言葉もないまま静かに煙を吐き出し続けて、随分時間が経った。
次に青年が口を開いたとき、直江は既に五本目の煙草に火をつけていた。
「……来ないな」
青年は四本目をアスファルトの上に落としてゆっくりと踏みながら、独り言めいた呟きをその上に降らせた。
千秋という男のことだ。
この時間でも、夜行便のトラックなどでコンスタントに車の通りはあったが、待ち合わせの相手は未だ、姿を現していない。
彼の小さな呟きに、運転席側に背を凭れさせていた直江は目を上げ、体ごとゆっくり振り返った。
青年は助手席側に凭れているため、こちらからはその背中が見えるのみだったが、彼がどんな表情でいるのかは容易に想像がついた。
「まだ五分あります。それに道もそう空いているというわけではありません」
ことさらに事務的な声でそう言ったが、対する青年は
「あいつの運転は普通じゃねーんだよ。本気で飛ばせば、渋滞していようがなんだろうが、あっという間に着くはずさ」
どこか投げやりに首を振った。来ないとわかっているようだ。
「―――冷えますね。中へ入りませんか」
それには相槌を打たずに、直江はただ、相手を車内へ誘った。
「……」
青年は無言で肯く。
ぱたん、と力なくドアを閉めて、二人は再びシートへ納まった。
助手席で、青年は開いた両膝の上に肘をついて、組んだ手の上に顎を乗せている。
瞳はどこを見るともなく、ただ開かれて前を向いていた。ときどき、ゆっくりと瞬きをして、その間だけ焦点が戻ってくるようだった。
その様子を横から見つめながら、直江は相手を通り過ぎてどこか遠くの方に視線を彷徨わせていた。
ふと、その瞳が何かを思い出したように瞬く。
「ところで……あなたの得物は何ですか。素手で、というわけでもないでしょう、まさか」
青年の醸し出す無言の壁を壊さないように、そっと声をかけたが、相手はびくっと身を揺らせ、
「あ……、っと」
驚いたようにこちらを向いた。現実世界に引き戻された様子だ。
少しだけ躊躇ってから、彼は言う。
「オレは……銃は使えないんだ。いや、扱いはわかってるんだけど……」
語尾を濁すときの表情がひどく翳って、直江は胸を痛めた。
相手の奥底にある何かとても悲惨な傷が、それに関わることなのだと悟って、敢えて何も気づかぬ振りをする。
「そうですか。では、刃物で?」
さらりと次へ話を持ってゆくと、青年は先ほどの翳りを払拭して肯いた。
「そう。あとは体術だけだ」
「……それは、スリリングですね」
一般的に言って、刃物は飛び道具に比べればずっと不利である。
しかし、青年は気にした風もない。
「まぁ、そのために体はしっかり鍛えてあるから。見た目あんまり筋肉ついてねーけど、ほんとは結構重いんだぜ」
唇の両端を引き上げておどけてみせる仕草が、意外なほど可愛い。
微笑とはいえ、屈託なく笑うその笑顔は、直江の目を見張らせるに十分だった。
「……」
二十代の青年をつかまえて可愛いなどと思ってしまった自分を少し持て余しながら、直江は次の言葉へ移った。
「ところで得物は今、手元にお持ちですか」
「あまり数はないけどな。最低限は」
銃と違って刃物は、小さければ投げるためにあるので数が必要だし、かと言っても、大きければ隠し持つのが難しい。
そういう意味でも些か厄介なのだ。
青年は最低限と言ったから、今身に帯びているのはおそらく、投げるためのものを十数本と、握って扱うものを一二本といったところだろうか。
直江は上体を助手席側へ乗り出して、ダッシュボードに手を伸ばした。
「よろしければ、細刀が……ここに」
取り出したのは、二の腕ほどの長さをした、細い刀だった。ゆるく半月型にカーブした、片刃のタイプで、漆黒の鞘は無敵装甲の異名を取る黒金剛で作られている。ずしりと重いその鞘は、扱い様によっては杖(じょう)のような要領で突いたり薙ぐことも可能だった。
普通のナイフよりは刃が長く、また刀よりはコンパクトな規格の『細刀』は、こちらの世界では比較的メジャーな得物である。
無論、表世界には出回っていない規格だが。
その細刀を青年に握りの側を向けて差し出し、直江は、
「手入れはしてあります。よければどうぞ」
扱い方はわかるはずだ、とその目が言った。
「……ありがとう。借りる」
青年はそれを受け取って左手で鞘を握ると、右手で少しだけ抜いてみた。
チ……という音がして、漆黒に光る刀身が覗く。
夜目につきやすい白刃ではなく、黒い刃である。硬度としなやかさの両者を追及した、特殊合金刃だった。
刃の側に左手の親指を触れて少し力を入れると、剃刀にでも触れたようにすうっと皮膚が断たれ、真っ赤な線が浮いてきた。
「状態は十分だな」
感心したように呟いて、青年は刀身を鞘に戻すと、切れた指を口に含んだ。
僅かな傷だが、指先には毛細血管が集中しているために、意外に出血するのである。
「ご自分の体で試し切りなんて、いけませんよ」
直江がハンカチを差し出した。
「サンキュ」
濡れた指先を布で拭いながら、今度は青年が直江に尋ねる。
「ところで、あんたは?何をやるんだ」
「何でも。ひととおりは扱えますよ。ただし、今使えそうなものは飛び道具しかありませんけどね」
相手に渡した細刀を除けば、この車に積んでいるうちで今夜の戦闘に役立ちそうなものは銃だけだ。
青年は肯いて、
「腕に自信は?」
「どうでしょうね」
直江は明確な答えを返さなかった。
「謙虚は奴ほど、腕がいいよな」
青年は言って、少しだけ笑った。
「買ってくださってありがとうございます。ご期待に沿えるよう頑張りたいものですね」
「そう頼む」
「ええ。ひさびさに腕が鳴ります」
言って、これまでにも何度か見せたあの危険な笑みを浮かべた唇に、青年は見とれるようにしばし黙り、それから呟いた。
「かっこいい男だな。あんた」
「おや。それはありがとうございます。嬉しいですよ」
くす、と細めた瞳がまた、見る者の血を騒がせるような色気を放って、青年は今度こそ言葉を忘れた。
一体、何者なんだ……?
訊いてはならない、訊くつもりもない、問いが、再びのぼってくる。
けれど、訊くことはならないから、記憶する。
この声、瞳や髪の色、行動を。
覚えておいて、いつか調べよう。
お前と別れたその後で、オレだけで、勝手に調べる。知ろうとするのはオレの自由だろうから。
知ってどうなるものでもないから。
けれど、知ってはおきたいと思う……。
心の中にしまっておこう。今夜という面白い時間のことを。いつまでも。
02/07/14
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