会場は、特有の異様な興奮に包まれていた。
本来は様々な形のコンサートが行われるために造られたホールである。高い天井を持ち、舞台上の音声は拡張器を使用せずともホール全体に響きわたるように設計されている。
組まれた梁は美しいアーチを描いて、艶やかな木目が生かされている。壁も柱も天然木を惜しみなく使用しており、やはり船の中とは思えない。国立劇場の縮小版のようでさえあった。
その場所を、今は飢えたハーピーたちが支配している。
肉を骨を噛み砕き、欲望のままに生き血を啜る化け物が、上品ぶった仮面をようやく引き剥がして声を張り上げる。
柊の名刺を提示すると、係の男の中から、黒い上下をつけたクルーズ・ディレクターが進み出て二人を特別桟敷へと通した。
場所でいえば二階席ということになるのだろうか。舞台を正面に高いところから見ることのできる位置に張り出した桟敷である。考えてみるまでもなく、このホールで最高の席だ。
ここを使うべき四人の出資者のうち、柊以外の三人は皆、舞台に最も近い場所に設けられた臨時の席を希望したために、本来ならば二組が使用可能のはずのこの桟敷では、今は柊と宝の二人のみが席についていた。
「ちょうど良かったですね。他の者たちは競り落としに熱中したいらしい」
桟敷の手すりに軽く手を掛け、舞台のすぐ傍を占めて精力的に競りに参加している人間たちを見下ろして、柊は口の端を吊り上げた。
「この場所は本来ならば観賞用には最高の位置らしいのにな。……尤も、今行われているショーは近くで見なければ意味がない。
オレたちがここから見るのは別のショーだ」
「ええ。私たちはここからこの世でもっとも醜悪なショーを眺めることにしましょう」
ゆったりとしたローチェストに身を沈め、深い葡萄色の革に背を預けた男は、傍らのワインテーブルからシャンパングラスを手にとって舞台へと視線を向けた。
「……早く済めばいい」
低く呟いて、カゲトラは仮面の内側に仕込まれた記録器の電源を入れた。
直江が、その横顔を気遣わしげに見つめている。
オークションは絵画や彫刻などの芸術品から始まり、幻と呼ばれて存在すらも疑われてきたような作品や、つい先ごろ何処かの美術館から消えたという明らかな盗品まで、ありとあらゆる希少・非合法の類が舞台に上った。
たとえば、巨匠の幼年時代のスケッチ画。それに本当に価値があるのかどうかもわからないような代物にも、ハーピーたちは群がる。それ自体に価値があろうとなかろうと、それを持つということに大きな意味があるのであろう。もしくは、その画家に何か特別な思い入れがあるのかもしれない。
また他には、ある国の王室が保管しているはずの、世界一大きなダイヤモンドが競られている。王室行事で必ず使用される宝杓、宝冠の類ですらも例外ではなかった。
さらに、世界的に知られている美術館や博物館に展示されているはずの数々の人類の至宝までもが、堂々とここでは取引されている。一般の人々が本物だと信じている展示品は、いつとも知れぬ間に精巧な模造品とすり替えられているのである。知る者ならば知る話ではあるが。
そういった盗品は、それの出所がどうであれ、このような場所では堂々と人から人へと渡っている。
金のある人間が競り落とし、没落と共に売りに出され。
それら一つ一つには、その持ち主の栄枯盛衰の歴史が刻まれているのである。
カゲトラは、出品される様々な芸術品を、一つ一つ記録に収めていった。
そして、それらに群がる醜悪なハーピーたちのショーを。
彼の眉は終始きつい角度に跳ね上がっていたが、とうとう舞台上に人間が上ったとき、彼はこらえきれず唇を噛んだ。
いずれも、幼いと言って差し支えない年齢の少年少女たち。
見目の良い、好事家であれば喜んで買いそうな『高級品』である。
体の線がわかるように薄布のみを纏わされ、薬を嗅がされているのか無表情を保って物怖じもせず舞台に並ぶ姿があまりにも痛々しかった。
『天使』『精霊』『人形』などと名前を付けられ、息をする芸術品たちは競りの舞台に立たされた。
たちまち集中する、幾多の眼差し。
むき出しになった欲望、もしくは道楽精神。
芸術品を値踏みするような、美しさといとけなさを愛でるような、種々の視線が子どもたちを串刺しに貫く。
次々に競り落とされてゆく彼らは、あるいは生きた観賞人形として、あるいは愛玩動物として、そういった仕事に従事させられるべく連れてゆかれることになる。
突き刺さる幾多の目は、『物』を見る目。
誰もが、彼らを物品として扱っている。血の通った人形。きれいな顔と体を持つ、都合のいい玩具として。
彼らは、親兄弟自らの手で売り飛ばされた者もあり、いわゆるかどわかしに遭ってこの場に立つ不幸に陥った者もある。
決して、自らの意志でここに立っているわけではないのだ。
自分を磨き、高値で競られることに快感を覚える類の人間とはわけが違う。
ここは、子どもたちにとっては地獄の場所でしかない。
薬を打たれて従順にさせられ、こうして物品のように売られ買われ、連れてゆかれた先で何をされようとも―――たとえ面白半分に体に傷をつけられても、その結果として命を落とすことになっても―――文句すら言えない立場なのである。
すべて、体も命も何もかもを込みにした値段で、彼らは売買されるのだから。
カゲトラには、薬のために虚ろになった子どもたちの瞳が直視できなかった。
あまりにも似ている。
特捜に拾われて精神洗浄を受けた子どもたちのそれと同じ目をしているのだ。
目的は違えど、感情を抑えられ、扱いやすいようにされることには何ら変わりはない。
自分自身も受けてきた、見てきたその目を見ると、カゲトラには内から湧き上がる灼熱をどうすることもできなかった。
……そう、何よりも大切な記憶を無理やりに奪われたあの過去を、未だ許すことはできない―――。
―――灼熱に打ち震えるその肩を、直江がそっと抱いた。
安心させるように。自分はここにいると伝えるように。
沸騰寸前だった心は、その穏やかな温かさにたちまち静まっていった。
そうだ。自分にはこの男がいる。全てを受け入れ、心から愛し愛される人間が、ここにいる。
父母を亡くし、妹は植物状態という自分に、確かな安らぎを与えてくれる人がいる。
どんなときにも駆けつけて、知らぬ間に助けの手を差し伸べていてくれる、奇跡のような存在。
そう、この男に出会えたことが、きっとすべての不幸を埋めてあまりあるほどの幸運なのだ。
「なおえ……」
小さく囁いて身を寄せると、わかっていますよというように腰に腕が回され、そちらへ体重を預けると宥めるように何度も叩かれた。
今ここにいる子どもたち。
たった今は何もしてやれないけれど、待っていてくれ。もう少しだけ。
きっと君たちを解放してあげるから―――
カゲトラは、泣きそうになるほど愛しい腕の中で、新たな決意を刻みなおした。
灯りを落としたロイヤルのベッドルームには、今は静けさが戻っている。
1ラウンドを終えてぴったりくっついていた二つの体のうち、片方がふと身を起こした。
「どうかしましたか?高耶さん」
情事の名残の甘い声が手を伸ばす。
引っ張り倒されて抱き留められるのをくすぐったそうにくねって逃げながら、高耶は黒い瞳を生き生きと光らせて、何かを企むような声で言った。
「……決めた。直江、明日つきあってくれ」
「確認しなくてもそのつもりですが?」
笑って首を傾げる相手に、高耶はため息をついた。
「そうじゃなくて、逆。それはちょっと我慢してもらって、仕事の方につきあってくれ」
「……今日もいい加減ぎりぎりのセンだったんですけどね」
直江はわざとらしくため息をついて、お手上げポーズを取ってみせた。
言葉尻は落胆しているが、実際のところ瞳は面白そうに光を放っている。
高耶は両手を合わせて男に頼んだ。
「頼む!そしたら地上で三日つきあうから。管理部がガタガタぬかすのを待たずに実力行使で休暇もぎ取ってやる」
ぎらりと瞳が光って、この場にはいない『誰か』を睨みつけた。
「三日と言わず、一週間くらいは見ておきたいですね」
くすり、と笑うその鳶色の瞳にも、あの野生の光が瞬き始めている。
本能的に鋭く冴え渡って、狩りの予感に燃える獣の瞳。
高耶が―――カゲトラが、何かを計画しだしたのだと瞬時に悟って、久々の二人舞台に意識を馳せた様子だ。
「わかった。それで手を打とう。
それじゃ、今夜はもう少し楽しもうぜ。……ただし、手加減してくれないと明日立てないからな。悪いけど」
高耶は頷いて、それきり話題を変えた。
鼻先に指を突きつけて、悪戯な笑みで相手を誘う。
「じゃあ、あまり負担にならない程度に溺れさせてあげましょう」
こちらも了解の頷きを境に先ほどまでの光をすっかり消して、甘くて熱い男の眼差しにかえった。
交わされる視線がすぐに体の奥へと火をつける。
再び腕が回されて体の位置が入れ替えられるまでには、それほど時間はかからなかった。
02/12/23
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