期間限定の恋人ならいらない



 サァァ―――……

 白い湯気が、湯滴が肌を叩いて弾けると共に立ちのぼってゆく。
 標準の設計よりも随分高い位置に固定されたシャワー口の下に、見事に引き締まった完成度の高い男の体がある。霧か滝のように降り注ぐ湯の中で、男は目を閉じて仰のき、顔や体を湯に叩かれるままになっていた。
 落ちてくる湯の霧が、その顔を叩く。秀でた額を、まっすぐに通った鼻梁を、伏せられた瞼と長い睫毛を流れ、端整な頬や顎へと伝い落ちる。
 額よりも後ろへ流れた湯は、柔らかい茶色の髪を伝って項へと流れてゆく。
 広い肩はなめし皮を張ったような色艶を持ち、背中はそれだけでも一見の価値があると思えるほど無駄が無い。
 よく締まった腰へ湯は流れ、長い脚を伝って大理石の床へと落ちてゆく。


 俳優は、この時間が好きだった。
 目まぐるしいスケジュールの中で、このひとときだけは心からほっとできるからである。
 彼はどんなに忙しいときでも、風呂の時間だけは充分に確保するようマネージャーに頼んでいる。
 だから彼は風呂好きとして有名で、そのため一部では『磨きたて屋』と陰口を叩かれているのだが、別に体を磨くために時間を割いているわけではない。
 一人きりでゆっくりと寛ぐことのできる貴重な時間を大事にしているだけだ。

 男は心行くまでリラックスタイムを堪能すると、ふうと息を吐きながら顔から額へと両手で撫で上げた。
 そのまま手櫛で髪を梳き下ろして、項まで至ると、片手でシャワーのコックを閉める。
 ぱたり、と湯の霧が途絶えた。
 男は仰のいて軽く頭を振ると、シャワールームのガラス扉を開いた。
 左手の方向に掛けられたハンガーへ片手を伸ばしてバスローブを取ると、それに無造作に両腕を通して腰の少し下のあたりで帯を締める。

 そのとき、正面の壁の上方に備えられた曇りガラスの窓が突然ぱっと明るくなった。

「―――雷か」
 顔を上げたとほぼ同時に低い地鳴りが聞こえ、男は呟いた。

 光と音の間隔が短いところをみると、雲はかなり近くにあるようだ。
 男は、そういえばシャワーの最中にも地鳴りがしていた気がするな、と思い出しながら、バスルームを出る扉へ手を掛けた。
 ―――しかし。

「……?」
 男は次の瞬間、不思議そうに瞬くことになる。


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今回は俳優氏の視点から。 彼はお風呂がお好き(笑)



 扉が、動かない。
 こちら側からは押して開けるようになっているのだが、いつものようにレバーを下げながら前へ押し出す力を加えてやっても、なぜだか扉が開かない。
 今朝までは全く問題なく軽い力で開閉ができたのに、突如として錆び付くなどということでも起こったのだろうか。
 怪訝に思いながら俳優はいつもよりも強い力で扉を押した。

 僅かに扉が動き、俳優は少しほっとしながらさらなる力をこめた。
 まるで誰かが押さえているかのように重い扉を押して、―――その瞳がふと不審そうな光を帯びる。
「……誰か?」
 半ば無意識に呟いた瞬間、彼はつい先ほどから同居に入った相手のことを思い出した。

「高耶さん?もしかしてあなたなんですか?」
 段々広がってゆく隙間へと顔をくっつけるようにして声を掛ける。
 男はわけもなく、いやな予感をおぼえていた。

 扉を押さえて閉じ込めようとするなんて子どもの遊びでもあるまいし、なぜ青年はこんなことをするのか。
 つまり……彼はおそらく、男を閉じ込めようとしているわけではない。
 しかしそれならば、なぜ―――?

「高耶さん?」
 力任せに、しかしできるだけ乱暴にならぬよう気をつけて扉を押し開け、脱出してみると、
「……高耶さん !? どうしたんです!」

 果たして青年はそこにいた。
 扉にもたれるようにして座り込み、膝を抱えて頭を伏せている。よく見れば小刻みに体が震えているようですらある。

 男は仰天して青年の傍らへ屈みこんだ。


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高耶さんを心配するのは直江さんのお約束。



「高耶さん!高耶さん!」
 肩を揺さぶって、無理矢理顔を上げさせて前髪を分けると、子どものように怯えた顔が露になる。
 俳優は半ば息を飲んで、虚ろな瞳を凝視した。

 つい先ほどまではあんなにも明るかった瞳が、どうして今はこんなにも怯えているのか。

「高耶さん?何があったんです。何をそんなに怖がっているの。高耶さん!」
 片手で青年の頭を支え、もう片方の手で頬を包むようにしてやると、何度か青年は瞬いて、ふと正気の光を取り戻した。
「なお……ぇ?」
 瞳が目の前にいる人間を認めて、乾いた唇が僅かに動く。
「そうです。私です。高耶さん、一体どうしたの」
 何度も頷いて、頬をゆっくりと撫でてやると、ふいに青年の顔が歪んだ。

「なおえ……っ」
 そして青年は突然、俳優に抱きついた。
 不意のことで一瞬よろめきかけた俳優だったが、持ち前の筋肉で持ちこたえ、彼は胸に飛び込んできた体を抱き返してやった。
「どうしたんです……?」
 腕の中にある体は確かに震えていた。紛れもない恐怖に体が勝手に震え出したというような状況だ。
 何か昔経験した恐ろしいことでも思いだしてしまったのだろうか、と男は眉を寄せた。

「ごめ……オレ、雷が……」
 青年は俳優の胸にしがみついたまま、死にそうな声で切れ切れに訴えた。
「ひとりで……雷、聞いてたら……こうなるんだ……」


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高耶さんは雷が怖いのだそうです。さあ橘氏はどう出るか?



「雷?そうでしたか……気がつかなくてすみません。
 ―――もう大丈夫ですよ。私はここにいます……一人じゃないから、大丈夫……」
 男は青年の答えを聞くと、よりいっそう強く相手を抱きしめてやった。

 この尋常でない怯え方は、何かあるに違いない。
 ただ単に雷が怖いというのではなくて、もっと恐ろしい何かが過去に起こったのだろう。そのできごとを思い出す引き金が雷なのだ。おそらく。

 怖くてたまらなくて、彼は自分を探しに来たのだろう。ところが自分は何も気づかずにシャワールームにいた。彼はそれ以上どうしようもなくて、ここに座り込んで膝を抱えていたのだ。

「あなたを一人にしてすみませんでした……気づかなくてごめんなさい……本当に怖い思いをさせてしまいましたね」
 一人でなくなった安堵からか、青年はぐったりと体の力を抜いてしまっている。
 それでも胸元を掴んだ手だけはそのままで、決して離すまいとしがみついているのが、男には愛しくもいたましくもあった。

 カッ―――

 ふいに、また閃光が走った。

「……ッ」
 びくりと身を凍らせる青年を男はきつく抱きこみ、その耳を素早く塞いだ。
 次の瞬間にドォン、と響いた地鳴りは、少しだけ和らいで青年に伝わる。

「高耶さん……大丈夫?一人で寝られますか?」

 轟音をやり過ごし、気遣わしげに問うた男に、青年はふるふると首を振った。
 ますます強く男のバスローブを掴む手が、言葉は無くとも彼の意思を伝えている。
 怖くて怖くて、とにかく一人にはなりたくない、そう全身で訴えている彼を、俳優は頷いて再度きつく抱きしめた。

「わかりました。大丈夫ですよ……雷がどこかへ行ってしまうまでずっとこうしていますから。もう怖くない。大丈夫……」


 一人が怖いとはいえ、青年も殆ど初対面に近い男と一緒のベッドには入りたくないだろうと思い、俳優はベッドからタオルケットと毛布と上掛けを剥がすと、相手を抱えるようにしてリビングに移った。
 ソファに二人して身を沈め、タオルケットと上掛けで体をくるみこんで、とろとろと微睡む。互いの体温と上掛けと空調のお陰で、ソファに座っていても冷えず暖かい。
 広い胸の温かさと、肩を抱き寄せる腕の強さに安心して、青年はやがてすうっと眠りに落ちていった。


 彼は知らない。
 項の隅の目立たない場所に落とされた小さな紅の花びらを。
 眠った体の重みを全面的に引き受けて、夜の間中包み込んでくれた温かな腕と、寝顔を見守って時折顰められる眉を宥めてくれた、愛しさを溢れさせた瞳を。


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橘氏ったらさっそくお印つけちゃってまあ(笑)




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