期間限定の恋人ならいらない



 ぴかぴかのハイヤーのつるつるのシートの次は、深いワイン色のびろうど張りの椅子だった。それも、椅子の前に立つと同時に最高のタイミングで差し出され、自分では手も触れずに。

 『若』と呼ばれる男の便宜上の『恋人』として『デート』に臨んだ青年は、服選びに続いて昼食の席にも頭が真っ白になる気分を味わっていた。

 無論、forA人材派遣での研修時代にテーブルマナーについてもきっちり仕込まれているのだが、練習と実践では臨場感が違う。(それ以前に、本当なら自分はエスコートする側であって、される側では決してないのだが。) まして、普通のカップルがデートで利用するランクのレストランとは訳が違うのだ。
 目の前に広がる純白の空間―――テーブルクロスの掛けられた円形テーブルだが―――には、花屋に並ぶものとはどう見ても手間の掛け方が違う、深みのある艶やかな花弁を幾重にも重ねた薔薇がある。ずらりと並べられたカトラリーは、触れると指紋がくっきり浮かんでしまいそうな純銀製。正面に置かれていた布製の白鳥は、先ほど椅子を差し出した給仕の手で魔法のように広げられ、ナプキンになった。
 膝の上に置かれたそれを微調整してから顔を上げると、品良く澄ましている薔薇の向こうには日本一イイ男の笑顔。
 これで自分が女だったら(それもたぶんなかなかの美女だったら)、まるで小説かドラマそのままの光景じゃないか。

「どうかしたんですか、高耶さん?」
 うんともすんとも言わなくなった青年に、対する俳優が形のよい眉を少しだけひそめて身を乗り出してきた。
「……何でもない」

 よりにもよって、初実践の舞台がこれかよ……と内心天を仰ぐ青年なのだった。

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『ランクの違うレストラン』の描写は、書いている人間の想像力だけに頼っております……(つまり嘘っぱち)



 予め指示しておいたらしく、料理は男が何も言わなくても次々と運ばれてはその場で切り分けられ、盛り付けられて目の前にサーブされる。
 要所要所で出されたワイングラスを揺すりながら、男が先ほどの仕立工房で自分の車を置いてハイヤーに乗り換えた理由を、青年はようやく理解した。こんな風に何杯も酒を入れた後で運転などできるはずもない。
 二人いるのだからどちらか一人が酒を控えればよいという案は、楽しいランチタイム(それも素晴らしく美味いフルコースだ)を心行くまで二人で満喫したいという思いから、脳内却下されたのだろう。テーブル越しの男の笑顔も会話も、『恋人とのランチデートを心から楽しんでいる』様子そのものだ。給仕をしている人間たちの目など全く眼中にないらしい。

 最初から最後まで給仕が付いての食事を初めて実践した青年は、最初のうちは彼らの気配が気になって仕方がなかったのだが、『恋人』との会話が弾むにつれて料理を味わう余裕が生まれ、最後には完全に存在を忘れ去るほどだった。

(こんな美味い料理を楽しまない法はないよな)

と内心で独りごちた彼だったが、実のところ、彼の緊張をほぐすのに大いに働いたのは料理の美味さではなく、エスコート役と形容するよりもゲストをもてなすホスト役と言うべき気配りで以って相手にはたらきかけた俳優の努力がものを言ったのである。

 無論のこと、青年にも相手のその気配りが、単に演技というだけではなく、本当の優しさからきていることはわかっていた。ただ、それを素直に受け入れることを頭が拒否しているのである。
 うっかり素直になってしまったら取り返しがつかないということを、本能のレベルでは感じ取っていて、身を守ろうとする無意識の反応として、彼は敢えて相手の与える優しさを演技だとして片づけているのだった。

 そんなことをしていること自体が、彼の俳優に対する態度が既に依頼人と被依頼人の関係を離れてしまっていることの証明であるのに、彼は未だそのことに気づかないでいる―――
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想像力の世界には早くも限界が(笑)
というわけで、お食事はあっさりおしまいです。



 食事を終えて店を出ると、そこにはあの黒塗りのハイヤーが運転手と共に待っていた。本職の運転手を時間契約で借り切るのに一体幾らかかっているのだろう、という不毛な想像はもうしないことにして、青年はただ、いつ見ても曇り一つない車体に感心している。
 俳優のエスコートに従って後部座席に乗り込んだ彼は、美味い食事に満足して身も心もすっかり穏やかだったが、隣に乗り込んできた俳優がにこにこ顔で話しかけてくるに至って、ふと本来の役目を思い出した。
 そう、自分は彼の『恋人』で、只今『デート中』なのだ。

「久しぶりの外食、楽しかったですね」
 車が音もなく滑り出すと、シートに半分だけ背中を預けて全面的に青年の側を向いて座った俳優が、面と向かうのを恥ずかしがっているように少し身を退いている青年に、とびきり甘い微笑みを浮かべて話しかけた。
「ああ。いい店だったし、美味かった」
 男の筋書きの中では『久しぶり』であるらしい。適当に話をあわせることにして、取りあえず食事の感想のみを述べた青年である。
「お口にあったようで良かったです。また行きましょうね」
 対する俳優の笑みはますます深くなり、台詞の後半はとろけるように甘い声音で囁かれた。
「お、おう」
 見つめる瞳の色はまさに『愛情』に溢れており、演技だとわかっていても思わずどきりとしてしまう青年だった。
 慌てて目を逸らした『恋人』を愛しげに見つめて、俳優がつと手を伸ばす。唇の傍に人差し指で触れられ、青年は可哀想なくらいに動揺した。
「な、な……」
 まともに言葉も次げずにいる彼に少し下方から見上げるようにしてにっこりと笑いかけ、
「さっきのソテーのソースが」
と指先で拭う仕草を見せる俳優に、
「つ、付いてたのか !? 」
 まさかと思いつつ叫ぶと、
「嘘です」
 相手はますますにっこりと笑って、手を引っ込めた。(しかし、離れ際にすいっと唇を撫でてゆくのは忘れない。)

(こいつ……)
 からかわれていることに気づいて、青年は演技半分、本気半分でむっと唇を尖らせた。

 にこにこにこ。

 俳優はひたすら楽しそうに愛しそうに、そんな『恋人』を見つめている。
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こんなカップルを乗せたハイヤーの運転手はかわいそうだ……(笑)



 このまま口を開いたら、何だか仕事を忘れて本音で捲くし立ててしまいそうで、しばらく黙っていた青年である。彼が無口になると相手も遠慮するようで、しばらく車内には沈黙が落ちた。
 最初のうちは混乱した頭の中にどう整理を付ければいいのか迷っていた青年だったが、少し時間が経つと、こちらの機嫌を窺っているような相手の眼差しに気づき、些かかわいそうな気がしてくる。
 それもこれも演技には違いないはずなのだが、恋人に押し黙られて悄気ている男の図は、弱いものを放っておけないたちの青年には、罪悪感を抱かせるに充分だった。

 そろそろ『機嫌をなおしてやる』か。
 内心に一人ごちて、再び口を開いた。

「―――で、今日の予定はこれで終わり?」
 ぷいとそっぽを向いての台詞は、『運転手のいる空間で恋人にちょっかいを出されて照れている』演出のつもりである。実際のところ、似たような心境だった。尤も、照れているのではなく、相手の過剰な演技に困惑しているのだが。
「ああ、すみません。そうですよ。もうすぐ家に着きます」
 隣というには青年側に接近しすぎている位置に掛けた男は、顔を向けてくれないなら手を握ってやろうか、という趣向であるらしい。窓枠に右手で肘枕をした青年の、無造作に左腿の横に投げ出されていた左手を大きな手で包み込み、その手の持ち主を飛び上がらせた。
「―――っ!」
「あなたときたら、元気のいい子馬のようですね。でも、車の中でそれは、頭を打ちますよ。ほら、落ち着いて」
 握った手は離さずに、もう片方の手で、危うく天井に頭を打ち付けそうになった青年の肩を叩く様子は、若くて生きのいい恋人の扱いに如何にも慣れているという感じである。
 たちの悪いからかわれ方に―――しかも、これが契約である以上、相手より分が悪い立場にいる―――青年は、握られた手を振りほどくわけにもゆかず、ただ半ば涙目になった瞳で隣の男を睨みつけるより他になかった。
 そして、その睨みすらも、男にとっては『愛しくてたまらない』様子である。勿論、演技なのだろうけれど。
「う〜っ」
 一言も切り返してやれずに、ただ唸るより他にどうしようもない青年だったが、
「そんな風に威嚇しても、可愛いだけですよ」
 唸り声すらも『恋人』にとっては嬉しいらしい。

 いくら演技にしたって、それはやりすぎだ。その変換機能は腐ってる!そんなカップルがいてたまるか!

 声を大にして叫びたい青年だったが、無論叶わず、ただ唸ることすらできないとあって、黙り込むよりほかにない。
 静かになったというよりも漬物石のように重苦しく鎮座する存在になった青年の目に、つい数時間前に出てきたばかりだとは思えないほど遠い懐かしさを覚えるマンションが見えてきた。
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いつまでいちゃいちゃしているのでしょうかこの人たちは……(笑うよりむしろ汗)
ようやく家に帰ってきました。

[契約第一日目・昼] 続く

一日目の昼編P1はこちらから。

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