ほぼ等間隔に四列を作って並んでいたキャビンクルーたちは、一番後ろの列から歩み出した『北条』に自然と道を開け、その後姿に注視している。
彼が前に出てくると、チーフがその背を軽く叩いてクルーたちの方へと向き直らせ、正面から顔を合わせたところで、彼を前へ呼び出した理由を語り始めた。
「皆はこれまでに何度かはこの船に乗船したことがあると思いますが、北条君は初めての乗船勤務になります。
彼は他船で経験を積んだベテランですが、初めての船となれば何かと困ることもあるでしょう。
皆、そんなときにはどうぞ手を貸してあげてください」
彼は言ってクルーたちが肯くのを見届けると、傍らの『北条』に目で合図した。
軽くそれに肯いて、『北条』は一歩前へ出ると、顔を上げて正面からクルーたちを見て口を開いた。
「北条、宝です。
半年前から現場を離れておりまして、このクルーズが職場復帰第一航海になります。
勝手がわからないこともあると思いますが、そのときはご指導のほど宜しくお願いいたします」
北条宝というのが、カゲトラの履歴書に書かれていた名である。
こうした潜入捜査時や、表の世界での生活で名前が必要なときに使うために与えられた名なのだ。
名付け親は特捜の管理部育成課の色部である。家族を喪い妹の精神も失って人形のようになっていた少年高耶を、子どもは自分の宝物だからと言って『宝』と名づけてくれたのだった。
カゲトラにとって、この名前はとても大切なものであった。
「皆、気をつけてあげてください。―――北条君、戻って構いませんよ」
チーフがそう締めくくり、カゲトラは―――宝は、適度な初々しさを演出して一礼すると、元の場所へと戻った。
同僚たちはその姿に好感を抱いたようである。
宝が列に戻ると、周囲から小さく励ましの声が掛けられた。
「それでは、もう間もなくお客様が乗船されます。各自レセプションに集まってお客様をご案内してください。
基本的にリスト順での乗船となっていますから、そのつもりで」
宝たちキャビンクルーはそれを受けてミーティングルームを出た。
客室デッキとは別の、クルー専用の通路を歩きながら、彼は隣室の担当である同僚と簡単な会話を交わした。
「半年のブランクっていうのは何ですか?」
至極当然の問いに、予め決められている答えを返す。
「病気をしたんです。この時代に、って感じですが、結核をやりました」
「ああ、それは大変でしたね」
相手の台詞も予想を外れない。宝は少しため息をついた風にして答えた。
「ええ。完治させるまでに随分時間がかかってしまって」
「もしかしてあの船ですか?」
「そうです。集団感染ですよ。発見が早くてまだ幸いでしたけれどね」
ちょうど半年前に、とある客船内で集団結核が発生するという事件が起こっていたのである。
それ以来、乗船前には必ず結核感染チェックを行うという項目が客船のマニュアルに追記されたことも有名な話だ。
これを口実にすれば、誰にも不審は抱かれない。
実際、宝の隣室の担当係も災難を気の毒がるため息をついたのみであった。
「北条さん、こちらですよ」
レセプションに着くと、既に整列し始めていた同僚の一人が手招いてくれた。
乗客リストでは南翼の上部デッキ、ロイヤルの客が最初に書かれている。それはこの船のオーナーなのだが、彼が最初に乗船してくることを表している。
北翼の上部デッキ、ロイヤルの客は東翼、西翼の後で第四番目の乗船である。その後は南、東、西、北の順で上部デッキ左側の客室の利用者が乗船する手筈であった。それが終わると右側の客に続くわけである。
宝の担当する部屋は、上部デッキのロイヤルであるNU001から数えて三番目の左室と右室、NUL004とNUR005であり、 彼はロイヤルの担当者とNUL002、NUR003の担当者に続いて三人目に並んだ。
ところで、レセプションというのはホテルで言えばフロントにあたる。玄関口、船のいわば顔である。
第五デッキに位置するレセプションホールは第10デッキまでの吹き抜けになって、開放感を演出している。
その高い壁面には名のある画家の手による巨大な絵画が飾られ、その壮観に、初めてここを訪れる人間は圧倒されるという。
そのレセプションホールを囲むような形に総勢40名の客室係が並び、その後ろに清掃係がついた。キャビンクルーのチーフたちは各翼の列の最後尾、ゲート側について客を迎える。
ゲートに最も近い場所にはキャプテンやチーフエンジニアをはじめとする機関室のクルーたちが並び、次にチーフパーサー、ドクター、クルーズディレクターと続いて、エグゼクティブシェフとウェイター、ウェイトレスはキャビンクルーの後ろにずらりと白いお仕着せ姿を並べている。
最後に、ホテルマネジャーがレセプションのフロントカウンターでリストの照会にあたる。
乗組員総出での歓迎である。
普段の一般クルーズでは各部門のチーフが挨拶をするほかはこのように乗務員全員で客を迎え入れることはない。
個々の乗務員たちは各々の持ち場で仕事に励むはずである。
このクルーズは乗客の数などの規模が小さいために、このように盛大に乗組員全員での出迎えが可能なのであった。
「ようこそ『Poseidon』へお越しくださいました」
いよいよ最初の乗客であるこの船のオーナーとその夫人が乗船してきた。
キャプテン―――船長が握手して初老のその男を迎え、次にチーフエンジニア―――機関長が頭を下げる。
スタッフ・キャプテン―――副船長以下の機関士、航海士、通信士がそれに倣い、その次はチーフパーサー―――事務長が同様ににこやかな笑顔を向け、イベント会場係たちが揃って頭を下げている。
その次が宝たちキャビンクルーで、その背後にエグゼクティブシェフを始めとするシェフ陣とウェイター・ウェイトレスたちが控えている。
ブリッジ(船橋)のメンバーを除いて一様に黒と白で固められた乗組員たちが、一斉に頭を下げるさまは壮観であった。
そうして、夫人と共に、オーナーは歳に似合わぬスマートな体をレセプションカウンターに運び、そこで先ほど登場したホテルマネジャーに迎えられてサインすると、SU001の担当客室係により、緋色の絨毯の上を案内されて行った。
そうする間にも続々と客たちが乗船してきていた。
最初から正装しての登場である。燕尾服にフロックコート、そして美しい色合いの夜会服と煌びやかな装飾品が、あるいは堂々と、あるいはするりするりと姿を現し、総勢百余名のクルーたちの統制の取れた礼の中をカウンターまで進んでゆく。
そうしてホテルマネジャーの元でサインを済ませ、各部屋担当の客室係に案内されて奥へと消えて行くのだ。
有閑人らしい鷹揚さと陽気さを纏った彼ら、彼らにエスコートされた彼女らが、そうして続々とレセプションホールを埋めてゆく。
クルーズの最初の、特有の浮き立つような雰囲気が一面に満ちた。
―――その中に、宝は一人の男を見つけて固まった。
見た目にはその表情に変化は無いが、彼の頭の中では思考が一瞬真っ白になっていた。
男たちが必ず女性を伴って現れる中で、ただ一人エスコートする相手を伴わずに堂々と単身で絨毯の上を歩いてくる、飛び抜けた長身の男。
黒の正装を誰よりも完璧に着こなしたあの広い肩を、宝は―――高耶は、知っている。
引き締まったあの体がどれほどに鍛え上げられた美しいラインを持つのかを知っている。
触れると驚くほど弾力のあるしなやかな筋肉を知っている。
……挙げればキリがないほど。
その男のことなら―――何でも知っている。
どうして直江が、こんなところにいる?
頭の中に入れた乗客リストには、あの男を匂わせるような何かなど無かったはずなのに―――。
機械的に礼を繰り返す宝の前を通り過ぎるとき、男は一瞬だけ瞳を交わした。
まがいようのない、あの鳶色の瞳が、まっすぐに高耶の目の奥を見つめ、そして戻された。
本人だ。
理由如何は不明にせよ、これが偶然でないことだけはわかる。わざわざ自分の乗る船に現れるなど。
高耶は内心で深いため息をついていた。
この前に会ったときから、およそ半年。
あのときは飛行機での乱闘に助太刀してくれた。いざとなったときに自分の盾となる、それだけのために彼は二ヶ月もの間、フライトアテンダントに成りすましていたのだ。
今度も同じ理由なのだろうか。
それとも、この船の意味を知っていて、その用事に関係があるのだろうか。
現在の情報量では判断つきかねるが、いずれにしても、自分のいるこの船を選んだことだけは確かだろう。そのことだけは、自信を持って言える。
うぬぼれのつもりはない。
自分だって、姿を目にしてどれほど心が動いたか。
仕事中でなければ飛んでいって抱きつくところだ。―――残念なことに現在の自分には許されないことであるが。
男―――直江が客室係に案内されて廊下の向こうへ消えてゆくのを視界の隅に密かに捉えながら、宝は事務的に頭を下げ続けた。
02/12/03
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