真夏のヘンゼルとグレーテル
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ふと目に留まった小さなケーキ屋のショーウィンドウ。 ケーキにまつわる思い出が頭をよぎり、思わず足を止めていた。 かつて家が平和だった頃、母親はことあるごとに手作りのケーキを子どもたちのためにこしらえてくれた。誰かの誕生日であったり、何か良いことがあった日であったり、そんなたびたびに。 甘い匂いを漂わせるスポンジに白いふわふわのクリームが塗られてゆくさまを、妹と二人わくわくしながら眺めていたものだ。母親がクリームを塗り終えると、子どもたちはボウルに余ったクリームを指で掬ってつまみ食い。妹と取り合って喧嘩して、オレだけ苺を減らされたりなんてこともあった。 そんな甘くて遠い思い出に身を任せていると、現在は望むべくもないその夢にふと胸が痛んだ。 はっと正気に返れば、都会の片隅で独りで暮らす、待つ人もない家を思い出す。 昔と違って、今日という日を祝ってくれる人は誰もいない。 踵を返して立ち去ろうとした時、急にチリンチリンと音がしてケーキ屋の扉が開いたものだから、オレは驚いて立ちすくんでしまった。 「失礼。驚かせてしまいましたか」 振り返ってみると、ベルの余韻の残る木製のドアに手をかけてこちらを見ている声の主は、グレーのスーツを着た俳優ばりのイイ男で、その口元には人好きのする微笑を浮かべていた。 「……オレ?」 他に通行人は何人もいるが、彼らは足を止めることなく歩き去ってゆく。となれば、ケーキ屋から出てきた男が声をかけている相手は自分しかいない。 「ええ。先ほどからうちの店を見ていらっしゃいましたね」 果たして男はそう言いながら頷いた。 「あ、悪い……商売の邪魔になってるんだな。もう立ち去るから」 店の前に長く立ち止まられて迷惑なのだろうと気づき、慌てて足を速める。しかし、三歩と進まないうちに腕を取られて再び足を止めさせられた。 「な、何だよ?」 腕を掴む手は大きくて、びくともしそうにないくらい揺るぎなくて、でも、優しい温かさを宿している。ついその温かさに抵抗を忘れていると、 「―――はい、いらっしゃいませ、お客様」 「……えっ、あっ、おいっ!」 気づけば、あのドアベルをチリンチリンと鳴らしながら、オレは男に腕を取られたまま店の中へと連れ込まれていた。 | . |