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高耶はその頃、家の玄関を入ったところに倒れこんでいた。
朝、心配して学校を休もうとする妹を説得して無理やり送り出した後で、布団に戻る前に力尽きてしまったのだ。
高熱のためにふらふらする頭では、こんなところで寝ていてはもっと悪いことになる、というところまでは考えが続かず、よしんば続いたとしてももはや体を動かす気力はなかった。

「あ、つい……」
うわ言が、熱で血の色の上がった唇からこぼれ落ちる。
何かを探すように彷徨った手は、何物も得られぬうちに力を失って床に落ちた。
部屋に響くのは、喘鳴と熱い吐息のみ。
体は浅く上下するだけで、指一本動く気配はなかった。

それが何時間繰り返されただろう。
高耶が意識を呼び覚まされたのは、うるさく扉を叩かれる音によってだった。

“―――仰木君!仰木君、出てきてください、お願いします……”

声が、まるで夢の中のように遠い。
けれど現実であることはヴェールの掛かったような頭のどこかで確かにわかっていて、高耶はのろのろと身を起こした。

今にも崩れそうな体を、震える手でノブに取り付き支える。
ガチャ、と鍵を開けるとすぐさま扉が開かれ、そこに誰か大きな人影がそこにあるのを認めたところで、高耶の意識は完全に消えた。
強い腕に抱きとめられたことに、彼はもう気づいていない。


直江は、倒れこんできた体の異常な熱さに絶句していた。
扉が開かれたかと思ったら、そこにいた高耶がまるで人形のように目の前で崩れ落ちたのだ。咄嗟に手を伸ばして抱きとめた体は、炎を身に宿してでもいるかのように熱かった。
四十度近い、いや、越えているかもしれない。

「……っ」
他人の家であることに躊躇している場合ではない。
彼は少年の体を抱きかかえると、家の中へ飛び込んだ。

小さなアパートだった。
彼が寝ていたと思われる布団はすぐに見つかった。そこへ体を横たえ、パジャマのボタンを二つ外して呼吸を楽にさせる。掛け布団をきちんと掛けてやってから、直江はぬるくなった氷枕を拾い上げると台所へ急いだ。



「……ふ、っ……」
高耶がうなされている。
氷枕の中身を取り替え、額の上に乗せるタオルも冷やし直したのだが、薬が見当たらない。既に一箱空けてしまったのか、それとも今朝帰宅したばかりだから買いに行く暇がなかったのか。
近くの薬局を探しに行くか、それともいっそ彼をこのまま病院へ運んだ方がいいか。
悩んでいる間に、患者が苦しげな声を上げ始めたのだ。
熱のせいで良くない夢でも見ているのだろう。
どうしたらそこから救い出せるのかが、医者でも何でもない自分にはわからなくて、直江は途方に暮れた。


―――とてもとても、寒いところにいた。
冷たい、真っ白な空間に膝を抱えて座り込んでいた。
誰かを待っていた。
来るはずのない誰かを。
無駄だとわかっていながら待ち続けた。
―――誰かが来た。
けれどすぐにその背中は遠ざかる。
大きな背中は誰のもの?
今はここにいない、父親だろうか。それとも、死んでしまった母親のそれだろうか。
―――待って……!
もう誰も失いたくないんだ。
立ち上がってその背中を追いかけた。
走って走って、どんなにしても追いつけない背中。
―――白い背中は自分を拒絶するものの象徴だった。
さっさと帰りなさい
声が聞こえた。
冷たい声だった。
―――気がつけばまた独りで、白い空間に座り込んでいた。
寒くて寒くて、悲しくて怖くて、押しつぶされそうだった。
もう誰もここにはいなくて、たった独りきりで。
永遠に……誰の手も伸ばされない。

―――そんなとき、ふいにあたりが暖かくなった。
母親の胸に抱かれているように、体が温かい何かに包まれる。
……かあさん……
呟いて、眠りに落ちた―――。



「か、ぁさん……」

寒いとうわ言を言い続ける彼に、直江は手を伸ばして頬に触れた。もう片方の手で布団からこぼれている相手の左手を握りこむ。
そうして自らの体温を移すように時を過ごすと、やがて少年の唇からそんな呟きがこぼれた。
同時に、苦しげにひそめられていた眉が解かれ、顔にあどけない笑みが浮かぶ。
胸を打つほどに無邪気な喜びの色が、そこにあった。

「仰木君……仰木、高耶……」
直江は、静かに目を伏せた。
頬を撫でていた手がそっと動いて相手の唇を指先でなぞる。
「高耶……さん……」

柔らかな、けれど弾力のあるその唇の間から、時折こぼれてくる熱い息が、指をくすぐる。
相手の息吹を直に感じて、そのとき直江は胸を締め付ける感情にようやく名前を与えることができた。


「高耶さん……あなたを―――愛してる」


02/10/30




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「う、ん……」
高耶は、自分の寝言で目を覚ました。

目に入る低い天井はいつもの自室。体がだるくて動かないのが、昨晩のせいでひいた酷い風邪のせいだと思い出してうんざりした。
もう昼にはなったろうか。美弥が帰って来ていないということは、まだ昼前かもしれない。

手をやると、額の上のタオルがぬるくなりかかっていた。
ふいに、昔熱を出しては母親にこうされたことを思い出し、そして冷たいあの男の眼差しを再び思い出して、彼はたまらなく悲しくなった。

そして、……彼は涙をこぼした。

何年ぶりに流した涙だろう。それでも声もたてずにただ、流すだけ。
あまりにも悲しくて、しかもこうして一人きりで床についていると、より一層やるせなさが募る。
胸が塞がるほどつらくて、何もかもが痛くて切なくて、涙が止まらない。
声も出せないくらいきつく飲み込んでも、溢れてくる涙は止まらない。
情けなくても、みっともなくても、もう泣き続けるしかなかった。
泣いて泣いて、何もかも忘れてしまいたい……!

ス……

そうしていると、ふいに襖が開いて当の男が現れた。
「な、っ」
「……ああ、目が覚めたんですね。薬を買ってきましたよ。これで少しは楽になると思います」
目があって、男はそう言って微笑んだ。
「なおえ……」
どうして、こんな…… !? 

「どうしたんですか !? 具合が悪くなりましたか、苦しいんですか!」
目じりから流れ落ちている涙に気づいて近寄ってきた男の瞳は、本気で優しかった。
額のタオルを取り払われて大きな掌が温度を量る。
その感触があまりにも優しくて、高耶はかたく歯を食いしばった。

「……んで」
その下から、押し殺したような低い声がこぼれた。
「はい?」
男は何気なく首を傾げて聞き返す。
まるで今朝とは別人のように、その瞳は穏やかで優しい。
―――何もかも、わからなくなった。

「なんで……なんで、お前がここにいるんだよ !? ―――勝手に他人ん家入んなっ……」

色々な感情がせめぎあって、まともな思考が紡げない。
めちゃくちゃな感情のままに口を開けば、そんな言葉が飛び出してしまった。

「……それはどうも、お邪魔しました」
投げつけられた言葉に見開かれた鳶色の瞳が、一瞬の間の後に悲しげに伏せられ、男は静かに立ち上がった。
高耶は叫んだことで切れた息を宥めている。
机の上に薬の箱と水の入ったコップを置くと、彼は喘鳴する高耶を振り返らずに、襖に手を掛けた。
「お大事に」
本当にそのまま出てゆきそうな男の様子に、とうとう高耶の中で何かが爆発した。

「お前……一体なんなんだよ !? 人のこと、さんざん馬鹿にしたような目で見て突き放したくせに、いきなりこんな……っ」
跳ね起きると、ぐらつく体を必死に支えて相手を睨みつける。

「わけわかんねーよっ……もぉ、何もわかんねぇ……」
語尾が涙に滲む。
直江はそれでも振り返らなかった。
襖に手を掛けたまま、深いため息をついて呟くように言ったのみ。
「私が教えてほしいくらいですよ。一体……何をとち狂ってこんな子どもに振り回されなきゃならないんでしょうね」
何かを嘲ってでもいるかのような声音に、高耶はぴくりと反応した。
子ども扱いは、耐えられない。
それが真実であるがゆえに、より一層、耐え難い。
同情なんか、まして、要らない……!

「……くそっ」
吐き捨てるように悪態をつくと、初めて男が振り返った。

声は、穏やかだった。
「あなたは子どもでしょう?拗ねて、暴れて、棘をたてて。
認めなさい。意地ばかり張っていないで認めなさい。自分はまだ誰かの庇護がひつよ……」

相手の瞳が本物の優しさをたたえていたから、高耶にはもう耐えられなかった。
同情なんか、最低だ―――

「出てけよッ!!二度と面見せんなァァッ!」
嗄れた喉が悲鳴を上げるほど吼えた。

無言のうちに襖が閉められて、高耶は強く布団に顔を押し付けた。


「う……う、っ……」
溢れてくる嗚咽が止められない。

あの目……優しいふりしてほんとは馬鹿にしてるんだ。
あのときの光り方を思い出せ。いつもいつだって。
馬鹿にしてた。そうだ、嘲ってた。

布団を破れそうなほどきつく握り締めて頭の中で叫ぶ。
残った手で床を力任せに叩いた。
何度も、何度も。
そして場所を動かしたそれが、ふと冷たいものに触れた。

「っ?」
顔を上げると、それは額を冷やすのに使っていたタオルだった。
高耶は、無言になってそれをじっと見つめた。

―――このタオル。あの男が氷水を作ってくれたのか。家事なんか、てんでしなさそうなあの手で?
氷枕だってそうだ。とっくにぬるくなってたはず。あの男が中身を取り替えてくれたんだ。
そもそも、オレは玄関で倒れてたはずだ。それを、運んでくれたのは直江なのか。
薬も、わざわざ買いに行ってくれた?
それ以前に、今の時間は学校があるはずだ。
授業は?
まさか、すっぽかして来てくれたのか?

タオルを握り締めた手が震える。
熱のせいでも、冷たさのせいでもない。
心の動きに体がついていっていないのだ。
今にも崩れそうになる心を、必死で踏みとどまろうと言い訳を探す。

そう、あの目は、あれは何なんだ。悲しいような嘲りの光は……

「あ、っ」
高耶はふいに声を上げた。

―――馬鹿にしてるのは、自分自身だったのか?
『何をとち狂ってこんな子どもに振り回されなきゃならないんでしょうね』―――

とち狂う?子どもに?オレに?
そんな……

考えてみれば、あの瞳は本気で自分を心配していた。
ここで世話を焼いてくれたあの行動だって、嘘はどこにもない。
庇護が必要だと言ったのはオレを心配してくれたから。

いつだって、直江は、オレをまっすぐに見てくれていた。
反発しても、憎まれ口を叩いても、他の人間の言うことには耳を貸さずにオレ自身を見て量ろうとしていた。
直江だけだ。
あんな風に接してきたのは。

それなのに―――オレは追い出してしまった。
たった一人、オレを理解しようと見つめてくれたあの男を、この手で追い出した。


ようやく認めた事実に、高耶は震えだす。
今まさに自分の手で壊してしまったあの優しい瞳を思って。
自ら手放したものの大きさに、打ちひしがれる。


オレはまた、失ったのか?
母親の背中、父親の背中、そして、あの男の背中……

「……ァ」
嗚咽があふれ出した。
「いやだああアアアアッ……!」

なおえ、なおえ……なおえぇぇっ……!!

高耶は、自由の利かない体にムチ打って、よろよろと立ち上がった。
「行かないで……くれよ……ッ―――戻ってきて……ぇぇ……」
ふらつく足取りで、這うようにして玄関まで歩いていった彼は、沈黙する扉を開けて、転げるように外へ出た。

「な、お……ぇ……」
いない。
あの男はもうどこにもいない……!

涙が、嗚咽が一気にこぼれた。

どこまで行った。
下まで下りれば追いつくか。
道路を走ってゆけば追いつけるのか。

あの夢のように、遠ざかる背中を追っていればいつか誰かが抱きしめてくれるのか……


02/10/31




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「なおえ……」
高耶は再び呟く。
そのまま、よろめくように走り出した体を、後ろから抱きすくめた腕があった。


「だれ……ッ」

背中が熱い。
吐く息が速い。
腕が、強くて温かい……

「私です……」

胸から首、そして腰へ腕を絡ませてぴったりと抱きしめられた。
火のように熱い体は、ついにぐらりと力を失ったが、それでも全く危なげなく抱きすくめられて、揺るぎなかった。
「ど……して、お前……」
「扉のところで……立っていました。立ち去れなくて……」
耳元で囁く声は苦しげだった。
自分の女々しさをあざ笑うかのような響き。
しかし、背後から相手を抱きしめている直江からは見えないが、高耶の顔には喜びが浮かんでいる。

「……なくて……よかった」
「え?」
高耶の唇からこぼれる切れ切れの言葉に、男が反応を返す。

「……行かないでいてくれて、よかった……っ……!」
嗚咽に邪魔される中で、高耶はそれでも必死に言葉を紡いだ。

「高耶、さん……」
直江が目を見張る。
「なおえ……オレは、もう、誰の背中も見送りたくないんだ……」
「高耶さん?」
うわ言ではないのかと疑う。
けれど相手の言葉は、心の底からあふれ出しているのがわかるほど、たまらないくらいに切ない声音だった。
「お前が……いてくれてよかった……二度とこんな思い、したくない―――」
寒さに喘いでいた彼を思い出す。
どれほどの思いで呟くのか、直江には痛いほどそれがわかった。

「高耶さん……あなたに伝えたいことがあります」
相手を抱きしめる腕の力を強くして、家へ戻りますと囁いた。

朝と同じように相手を抱き上げて中へ入り、鍵を掛けると、直江は布団の部屋へと戻った。
高耶を下ろすかわりに、相手を抱いたまま自分が腰を下ろす。
ぐったりと力を抜いている高耶を膝の上に落ち着けて、頭を胸に凭れかけさせた。
「とりあえず、薬を飲んでください。お願いだから」
錠剤を唇の上に乗せ、水の入ったコップを口元へ近づけたが、高熱を発している中で無理をした相手には既にその力はなく、水は空しく顎をつたい落ちただけだった。

直江は、一瞬の思案の後で自ら水を含んだ。
そして、相手の顎に手を掛けると、唇を重ねた。舌の先で錠剤を落とし込み、それから水を移す。
こくんと相手の喉が動くまで、唇を離すことはしなかった。

「ぅ、ん」
離した唇から、相手の吐息がもれる。 高耶は、閉じていた目を開いて、直江を見上げた。
自分が何をされたのかはわかっていて、けれど熱で鈍った頭ではそれをどうこう感じる余裕がないようだった。
「なぉ、え?」
その目元も唇も、赤いのは熱のせいだろう。
誘われているかのような錯覚を覚えた自分を叱咤して、直江は相手をぎゅっと胸の中に抱きこんだ。

「あったかい……」

子どものような嬉しそうな呟きに、涙がこぼれそうになった。
寒い、とうなされていた彼を、自分は助け出すことができたのだろうか。

抱きしめて背を撫でて、熱で熱くなった髪に鼻先をうずめた。
抱きしめられる方はきっと温かいのだろうけれど、抱きしめている自分もこんなに温かい。

―――たまらなく、愛しかった。
熱い、太陽のような体を持つこの少年が。


「愛しています……高耶さん」
高熱に喘ぐ相手には届かないであろうと思いながらも、囁く。
「愛してる……」

ようやく伝えられた。


私は、あなたが好きなのです―――。



02/11/01




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とうとう直江先生が自覚しました……あぁ、長かった。(02/10/30)
またまたすれ違ってしまいます。(もちょっとアッサリ風味の方が良かったかしらん……)でも明日はしっかり完結します★(02/10/31)


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泉 都さまに捧げます。

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