真夏のヘンゼルとグレーテル
初めて足を踏み入れた店内は、こげ茶色の床板や白い漆喰風の壁、丸みを帯びたショー ケースに、あちこちにさり気なく散りばめられたグリーンの効果で、まるでお洒落なカフェのような印象を与えた。 「この店はお気に召していただけましたか?」 急に腕を取って連れ込まれたことも忘れて辺りを見回していると、いつの間にかケースの向こう側に立っていた男が、背筋をぴんと伸ばして片手を後ろに回した状態で声を掛けてきた。 「さあ、お客様。ケースの中のどれでもお好きなものをお申し付けくださいませ。幾つでも」 「は?」 思わず、間の抜けた声をあげてしまう。 人好きのする微笑を浮かべた男は店の人間らしくケースの向こうに控え、今にもケースの扉を開けようというように片手を掛けて、注文を待っている。 いきなり連れ込んでおいて、強制的にケーキを買わせるつもりなのだろうか。何て店だ。 「……お客様?」 黙ったまま、くるりと踵を返してドアへ向かうと、後ろから男が追いかけてくる気配がした。 「生憎だけど、オレ、ケーキなんか買って帰ってもしょうがねーから」 振り返らず突っ慳貪に返事をして、ドアベルの鳴る木製の扉に手を掛けようとしたとき、 「でしたら店内でお召し上がりくださいませ」 と、再び男の手がオレの二の腕を捕らえた。 まただ。 また、触れた箇所からやわらかな温かさが伝わってくる。抵抗を忘れてしまう、いっそ心地よいとでも言うべき感触。 待つ人もない家へ帰ることに寂しさをおぼえていた自分には、思わずふらふらとついて行ってしまいそうになる甘い罠だ。 「ケーキ、お好きでしょう?美味しいお茶もあります。少しの間でもリラックスして行かれたらいかがですか?」 男の声は決して押し付けがましいものではなかった。年齢に似合わないその落ち着きと穏やかさは、御伽噺に出てくる優しいおじいさんのようだった。―――実際には、ちょうどいい具合に脂の乗ってきた年齢の、顔立ち・スタイル共に目を見張るほどの美男子なのだが。 「……」 しかし、どんなに耳障りのいい声で囁かれても、通りすがりの人間をいきなり店に連れ込んでケーキを食っていけとは、とんでもない店員だ。騙されてはいけない。 「堅気のケーキ屋が押し売り紛いのことをするとは驚いたぜ。手を離せ!」 二の腕をつかむ手を振り払おうと睨みつけると、相手は目が合ったことに喜ぶような色を瞳に浮かべて、ふわりと笑った。 「押し売りなんてしませんよ。―――御覧ください」 腕を掴んでいないほうの手で男が指し示したのは、色とりどりの宝石箱のようなケーキのショーケース。 「……?」 特に変わった点もない、ただのケースにしか見えないのだが。じっと凝視してみたが、美味しそうにデコレートされた様々なケーキが銀色の盆に載せられているようにしか見えない。そして、ケーキの名前を書いた小さなプレート。 例えば、ショコラ・ピラミッド。ピラミッド型のケーキがココアパウダーと薄いチョコレートでコーティングされている……
「おわかりですか?」 ―――気づいた。 「値札が……ない?」 男はオレが見上げると、満足したような光をたたえた目でうなずいた。 | . |