押し殺された記憶をつかみ出すだろう。
―――しばらくして名残惜しく唇を離した二人は、それから明朝の行動の下準備に掛かり始めた。
主には爆発物の設置である。
簡単な構造の爆発物を効果的な位置に仕掛け、行動開始と共に爆破するのである。
船が『沈没』するという筋書きを真実のものにする―――少なくとも乗客にとって―――ために、船に致命的な打撃を与えず且つ大いに揺さぶるような、仕事が必要になる。
それが発動した瞬間に、ブリッジからは船内麻痺の信号を与え、船を事実上の航行不能に陥らせる。そして、そこへ救助隊の体裁を取った特捜の大隊が駆けつける、という手筈であった。
明朝早く、ガスの効果が切れる直前にコトは起こる。
乗客は非常事態のベルと共にクリスマスの朝を迎えることになるのであった。
行動開始まで、2時間半―――。
02/12/24
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