真夏のヘンゼルとグレーテル
「宗教でも何でも構いません。とにかく、あなたをそれに引きずり込む目的ではありませんから、ご安心ください」 男はオレの気持ちがほぐれたのを見て取ったのだろう。微笑んで、ドアノブに掛けたままだった手をそっと剥がすと、今度はエスコートするように手を握ってきた。 「それでは、お好きなケーキをお選びください」 手を取られてショーケースの前へ連れてゆかれると、男は銀色のトレイと真っ白な陶器の皿を用意してケースの向こう側へ立った。 「ちょっと待て。折角だけど、やっぱりタダってわけにいかねーだろ。幾ら払えばいい?」 早速ケースの扉に手を掛けている男を、手のひらで押すような動きで押しとどめ、訊ねてみると、 「どうぞお気遣いなく。そもそも値札もないのに、どうやって値段をつけるつもりなんですか?」 男はやはり同じ答えを返すのみ。 だからといって、言うとおりにするのはポリシーが許さない。食べ物をめぐまれるほど財布が寂しいわけではないのだから。 「ケーキバイキングなら、大抵は2000〜3000円だって聞いたことがある。それでいいだろ?」 急な数千円の出費が痛くないと言ったら嘘になるが、商売物のケーキをタダで食わせてもらうようなことをして後々まで気が咎めることを思えば、まだましだ。それに、自分で買ったと思えば気持ちよく食べられるが、めぐまれたものなら味も半減するだろう。 けれど、 「いいえ、御代は戴きません。ここに並んでいるケーキは売り物ではありません。あなたに召し上がっていただくためだけに作られたものです。ですから、あなたに召し上がっていただかないと無駄になってしまいます」 男はやはりおかしな台詞を用いて首を振った。 「……あんたさ、ほんとに宗教でもやってんのか?それとも、よほどのプレイボーイなのか?誰彼構わずそんな台詞を吐いてたら、いつか刺されるぞ」 金を払う払わないの問題からずれてしまったが、オレは呆れて呟いた。一方の男は、オレの台詞に面白そうな顔になり、 「ですから、宗教だと思ってくださっても構いませんよ。ただし私の名誉のために付け加えますと、誰彼構わずにこんなことを言ったりしたりはしません。そこのところだけは宜しく」 と小首を傾げた。 「……ヘンなやつ」 どうにもコメントのしようがなくなって、オレは悪態に似た呟きを返すことしかできなかった。 | . |