照明を最低限に絞っているそのデッキは、夜目の利く彼でなければただ歩くのにさえ不安を覚えるだろう雰囲気の中にあった。
彼は、音の立ちやすい支給品の靴にも拘らず全く音を立てずにその暗い廊下を歩いている。
その鋭い瞳が、ざっと辺りを見渡して異状を探す。
ぎらぎらと気負っているわけでもなく、しかし何一つ見落とさないその瞳はプロのそれ。
一般人とは明らかに違うそれが、やがてある場所で定まった。
ステートルームのうちの3室。非常階段とエレベーターの中間に位置する部屋だ。
じっと視線を注げば、ぴりりと全身に走るものがある。
ここか、と内心で一人ごちて、カゲトラは足音を殺したまま身軽にそちらへと距離を詰めた。
胸ポケットに仕込まれた機器で反応を探ると、壁越しにも明らかな生命反応があらわれている。
売り買いされる人間たちはここに入れられているらしい。
カゲトラは白い手袋の手首から薄い金属片に似たものを取り出すと、それをキー照合機に差し込んだ。
音もなく扉がアンロックされ、彼はそこを薄く開く。
そうして、棒状の記録用機器を挟んだ指先だけをそっと中へ滑り込ませた。
ほんの数秒で、内部の環境情報は得られる。
今すぐに助けてやれなくてごめん、と内心で呟いてから、彼は手を抜いて再び扉をロックした。
「 !? 」
同じことを続けて、次に用の済んだ手を引っ込めようとしたところで、彼はふいに眉を寄せた。
―――気配が、足音が近づいてくる。
不審者を見とがめた足音。カツカツと近づく。
その甲高い音はやがて間隔を狭め、追跡者の歩調の変化をダイレクトにあらわしていた。
「そこに誰かいるのか?誰だ!何をしている !? 」
足音の主は非常階段の方から走ってきている様子だ。
その足音からも声音からも、相手が屈強な男であることは悟られた。
まずい。逃げ場がない。階段は押さえられているし、エレベーターを待つ暇はない……
カゲトラは失態に拳を握り締めた。
そして、彼は何かを吹っ切るように首を振ると、音もなく駆け出してエレベーターホールを目指した。
仕方がない。
出来うるかぎり隠密行動で済ませたかったのだが、こうなってはあの男を「黙らせる」しかない。
角に姿を現したところで飛びかかろうと決め、ホールに背中から身を滑り込ませた。
―――そこで。
カゲトラは後ろからの思いがけない腕に出あった。
身を翻す間もなく、手を掴まれてぐいっと抱き込まれる。
「っ!」
咄嗟の反撃を封じたのは唇だった。
きつく重ねて吸われ、相手を知る。同時に懐かしい香りが鼻腔に届いた。
―――直江が、宝の襟に手を掛けてシャツを乱暴に肌蹴ながら囁いた。
「大丈夫、私に任せて」
その言葉が終わると同時に先ほどの追跡者が角を曲がってきた。
「そこで何をしている!……っ !? 」
二人の明らかな様子に男は絶句し、
「し……失礼いたしました!お邪魔を……」
片方が上部デッキの客と見るや、ぱっと頭を下げた。
「いや。……続きは邪魔の入らないところでさせてもらおう」
宝を抱きすくめ、その首筋に唇をつけていた直江が、野暮な乱入者にため息をつきながら顔を離した。
そして、真っ赤になっている宝を庇うように胸に収めると、彼は、頭を上げたものの口をぱくぱくさせて酸欠状態になっている男に向かって、ポケットから何かを取り出した。
「この人が気に入ったから、このクルーズ中、私が借り受ける。
人手不足になってしまう詫びをキャビンクルーのチーフに伝えておいてもらいたい。
―――それから、これを」
男はそれを受け取ってしまってから追いついた直江の台詞の意味を理解したらしい。
当惑して表情を隠せずに、
「いえ、当艦では、失礼ですがそのような形でスタッフをお貸しするわけには……。彼には彼の担当する部屋がございますし」
ようやく、上部デッキの客が胸に抱いている相手がキャビンクルーの一人だということを見て取って、彼は要求に口を差し挟んだ。
「迷惑はこの通り、詫びる。とにかくチーフにそれを渡してくれ。それでわかるから」
しかし直江は全く知らぬ顔をして厚顔にもごり押しを続けた。
さすがに困惑しきった男が何かを言おうと口を開きかけたが、彼は手の中のものにふと視線を落とすと―――劇的に態度を変えた。
目が点になったかと思うと、その頑固そうな顔は瞬時に赤くなり、そして次に真っ青に血の気が引く。
七面鳥のように顔を赤青させる、という言い回しがあるが、この男の場合は、灰色熊に出あった小熊とでも言えばその状態を表せただろうか。
「た、大変失礼をいたしました!」
殆ど泡を吹きかねない様子のその男の手の中には、一枚の名刺と、黒いパスケースがある。
どうやら彼をそこまで変化させたのはその名刺であったようだ。
黒の上下を纏っていることからチーフクラスの人間だと見て取れるその男は、その名刺に書かれた名前の意味を知っていたらしい。
その薄い紙切れをパスケースともども壊れ物を扱うかのように両手で大事に持ちなおすと、男は最敬礼して、逃げるようにその場を去ってしまった。
「……お前、好色オヤジの真似事かよ」
その足音が完全に消えると、直江の胸から顔を上げて、高耶が呟いた。
真っ赤だった筈の顔はけろりと平静に戻っている。先ほどのは単なる演出であった。直江の打った芝居にさり気なく信憑性を持たせるための。
「あれが最善だったと思いますが?刃傷沙汰にもならなかったし、一般人にも被害は与えずに済んだ。―――まぁ、さっきの男の慌てようは少し気の毒でしたがね」
くすりと笑って直江がその背中を抱きなおす。
その目がふと凄みを帯びた。
「尤も、あなたに何かしようとしていれば、その時点で彼にはこの世と別れを告げてもらうつもりでしたが」
「何かされるまでもないって。オレが先にやってた」
穏やかでないそんな言葉に、しかし、道徳的反論などを返すつもりはさらさらなく、高耶はおとなしく身を任せて再び相手の胸に顔を伏せる。
そんな様子を愛しげに見つめていた直江は、ふと表情を変えて続けた。
「―――ただ、あなたまでそういう目で見られてしまいましたね。すみませんでした」
曇らせた瞳に、高耶が首を振る。
「いや、オレこそ迷惑かけた。ごめん。ありがと」
伸び上がって首に両腕を回し、目じりに軽くキスすると、相手は再びいつもの微笑に戻った。
「さ、それでは部屋へ行きましょうか。さっき言ったとおり」
「……あれ、本気なのか?」
「ええ。あなたは私に口説かれたんです。ついていらっしゃい」
「おいおい」
宝は直江の上着を羽織らされ、腰を抱くようにされてエレベーターに乗せられた。
第10デッキに着くと、ちょうどエレベーターを待っていたらしい二人連れに出会い、宝は演技半分、本気半分で真っ赤に顔を染めた。
そしてそれを隠すように直江の肩口に顔を伏せると、傍目にはいかにも、口説かれました、という雰囲気が漂い、鉢合わせたその男女はそう珍しくもないその光景をすぐに忘れることになる。
先ほどの男はああ言っていたが、実際には実権力の強い客の意向でクルーがそういった仕事に就かされるケースは男女を問わず、ちょくちょく起こるのである。もちろん、表向きには、そのような売春めいた行動は絶対にありませんと謳っているのだが。
二人はそうして、必要以上に人目を引くこともなく無事に部屋へたどり着くことができた。
NU001。
やはり直江はロイヤルの滞在客であった。先ほどの男が名刺を見て吃驚仰天したのはおそらく柊義明の名を目にしたからであろう。
このロイヤルに泊まる客という意味を、彼は当然知っていたのだ。
「……慣れてる」
中へ入ってどすんとソファに掛けたところで高耶が唇を尖らせた。
「はい?」
その背後に立って嬉しそうに黒い髪を指で梳いていた直江が、不思議そうに声を返す。
「お前、お持ち帰り、慣れてるだろ」
続いた高耶の声が不機嫌である。
「おや、嫉妬してくださるんですか?嬉しいですね」
「ふざけてないで、答えろよ。直江はこんなこと慣れっこなんだろ」
腕を組んでむすっと問う高耶に、直江は静かに首を振った。
「いいえ。持ち帰るほど気に入った相手なんてあなた以外にいるわけないでしょう?
―――あなただってそのくらい知っているはずです」
上半身を屈めて上から額に唇をつけると、相手がふっと息を吐いた。
「……そうかもな」
小さく肯くと、上を向いて目を合わせてきた。
「オレだって、お前じゃなきゃ、持ち帰られたりしない」
くすり、と笑いあう。
瞳を合わせれば、何も語らなくても通じ合うものがある。
「ああ、直江だ……」
しみじみとした嬉しそうな声が、こぼれた。
高耶の顔が、仕事中のプロのそれから、じわりと溶けてゆく。
直江しか知らない顔になってゆく。
「半年、長かったですよ……」
囁いて、直江はすっかり自分だけのためのものに変化したその顔の、あちこちに、羽の触れるようなキスを落としていった。
優しく、蝶が花びらに停まるように。
そっと羽を休めるように。
出逢って、惹かれて、再会して、逃避行して、別れて、また出逢う。
何度目かになる邂逅が、今、恋人たちに訪れた。
02/12/11
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