期間限定の恋人ならいらない |
契約第一日目の午前。 日本全国知らぬ者はない一番人気の俳優と、その契約上の『恋人』とは、家の中に引きこもるよりも活動的に過ごした方が却って目立たないという考えの下、よく晴れた空の下へと車を出した。 「ところで、さっきのマネージャーさんにもオレのことは恋人ってことで通すのか?それとも恋人役だって話す?」 男が運転席にいては信号待ちなどで停車したときに周囲に正体がばれるかもしれない、と言って自らハンドルを握った青年が、ふと、赤信号のときに後ろへ声を掛けた。 ルームミラー越しに目をあわせ、運転席のすぐ後ろに座っている男は首を振る。 「いえ、恋人で通してください。私以外の人間には、全て同じようにお願いします」 ちょうど信号が青に変わり、青年はハイヤー並みの美しい発進の手際を披露した。 「了解。……ところで、どこ行くんだ?次の交差点は直進?」 彼は背後の解答に頷くと、目の前に迫った交差点を見据えながら道筋を尋ねた。 「左折して百メートルくらいのところにパーキングの入り口がありますので、そこへお願いします。ちょっと買い物をしたいので」 「百メートル先?……このへんて、店なんかあったっけ」 青年の呟きは至極もっともなものである。 彼らの車が走っているのは、一見すると閑静な高級住宅街の只中なのだ。こんなところに店があるなど、彼の記憶にはなかった。 「……ここなのか?」 男の指示通り車を乗り入れた先は、一軒の屋敷だった。どう見ても普通の―――普通という形容は屋敷の規模に関して言えば間違っているものの、それが商業施設でないという意味では正しい―――家屋である。 映画に出てくる金持ちの邸宅のような構造になっているその屋敷の前庭へ車を進め、青年はホテルのエントランスに入ってくるハイヤーのように緩やかにカーブする道を経て停車した。 果たして、車が停まると同時に、エントランスから白い石造りの階段を四段登ったところにそびえている重厚な樫の扉が開き、中から執事のような黒に身を固めた初老の男が近寄ってきた。 彼は慣れた動作で後部座席の扉を開き、こちらも慣れた様子で中から出てくる俳優を恭しく出迎えた。 「お久しぶりでございますね、若」 「あなたも元気そうで何よりです。ところで今日は、採寸と仕立てを頼みにきたんですが」 「採寸でございますか。若の寸法でしたら以前と1ミリも変化のないようにお見受けいたしますが」 「いえ、私ではなく彼のをお願いしたいんです。こちらの」 二人の男の、まるで別世界のような遣り取りを目を丸くして見つめていた青年は、ふいに俳優の手が自分を指したことにさらに驚いた。 「な、何?」 「さようでございますか。これはまた、腕の振るい甲斐のありそうな御方で」 執事風の男は、青年を不躾でないさらりとした視線で一瞥し、にっこりと微笑んだ。 「ええ、この人のことは特別扱いでお願いします。大変急な話で申し訳ないのですが、明日に間に合うように仕立ててください。それから、今日の分は既製で構いませんので見立ててください」 俳優は例の『恋人へ向ける眼差し』で青年を見つめて、満足そうに初老の男へ頷いてみせた。 そうして下した指示は青年の瞳をますます丸くさせたが、男性も俳優も慣れた様子でてきぱきと動き出す。 「喜んで承りましょう。では、奥で続きを」 「そうですね。―――高耶さん、いらっしゃい」 男が扉を開けて先導するのを、俳優は青年の手を取って中へと誘った。 青年は混乱のあまり、まともに口も開けぬまま手を引かれて中へと連れてゆかれ、旧華族の屋敷かと見紛うような年代ものの調度に驚きながら、深い葡萄色の絨毯を踏んで歩いてゆくことになった。 1/25 comment↓
大変長らくお休みをしてしまいました。少しずつ復活します〜 |
「こちらで採寸をさせていただきますので、上着をお取りいただけますか」 大きな鏡が三面に据えられた、随分と広い、試着室のような部屋へ誘われ、青年は老執事風の男にそう言葉をかけられて戸惑った。 「直江……」 「窮屈でしょうが、少しだけ我慢してくださいね。彼らがあなたに最高に似合うように服を見立ててくれますから」 青年は自分を連れてきた男を心細そうに見上げたが、相手は安心させるように微笑んで彼の上着を脱ぐのを手伝った。 「そういう服が要るんなら、言ってくれたら自分のやつ持ってきたのに。わざわざ作ってもらうなんて……」 青年は俳優が自分のために服を作らせるのを勿体無いと感じているらしい。それなりの服装で出かけなければならない予定があるのなら、そうと言ってくれれば自宅から礼服を持ってきたのにと呟いた。 「私があなたに贈りたいんです。何も気にしなくていいから、あなたは楽にしていて」 しかし俳優はただ微笑んで、相手の頬に指先を触れる。 まさに恋人に悪戯するようなその指の動きに、驚くのは青年である。 「……わっ」 触れられた瞬間、びくりと震えて逃げてしまうのを、 「どうして逃げるの?つれないですね」 俳優はくすくすと面白そうに笑って覗き込んだ。その瞳が、『恋人』なんだから驚かないでくださいなと言っているのに気づいて、青年は少し自分を持ち直す。そうだ、これは芝居なんだから、と。 「……ひ、人前で何すんだよ」 逃げるよりも、適当に話を合わせねばと自らに言い聞かせ、彼はそんな風に呟いた。 俯いた顔が赤くなっているのは、所構わずな『恋人』に恥じらう様子を演じているのか、それとも―――。 「今時、街中でも堂々とキスくらいしますよ?あなたは本当に恥ずかしがりやさんですね。まあ、そこがまた可愛いんですけどね」 俳優は青年のそんな反応をどう受け取ったか、とろとろに甘い恋人の顔で相手の髪をくすぐった。 ひどく愛しそうに触れてくる指先の動きが、青年の心をざわつかせる。ただの演技なのだとわかっているのに、まるで本物のように心の中へしみこんでくる。熱くて、甘い、何かが。 一体自分がどうなってしまったのかわからず、困ってしまって、彼はますます俯いた。 一方の俳優はそんな青年の心のうちを知ってか知らずしてか、指遊びをやめようとしない。 「若、大変恐縮ですが、そろそろ採寸を」 恥ずかしがりやの恋人と、彼を愛しげに可愛がる男という図は、しばらくはおとなしく控えていた老仕立て師の、遠慮がちな言葉によって、ようやく崩されたのだった。 2/2 comment↓
今回も『恋人』にちょっかいをかけている直江さん。 |
「……なんであの店の服、値札が無いんだよ」 値札どころかブランド名すら無いことが、却ってその静かなる名品ぶりを表している気がする―――否、『気がする』程度のことではなくて、それは確かな事実なのだろう。 老仕立て師とその優秀な部下デザイナーたちによって完璧に整えられた正装で、ビシッとした男ぶりになった青年は、店(というよりも由緒ある工房と言ったほうが相応しかろう)で用意されたピカピカのハイヤーに俳優と二人乗り込んで、おしりがツルリと滑ってしまいそうななめらかな総革張りのシートに掛けると、がくりと項垂れた。 「決まった値段はありませんからね。注文した人間が満足すればそれだけの対価を支払うようになっています。 だからこそ、彼らの腕はたゆまぬ努力によって磨かれてゆくんですよ。自分たちの腕前に応じて報酬が与えられるわけですから、腕の振るい甲斐もあるというものです。一枚幾ら、の服とは気合の入れ方が違いますよ」 俳優は青年の正装が気に入って仕方ないらしい。目を細めて嬉しそうにその姿を見つめながら、事も無げにそう説明し、相手をいっそう深く沈ませた。 「……一体幾らなんだ……」 青年は、目の前の男が三日の仕事に五十万をぽんと払うとんでもない客だということを改めて思い出し、半分眩暈を起こす気分で呟くのだった。 あの後、驚くほど鮮やかな手際で頭のてっぺんからつま先までしっかりきっちりと寸法を量られ、続いてオーダーメイド用の布地を山のようにあてられ、顔の映りを確かめられ、そしてそちらの打ち合わせが終わると今度は既製服の部屋へ連れてゆかれて、俳優や仕立て師たちの見立てた様々な服を試着させられた青年である。 仕立て師たちの見立ては確かで、試着した服はいずれもぴったりと体に合った。しかもその服はとてつもなく着心地が良く、その仕立ての質の高さを物語っており、青年にはますます値段が恐ろしく思われたのだが、俳優は全く頓着なく、あれとこれと……と複数包ませてしまった。何度もやめさせようと口を挟んだ青年だったが、相手は優しげな微笑で強硬に事を進めてしまったのである。 青年は自分の年俸の数倍もたった数時間で使いきってしまったのではないかと、恐ろしいものを見る思いで隣の俳優を見つめるのだった。 ―――たしか、『若』と呼ばれていた。あの工房の主である素晴らしい腕の老仕立師をしてそう呼ばしめるこの目の前の男の正体は、一体何なのだろう。 いくらこの男が人気ナンバーワンの俳優だからといって、仕立師から『若』と呼ばれる理由にはなるまい。それに、どれほど稼いでいるか知らないが、普通の人間の年棒の数倍を一日でぽんと使ってしまうというのは感覚がおかしすぎる。 もしかして、本当に、どこか物凄い名門の御曹司だったりするのだろうか…… 傍らに掛けている、総革張りの車内にそれはもう見事にしっくりと溶け込んでいる男を、じっと見上げながら考え事にふけっていた青年は、視線の意味を誤解したらしい相手によって嬉しそうに引き寄せられて(何度目かの)『恋人の距離』に詰められるまで、心ここにあらずの境地を彷徨った――― そして一秒後、寸でのところで唇の危機を逸した青年と、顔は笑いながらも残念そうな瞳をした男という図が、つるつるぴかぴかの黒いハイヤーの内部には展開されることになる。 2/23 comment↓
値札のない服を大量に買い込んだ直江さん。よって今夜は着せ替え高耶さん〜vv |
どうしてこんな車の中でまで『恋人』を演じるのかが理解できないのだが、俳優はひたすら嬉しそうな瞳をしてこちらを見ている。 その瞳を見返すといつのまにか演技を忘れて動揺してしまう自分に気づいて、窓の外の景色に集中することにした。 外は至って長閑である。都心とはいえ閑静な住宅街の中を滑るように走る車の中から見る景色は、見慣れた集合住宅に比べれば格段に小奇麗であるという違いはあるものの、公園で遊ぶ子どもの姿や、飼い犬を散歩させている住人など、これまで慣れ親しんできた『ありきたりの日常の風景』だ。 それに対して、ぴかぴかのハイヤーの中で、日本一の人気俳優と共に、真新しい正装をして、総革張りのシートに身を任せている自分。 たったガラス一枚を隔てただけなのに、『こちら側』と『外』とのギャップがあまりにも激しすぎて、何だか不思議な気がする。 例えば映画のスクリーンの中と外に別々の世界があるように。 『窓の外』こそが自分の本来属する世界で、今はたまたま仕事で足を踏み入れているだけの『こちら側』は自分とは本来無縁の世界なのだ。 自分は人材派遣会社に勤めて二年目の働きバチで、今だけは傍らにいる男は『若』と呼ばれる身分。 その格差を恨めしく思うわけではないし、神様の不公平を嘆くつもりもないのだけれど、こうして傍にいるとまるで白昼夢を見ているような非現実の空気をおぼえる。傍にあるはずでないもの同士が傍にあるという違和感と、何か寂寥感のようなものが胸をしくりと痛ませる。 いずれまた在るべき別々の場所へと分かれるものが、たまたま今は同じところにいるだけ。 何だか、まるで――― 「シンデレラみたいだ……」 心の中で呟いたはずが、口に出してしまっていたらしい。 「シンデレラがどうかしたんですか?」 急に返事が返ったことに驚いて隣に座っている俳優へと目を向ければ、彼は先ほどまでと変わらず、とても幸せそうにこちらを見つめていた。 目が合ってしまって、驚いて俯くと、相手は喉の奥で笑う。 「慣れない人ですねぇ」 「一生慣れないと思う」 思わず正直に呟くと、相手はますます楽しそうに喉を鳴らした。 「一生言い続けてもいいということですね。もう離しませんよ」 そんなことを言われて、どう反応しろというのだろう。 「おや、黙ってしまった。怒りましたか?」 俳優は少しばかり目を見張って、声を優しくした。 「お前みたいにつらつら台詞が出てくるほうが普通じゃないんだよ」 何だか泣きたい気持ちで答えると、 「職業病です。気にしないでください。それに、あなたといると何も考えなくても言葉が浮かんでくるんです」 と甘い顔で返される。 ……どんな台詞を口にしてもおかしな方向へ誘導されそうな気がする。 つい先ほどまで『シンデレラ』だの非現実だのと深刻な物思いに沈んでいたことをすっかり忘れ去って、演技過剰の『恋人』への対処に頭を悩ませる青年なのだった。 3/14 comment↓
高耶さんはシンデレラ。←しかも自称(笑) |
[契約第一日目・昼] 続く 一日目の朝編はこちらから。 ご意見ご感想はフォームにてよろしくお願いします。 |