真夏のヘンゼルとグレーテル
男が目の前で淹れてくれた金色の紅茶と、ケースから遠慮なく選び出した四種類のケーキは、どちらもびっくりするほど美味かった。タダで食べてしまうのが申し訳ないくらいだ。 ケーキの美味さに驚嘆するのと同時に、再び同じ疑問が浮かび上がってくる。 この男は、一体どういう意図でこんなことをするのだろう。かなり高い値をつけても充分売れるはずのこんなケーキを、たまたま今日が誕生日だからといって、行きずりの人間にタダで食べさせるなんて。 「いかがですか?」 カップに紅茶を注ぎ足しながら、男が訊ねてくる。 「一体どんな裏があるのか疑わしくなるくらい、美味い」 スーツの上着を脱いで給仕を務めている男のシャツ姿を何だか眩しく思いながら、斜め上にある瞳を見上げると、 「それは良かった。どんどんおかわりしてくださいね」 男は少し屈みこんだ姿勢でにこりと微笑んだ。思っていたよりも近い距離でその笑顔を見ることになり、何だかどぎまぎしてしまう。 微笑む瞳は深い鳶色。整髪料で整えられた前髪が、屈んでいるために少しだけ下りてきていて、その隙間からこちらを見てくる瞳が何とも色っぽい。 ケーキ屋の店員という至極健全な職業にありながら、この色気は何なのだろう。それとも、この男だけのことではなくてオトナの男特有のものなのだろうか。 「……なあ」 おかしな方向へ流れていきそうな気持ちを切り替えようと、別の話を持ち出してみる。 「はい、何でしょうか」 「紅茶、淹れるの担当してるのか?手つきが慣れてるよな」 カップに注ぐときの仕草がいかにも手馴れていた。慣れない人間がやると泡が立ってしまったり、飛沫が跳ねたりしてしまうものだが、この男の注ぐ紅茶はきれいに弧を描いてカップの中に吸い込まれてゆく。 果たして男は頷いた。 「ああ、こちらが本業なので。店は義姉のものなんです。私はここに納入する紅茶の葉を扱っていますので、その関係で店の手伝いもしているんです」 「へえ……お義姉さんの店なんだ。てっきりあんたがオーナーかと思った」 ただの勘だったのだが、雇われ店員にしては堂々としているのと、落ち着いた年齢とから考えて、この男が店のオーナーだろうと推測していたのだ。義姉の店だというなら、経営者筋という点ではあながち間違ってもいないが。 「いえ、正確には、店の名義は兄なんです。義姉がパティシエで、私は本業が休みになるとカフェのお手伝いをしに来るだけです。言ってみれば家族経営ですね」 さらなる訂正が加えられたが、やはり男の血縁の持ち物だという点は変わらない。 「ふーん。じゃあ、お義姉さんによろしく伝えてくれよ。ケーキ美味かったって。今度はお客として買いに来る。……似合わねーけどさ、オレみたいのがケーキ買いに来るなんて」 思ったままのことを口にしてから、ふと自分のような若い男がケーキを買う姿の滑稽さに思い至り、目を伏せた。 けれど、相手はおかしな顔もせず、ふんわりと微笑みを深くする。 「いえ、とても嬉しいお言葉です。義姉も随分喜ぶでしょう」 その微笑む気配に顔を上げると、そこには本当に嬉しそうに笑う顔があって、はっと息をのんだ。 「気に入っていただいて、本当にありがとうございます」 「礼を言わなきゃならないのはオレのほうだろ。お茶もいれてくれて、こんなうまいケーキ食わしてもらって。どうもありがとう。直江、さん」 男の胸に品良く留められた横長のネームプレートを覗いて、名前を呼んでみる。 すると相手は名前を呼ばれたことを喜ぶように笑顔を見せて、小さく頭を下げた。 「楽しんでいただけたならとても嬉しいです。ところで、私もお名前を伺ってもよろしいでしょうか」 「オレは仰木。仰木高耶」 「そうですか、高耶さんと仰るんですね。きれいな響きで、いいお名前です。 ……少し席を外しますが、待っていてくださいね」 男はゆっくりと手を伸ばしてきてオレの髪を指先で梳き、少し名残惜しそうな様子でその手を引っ込めると、屈んでいた背を伸ばした。 | . |