宝の担当した客は、男女の二人連れが二組である。
先に乗船したのは子息・令嬢と思われる年代の男女であった。しかし、夫婦ではない。
男の方は『坊っちゃん』らしさが全面に出た、品は良いが気の弱そうな為りで、一方、対する女はどうやら成金家系の娘らしい。身なりは良かったが、品性に欠ける。身に染み付いていないのだ。付け焼刃にしか見えない。
そういう理由もあってか妙にべたべたと男に甘えている女が、どうにも鼻についたが、宝は表面上は至って無表情に二人を客室まで案内した。
NUR005室は北翼上部デッキの奥から三番目の右手にある。
通常は第10デッキと呼ばれる階層である。一番奥のNU001が前述のとおりロイヤルスイートで、005は二間続きのスイートであった。
木目の美しい重厚な扉を押し開けて中へ入ると、広いリビングとミニバー、カウンターを備えた部屋になっており、ベッドルームはその奥にある。バスは入って右の奥に位置し、ベッドルームとの行き来がしやすいような造りになっている。
宝はそれらを簡単に説明すると、最後に客室係に用を申し付けるためのベルの位置を示した。
「こちらは私共の控えに直通で繋がりますので、御用がございましたらいつでもお申し付けくださいませ」
内線電話とは異なるということをわかってもらえばそれでよい。
慇懃に一通りのことをし終えると、彼は扉のところへ下がって一礼した。
さっさと帰って頂戴と言わんばかりの女の視線にうんざりしながら、彼はしかし表面上は何ら変わらぬ鉄壁の微笑を浮かべて顔を上げる。
「それではどうぞおくつろぎくださいませ。失礼いたします」
「ごくろうさま」
腕に女をぶら下げたまま目の前まで歩いてきた男が、そう言ってチップを握らせようとするのを、
「当艦ではお心付けはいただかないことになっております。どうぞお気遣いなさらず」
と固辞し、再び一礼してから宝はするりと扉の向こうへと抜け出でた。
ねぇ……と早速男に縋る女の甘えた声を遮るように、素早く、しかし静かに扉を閉めて、彼はそのまま早足にレセプションへと戻っていった。
次の客は熟年の夫婦だった。
乗客リストによれば、日本画の大家と呼ばれる巨匠とその奥方だそうである。流石というべきか、ぴしりと和装で統一した装いがとても似つかわしかった。洋式の正装ばかりの中で、落ち着いた色合わせの和装が際立つ。
「ようこそ『Poseidon』へ。
わたくしがお部屋の担当をさせていただきます者でございます。御用の際は何なりとお申し付けくださいませ。
それでは、お部屋へご案内させていただきます」
「うむ」
画伯の無遠慮な視線が気になったが、宝はやはり鉄壁のまま二人を案内していった。
この夫婦の部屋はNUL004室である。間取りは先ほどの005室と同様であるが、こちらはバウ(船首)に向かって左手側であった。
扉を押し開けて二人を中へ通し、後から入って先ほどと同じ手順を繰り返すと、宝は再び廊下へ抜け出て静かに扉を閉めた。
ふとその視線がバウに向けられる。
そこには一際どっしりとした観音開きの扉があった。ロイヤル、NU001室である。
リストによれば、そこに滞在するのは男性一人の客で、名は柊義明とあった。
柊という音に一瞬引っ掛かりを覚えた記憶があるが、そのときはまさかと思ってすぐに打ち消した。
だが、どうやらその予感は的中していたようである。
柊といえば、かつての一大ファミリーの名だ。その傘下には榊と橘があった。
橘……つまり、あの男に行き着く。
橘にいたころのあの男は信綱を名乗っていた筈だが、こうした場面で使う通り名は義明であるらしい。
担当でなくて良かった、とため息をついて、宝はくるりと踵を返した。
その足は下部デッキにある客室係の控え室へと向かっている。
これから夕刻までは特別な仕事はない。パーティの刻限になれば各室を回ってご案内に出るのであるが、それまでは控え室でベルが鳴るのを待つのみである。
―――のみ、と言っても実際には頻繁に用事が申し付けられるのだったが。
控え室の事務的な薄い扉を開けて中へ入ると、ちょうど入れ違いにワゴンを押して出てゆく同僚に出あった。
彼の担当する客は俗に言う大物政治家で、我侭で有名な男だった。夫人は対照的に大人しい人だというのだが。
「おつかれさまです」
そう声を掛けて、すれ違う。
大変ですね、と目で会話すると、相手は苦笑を返して、おう、と呟いた。
中へ入ると、ベルに応対している者があり、花やウェルカムドリンクに忙しい者もある。
宝は自分が担当する部屋のベルの前に椅子を引いて掛け、余った時間を花に費やした。
手持ち無沙汰にしていると怠慢とみなされてしまうのだ。下手に目立つのは避けたい。
花を選んで花瓶に挿してゆく所作に熟練が見て取れる。
「見事なもんですね」
「昔齧っていたことがありまして。素人の横好きですけれどね」
周りにいた人間がそれに気づいて少し驚いた顔で声を掛けてくるのを人当たりよくあしらいつつ、宝は時を待った。
本来の『仕事』。
どこで何が行われているのか、それを確かな証拠に残して持ち帰らねばならないのだ。
夕刻から始まるクリスマスパーティでそれが行われるのはわかっているが、事前にもすべきことはある。
宝は―――カゲトラは、自由に外を歩き回る機会を待っていた。
手すきの人間は御用聞きに廊下を回る役目を与えられることがわかっている。
彼は、それを得て偵察にまわるつもりでいるのであった。
―――やがて、大半の人間がベルに呼ばれて消えた頃、チーフが彼を呼んだ。
数分後、背筋をぴしりと伸ばした一流ホテルマンさながらのその姿が、北翼上部デッキにあった。
実のところ、なぜ彼の担当する部屋だけベルが鳴らなかったのかということには理由がある。
彼が最初にリビングのローテーブルに飾っておいた花、その花瓶の底には揮発性の薬が仕込まれていた。
空気に乗って拡散し、今ごろは部屋中に充満しているはずだ。しかしそれは空調に乗って海上へと排出されるので、夕刻に彼らが部屋を出るころまでには全て霧散して、証拠は後に残らない。
―――二室の客たちは今ごろ、その薬のせいで判断力を鈍らされ、まともな思考を紡ぐこともそれを不審に思うこともなく、ふらふらしながら噛みあわない会話でも交わしていることであろう。
宝は、美しい姿勢を保ったまま廊下を歩き、客室以外に注意を払っていた。
胸ポケットに入れてある小さな機器で、生命反応と金属反応を探っているのである。
この非合法オークションには人間も出品される。つまり、客室でもクルーの部屋でもない場所に生命反応があればそれは要注意というわけである。
人を隠すには人の中と言う。それもあって念のために客室デッキから調査を始めたのだが、やはりこの付近にはそれらしい反応は見られなかった。
踵を返して他のウィングに移ろうかと思っていたときに、ふと一つの客室の扉が開いた。
NUL008室である。
出てきたのはワゴンを押した一人の客室係で、礼をして扉を閉めたあとに宝に気づき、苦笑して声を掛けてきた。
宝と同じ年代の、見目のよいたおやかな青年である。尤も、ここのキャビンクルーはある程度の容姿を要求されるので大抵の者は整った顔立ちの持ち主であるが。
「参りましたよ」
「どうかなさったんですか?」
青年の傍まで歩いてゆきながら問うと、相手もこちらへワゴンを押してきて、二人は並んで歩きながらひそひそと話し始めた。
「あの部屋のお客様、写真家なんですけどね、俺を見て、あろうことか、被写体になれって言ったんです。
仕事中なんです、って断っても聞こうとしないんですよ。危うく剥かれるところだった」
なるほど、見ればベストとシャツが少し乱れている。
彼は宝にもありがたい助言をくれた。
「北条さんも気をつけたほうがいいですよ。ときどき妙な趣味の持ち主がいるから」
「はあ。わかりました」
生返事のように呟いたところで、エレベーター前へ分かれる地点まで至り、青年は足を停めた。
「それじゃ、俺は下へ戻ります。北条さんはまだ見回りなんですよね。おつかれさまです」
着替えがあったかなぁ、と首を振り振り彼は戻っていった。
その後姿を何秒か見送っていた宝は、再び客室回りに戻っていった。
北翼だけでなく、南翼や東西のウィングも調べるつもりである。
各翼ごとに制服が異なるというわけではないので、担当外の翼を見回っていても別段見とがめられることはない。そちらの客室係に鉢合わせたら、仕事熱心だと呆れられることはあるかもしれないが。
宝はそうして、ぴんと背筋の伸びた美しい歩き姿を各翼へと運んでいった。
―――さすがに客室デッキには気配がないな。
上下デッキをくまなく調べ終えて、成果はゼロであるがカゲトラは別段落胆する様子もなかった。
客室デッキのような目立つ場所に置かれたら、探る方にも厄介なのである。
むしろ人目につかない場所であればこちらも楽なのだ。
そして、彼は、さらに下のデッキに下りることにした。
イベントホールのある階層は第6デッキである。
このデッキには、ステートルームと呼ばれるクラスの客室と、グランドホール(一階部分)、イベントホール、ピアノラウンジ、そして土産物屋、ラスベガスコーナー、シアター、セルフサービスランドリー、診療室が備えられており、シアターとステートルームを除く設備のすべてが今回のクルーズでも使用されている。
夕食のパーティはイベントホールで行われ、グランドホールでは海外から呼び寄せたダンサーたちによるショーが予定されている。ピアノラウンジやラスベガスコーナーは特別メニューではなく、各々の客たちが気の向いたときに立ち寄るスペースである。
そういう階層であるから、宝が従業員用のエレベーターから降り立つと、ちらほらと乗客の姿が見られた。
とは言ってもそこで態度を変えることはなく、彼は至極堂々と事務的な歩調を保った。
その背は鋼を通したように美しく、周りの乗客たちは目が合って宝に品良く会釈されると、この船のスタッフのグレードの高さに満足することになる。
その規則正しい足運びが、やがて人目につきにくい非常階段のあたりまで来て変化した。
ここから上は今回のクルーズでは使用されていない。
何かがあるとすれば、倉庫以外ではこのデッキしか考えられないのである。
彼は鋭い瞳になって辺りを窺い、そして音もなくその階段の扉の向こうへと身を滑り込ませた。
02/12/09
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