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靴を履くのもそこそこに学校を飛び出した。
校門のあたりにたむろしている生徒たちを突き飛ばしかねない勢いで走ってゆく彼の、普段からは想像のつかない様子に、居合わせた人間たちはざわめいたが、直江のことで頭が一杯の彼には何も届いていない。
高耶は、ただひたすらにあの公園の向かいにある白いマンションを目指した。

握り締めてくしゃくしゃになった紙片には、部屋番号が記されている。
マンション自体の場所はもともと知っているのだ。知らないのはどの部屋に住んでいるかだけ。
譲はそれをわかっていて手回し良くこの番号を聞きだしてくれたのだろう。
とことん、すごい奴だと思う。
ありがたい存在だと思う。自分を偏見視することなくいつもまっすぐに見てくれた親友。

それなのに、今はそんな親友以上にあの教師のことが頭を占める。
「なんで……なんでッ」
商店街を走り抜けながら唇を噛む。

どうしてあんなことをするのか。
どうしてこんなに人の心をかき乱してくれるのか。

答えは直接聞くしかないから、走る。
ただ、走る。

―――その姿に追い討ちをかけるかのように、季節外れの雨が、降り始めた。




一号棟604室。
息をきらして全身をすっかり雨に濡らした高耶は、ようやく目的の場所へたどり着いていた。

呼び鈴を押す手が震えている。
一度。
二度。
……応答はなかった。

三度四度、何度押しても、何分待っても人の気配はしなかった。

二十分もそうし続けてようやく認めた。
留守なのだ。直江は家にいない。

「自宅謹慎じゃなかったのかよ……」
呟いて、高耶はドアに凭れるとずるずると座り込んだ。


床は、冷たかった。
綺麗に掃除されて、淡い色のタイルが敷き詰められたフロア。
扉もシャープなデザインで冷たく整っている。
広い1フロアにたった4つの部屋しか持たないこのマンションは、階層の違いを見せ付けた。
どこもかしこも冷ややかなほどに白く綺麗で。
その中にだらしなく座り込んだ自分は、ただ一点のシミのようだった。

まざまざと感じるこの場違いさ。


体の両脇に垂らしていた手を目の前に持ってきて眺めると、古い煙草の火傷や人を殴ったときの傷の痕が目に付いた。
不恰好な自分の手。馬鹿ばっかりしてきたと一目でわかってしまうこのきたない手。
あの男の手を思い出す。
授業中にチョークを握って黒板の上を滑るときのこと。名簿に出席を書き入れているときにペンを握る手の形。そして、自分の顎を痛いほど掴んだあの、長い指。
綺麗な手だった。節の揃った、大きいけれど整った手。
肉体労働を知らない手だ。
別の次元の人間なんだ―――。

どうして自分はこんなところにいるのだろう……?

濡れねずみになってぽたぽた髪から雫を落としながら。
床に広がってゆくその存在感でこの綺麗な白い空間を穢しながら。

何をしているのだろう、こんなところで。

冷えた指先が、震えている。
全身を冷やして、このままこんなところで座り込んでいたら確実に風邪をひくとわかっているのに、どうして諦めて家に帰らないのだろう。

「直江……」

呟いた言葉の寒々しさにぶるっと震える。
一体どうしたいのだろう、自分は。
何をしに、こんなところまで来たのだろう。


……ポーン、とエレベーターの到着音が響いた。

「……」
視線を向けたその先にいたのは、ばりばりのキャリアウーマンに見える女の人だった。
これから夕食の支度をするのだろう、片手に下げたスーパーの袋は野菜がはみ出て重そうだ。
カツカツとヒールの音を鳴らしながらこちらへ歩いてくる。4号室の向かいにある1号室の住人らしかった。

「?」
その女性が、高耶に気づいて足を竦ませた。
その瞳に浮かんだ一瞬の恐怖の色が、少年を傷つける。
けれど、彼はその傷をすぐに前髪の後ろへ隠して、ぶっきらぼうに説明した。
「……ここの住人を待ってるんです」
姿勢を正そうともせずに座り込んだままでそんな返答をされて、相手の女性はますます不審な顔をしたが、係わり合いにならぬがよい、と、そそくさと中へ入ってしまった。

そのドアの向こうに一瞬だけ見えた暖かそうな空間が、高耶の惨めさをいっそう煽った。

「ほんとに、何してんだろな……オレ……」
本当に久々に、泣きそうになってきた。
情けなくて悔しくてたまらない。何がそんなに悔しいのかもわからないのに、その感情だけは確かに胸を抉り続ける。

「寒い……」

濡れた上着を脱ごうともせずに、冷えた体へ両手を回して抱きしめ、高耶はずっと座り込んだままだった。



―――直江はその夜、とうとう帰宅しなかった。


02/10/26




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ポーン……

夜明け前、エレベーターの音で眠りから引き戻された高耶は、ぼんやりと瞼を上げた瞬間、目の前にあった男の瞳に身を竦ませた。
「どうしてあなたがこんなところにいるんです」
驚いた表情を隠せない男の様子に、張りつめたものが切れそうになったそのとき。

―――高耶は、相手の体から漂う明らかな甘い匂いに凍りついた。

「仰木君?」
頬に伸ばされたあの綺麗な手に、女を抱く姿を重ねて想像し、高耶は激しくそれを振り払った。
「つッ」
微かな呻き声を上げた男は、わけがわからないという顔でこちらを見ている。

「……謹慎処分の最中に女と寝てくるとは、いい度胸だな、センセイ」
ゆっくりと立ち上がり、触れられそうになった頬をわざと手で払いながら、高耶は低い声でそう詰った。

少年の全身から立ちのぼる明らかな悪感情は、すぐに相手にも伝わった。

払われた手を殊更にゆっくりとはたき、直江は以前と同じあの冷えた瞳になっていた。
「私がどこで誰と何をしようが、あなたには関係ありません」
突き放すような言葉は以前よりも一層鋭く、高耶の傷ついた心を抉る。

一晩中待ち続けたのは何だったのか。
泣きそうなくらい惨めな思いをして。一人で家の布団に転がっている方がずっと楽だったのに、何故だか立ち去れなくて待ち続けた。
それは、女と寝てきて朝帰りするこんな男を見たかったからじゃない。
こんな冷たい言葉が欲しかったからじゃない……!

「さっさとおうちへ帰りなさい。今度ここへ来たら通報すると、そう言ったはずですよ」
唇を噛み締める高耶に、なおも冷えた声を与える直江は、相手がどんな思いでいるかなどわかってはいない。

帰宅したらドアに凭れて少年がいた。
何だかひどく怯えたような表情をしているのが可哀想で手を伸ばした。
そうしたら突然手酷く拒絶され、何の遠慮もなくプライベートな問題を詰られた。

ただでさえいらいらしていたところへ、この出来事である。
直江は相手の心情に思いを馳せるだけの余裕を持ってはいなかった。

ひどく凶暴な気分になった。傷つけてやりたかった。
この可愛げのない子どもを、傷つけてやりたかった。
相手の方が弱い立場にあると知っていて、その暗い感情を止められなかった。

「さあ、いつまで他人の家の前で突っ立っているつもりですか。早く帰りなさい。―――また騒ぎを起こしたりしたら承知しませんからね」

直江はそう言い捨てて、背を向けた。

そうして、相手の存在など忘れ去ったかのように悠然と鍵を開けて、扉を引く。
中に入って後ろ手に扉を閉めるときにも、振り向こうとはしなかった。
少年があの強い瞳で痛いほどこちらを見ているのをわかっていながら、直江はそのままガチャリと鍵をかけた。


「……か、やろっ……」
目の前で閉ざされた扉と、悠然と錠を落とす音に、高耶はきつく奥歯を噛み締めた。

あの白い硬質な扉が、冷たく高耶を拒絶している。
永遠に相容れない白と黒。
やっぱりオレには関係のない場所だったのだ。この白い空間は。

「直江の馬鹿野郎……
―――オレの……ばかやろう……ッ」

一晩も悶々とした自分が馬鹿だった。
場違いなところへ居座って、周りの住人たちに不審がられて。
それでも待った。
寒くて寒くて、自分で自分の体を抱きしめた。
こんな捨て猫みたいな惨めったらしいことをした、オレが馬鹿だった。

大人を憎んで、何よりも嫌いで。
それなのに、ほんの僅かでも期待した自分が愚かだったのだ。
あんな風に庇われたらもしかしたらって、思って―――こんなところまで来てしまった。
馬鹿だな。ただの馬鹿だ。
本当に、どうしようもない。この学習能力の無さは何だ。

ああ、あんたらは正しいよ。先生たち。
オレは馬鹿なんだ。救いようも無いくらい。その通りだ。

わかってるのに、思い知ってるのに、それなのに馬鹿だからほんの少しでも優しいところを見せられたら期待しちまう。
一分の可能性に何もかも委ねてしまう。
そして、期待通りにならなくて、より一層惨めな目に遭うのだ。
最初から期待なんかしちゃいけないのに。
本当はいつでも待ってるんだ。棘を立てて威嚇しても、敢えて近づいて来られたらガラスよりも脆い。
弱いから、こんな馬鹿だから、だから虚勢を張って周りを拒絶して。
でも本当は誰よりもきっと、誰かを求めている。
構ってほしくて。
甘えたくて。

馬鹿は死んでも治らない、とは……よく言ったもんだよ。


「苦しい……」
胸が焼ける。抉られる。
ありとあらゆる苦痛が集中したかのような痛みをそこに抱えて、高耶は逃げるようにその白い空間から姿を消した。


そして、早朝に自宅へたどり着いた高耶は心配した妹に泣かれ、それを宥めるうちに、倒れることになる。
雨に打たれて乾かしもせず一晩を屋外で過ごした体は、限界を越えてひどい熱を発していたのだった。


―――同刻、白いマンションの中で直江は一人、もうもうとした煙の中で苦く煙草を噛み締めていた。わけのわからぬ苛立ちを抱え、灰皿にはいつしか吸殻が山を作る。
そこへ、電話が鳴り響いた。


02/10/27




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「……これは」

早朝の電話で、謹慎を解かれた旨を通知された直江は、身支度をして家を出たところで、足元に落ちている紙切れに気づいた。
拾い上げると、そこには自分のルームナンバーが記されている。あの少年が持っていたものなのだろう。
その小さな紙片は一度濡れて乾いたらしく、特有の質感を呈していた。

―――まさか、雨に濡れた?

昨日雨が降ったのは夜になるまでの間だった。夜中にはもうやんでいたのだ。
まさか高耶はそんな時間からここにいたのだろうか。
そういえば制服だった。濡れたままで一晩、こんなところにいたのか。まさか。

いやな気分を抱きながら、直江は紙片をポケットに突っ込むと学校へ急いだ。



土曜1限目は高耶のクラスの担当である。
直江は出席簿を持って教室へ入り、すぐさま高耶の姿を探した。
―――高耶は、登校してきていなかった。

「昨日は突然自習にしてしまってすみませんでした。今日からはまた普段どおりに進めますので、そのつもりで。
では、出席を取ります。―――石井君」
「はい」
「石橋君」
「はい」

出席簿を広げ、順に名を呼んでゆく。
すぐに、高耶の番がきた。

「仰木君……仰木君は遅刻ですか」
他の不在者たちと同じように×をつけながら教室全体へ向かって問うと、一人の男子生徒が立ち上がった。
「仰木は風邪でお休みです、先生」
そう、確か高耶の親友だという生徒だ。成田、譲といった。典型的な優等生で、教師からの信頼の厚い生徒だ。
その柔和な雰囲気の中、瞳だけで、なぜだか今、彼は直江に向かって敵意を剥き出していた。

「……そうですか。わかりました」
悪い予感が的中したことに声が僅かに震えたが、幸いそれに気づいた生徒はいなかったようだった。―――痛いほどに強い視線でこちらを見ていた成田譲の他には。
出席確認が済むと、直江は普段どおりに授業を始めた。



「……成田君、ちょっと」
「何ですか?」
授業を終えると、直江は譲を廊下へ呼び出した。
生徒たちの行き来でごった返しているそこでは、むしろ教室よりも周りに話を聞かれる心配がない。
普段どおりの柔らかな物腰の中で瞳だけを猛らせて、譲は直江を見返している。

「これに見覚えはありませんか」
その痛いほどの視線に耐えながら、直江はポケットから例の紙片を取り出した。
ちらりと視線を走らせただけで、相手は鼻を鳴らして反撃を返す。
鋭い糾弾の眼差しが向けられた。
「―――先生こそ、高耶の風邪に覚えはないんですか」

一瞬で悟られた。
この少年が全てを知っているであろうことが。

「……先生、場所を移した方がよさそうですね。屋上へ行きましょう」
強い眼差しで直江を射抜きながら、成田譲はそう提案した。



「……やはり、君でしたか。この字は」
屋上へ出ると、呟き交じりの息を吐いて直江が肯いた。
そして、まっすぐに相手の瞳を見つめて問うた。
「昨日の晩、仰木君は私の家の前にいたんです。君はその理由を知っていますね?教えてください」
「どうしてですか?中途半端に高耶に関わるのはやめてください。そんなのはオレが許さない」
どんな弱い生き物でも、子を守る母親の猛勇ぶりは凄まじい。
今、親友のために牙をむき出しにしているこの生徒が、そんな風に見えた。
それでも、ここで引き下がるわけにはゆかない。
「中途半端じゃない。どうしても、直接会って話さなければならないことがあるんです」
「嘘を言わないでください!高耶は……高耶はあんたのせいでどんなに傷ついたと思ってるんですか !? 
休むっていう連絡、妹さんがくれたんですよ。どんなに具合悪くてもオレには自分で連絡してくる奴なんだ高耶は。それができないなんて、想像できないくらい精神的にダメージを受けてるってことなんだよ……!」
譲はついに敬語をやめて喉笛に喰らいついてきた。
「それでも!」
しかし、直江も引き下がらない。
「どんなに罵倒されても仕方ないかもしれない。それでも、あの人に会わなきゃならないんだ!頼む、どうなっているのか教えてください……!」
「まずオレの質問に答えてください!あんたは昨日、高耶に会ったんですか?何を言ったんですか?あいつは何を言った?」
長身の直江に詰め寄られてもものともせずに、譲は逆に牙を立ててくる。
凄まじい気迫で以って直江を押し、詰問を続ける彼に、直江が言葉を濁した。
「昨日の晩は……」
「会わなかったんですか?どうして。謹慎中だろ。家にいないはずないのに。まさか無視したんじゃないでしょうね?」
言いよどむ姿に眉の角度を跳ね上げた譲である。
「違います。昨晩は私は帰宅しなかったんです……知人の家にいました」
どんなに情けなくても視線を逸らすことはできない。激昂した相手の瞳をまっすぐに見据えて告げると、相手は目を見開いた。
「何だって !? まさかそれじゃ高耶は……」
「夜明け前に帰宅すると、彼がいました。ドアの前で眠っていた」
口にするのも痛ましい。
「……んな、馬鹿なっ……!雨に濡れたまま一晩中外で待ってたっていうのか、あいつは !? 」
相手の叫びはそのまま直江の叫びだった。

あなたは夕方からずっと、濡れた体を抱いて一晩中私を待っていたんですか。
あの寒い場所で、震えながら。
帰ってこない私をそれでも諦めずに待ち続け。
そして……

「目覚めた彼に私は酷いことをしてしまいました。家へ帰れと突き放してそのままドアを閉めた……」

バシッ

張られた頬の痛みは、そのまま心の痛みだった。
衝撃に一旦閉じてしまった目を再び開くと、拳を握り締めてわなわなと震える譲の姿があった。
「……あんたは最低だ!高耶の最も嫌う大人の中でも一番酷い男だ……っ」


02/10/28




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「―――否定はできません」
直江は低く肯定した。

「……高耶は、あんたが自分を庇ってくれたと知って混乱したんだ。あんたが何を考えてるのかわからないから話をつけてくるって学校を飛び出した。もしかしたら高耶のことをわかってくれるかもしれないと思ったから住所を教えたんだ。それなのに!」
譲は目に涙すら浮かべて直江を睨みつけた。視線で人が殺せるというのなら、たちどころに直江の命はなかっただろう。
「あいつはほんとは弱いんだ。強がってるだけで、怖がりで臆病で、いつも不安で一杯な奴なんだ。
期待して裏切られるのが何よりも怖くて、誰にも心を開けない。……でも本当は求めてるから、少しでも望みがあると期待しちまう。でも、その期待に応えられる人間なんかいなかった。いつだって、高耶は二重に傷ついてきたんだ。ちょっとでも期待した自分が馬鹿だったって、そう言って笑って、本当は死ぬほど傷ついてるんだ……
あんたは、絶対にやっちゃいけないことをあいつにしたんだよ!」
許さない、と譲は叫んだ。
「今後二度と高耶には関わらせない!オレが許さない!」

親友思いの彼の、その叫びを、しかし直江は遮った。

「私はあの人に会いたいんです。あなたの許可を求めているわけじゃない。これは、私と彼の問題なんだ」
鳶色の瞳は、譲にも負けないほどの強い光を浮かべている。
対する譲は動じない。
「許可とかそんな話じゃない!あんたは高耶を傷つけるだけだ。そんな人間をあいつに近づけるわけにはいかない。オレが許さない!絶対に許さないからな!」
怒らせた目を爛々と見開いて、こぼれる涙をも振り捨てて全身で男を拒絶するその母鳥に、

「黙れ!!」
直江は初めて大きな声を出した。

「そうやって甘やかすから!それが彼を弱くしているんだと何故気づかない!?」
「何だってっ」
「人間と人間がぶつかり合うんだ!痛いのなんて当然だろう!?手酷く裏切られたからって殻に閉じこもってしまったらお終いなんだ!
どんなに厳しくてもつらくても、いつか通じる……!それを信じられずに自ら全てを捨てて楽な世界に生きようだなんて、屍同然だ。お前のしていることはそれなんだぞ?彼を守るつもりで墓場に押し込めているのだと、なぜわからない!」

まるで獅子の咆哮のようだった。鼓膜が破れるかというほどの凄まじい気迫で迫られて、しかし譲は退かない。

「あんたにだけは言われたくない!態度で傷つけて、その上今度は言葉でまで傷つけようっていうのか!?どこまで高耶にひどいことしたら気が済むんだ!」
「傷つけたくて会いたいわけじゃないと何度言えばわかる?ぶつかりあいたいから会いたいと言うんだ!糾弾されようが罵倒されようが構わない。とにかく自分がどういう気でいるのかは自分の言葉で伝えなければ伝わらないから、会いたいんだ!」
「何を今さら言いたいっていうんだ?もう高耶に聞く耳はないよ。あんたの言葉なんか、もう、聞きたがるはずがない!」
「お互いにまだ伝えていない言葉がある以上、話は必ずできる!
彼が一体何を聞きたくて昨日一晩あそこで待っていたのか、俺は知らない。
俺が何を思ってあの人を庇ったのか、何もまだ伝えていないんだ……ッ!!」

―――嵐のようだった咆哮に、切ないほどの痛みが交じって、ふと譲は相手の気配の変化に気づく。

相手は、これまでに見せたことのない表情をしていた。

苦しげに寄せられた眉がその苦悩を語り、
鳶色の瞳には溢れる感情が湛えられて、
噛み締めた唇は今にも嗚咽をこぼしそうに震えている。

ただのからかいや冗談ではない、本当の感情のぶつけ合いを、この男は求めているのだ。
押さえても押さえきれない何かを、抱えているのだ。


……譲は、深く息を吸って、口調を整えた。

「……直江先生。あなたはそうまでして一体、高耶に何を言いたいんですか?
―――これ以上高耶を傷つけるようなことなら、死んでもここは通しませんよ」

相手の様子から、そんな話ではなかろうと予想はついていたが、釘を刺すのは忘れない。
静かに問い詰めると、相手は言葉を探して苦しそうにした。


「俺は……」
突然怒りを納めた相手に戸惑いながら、直江は自分を突き動かしている感情をどう表現すべきか苦しんだ。
どうしても言葉にできない、そんなもどかしさが直江を苛む。

すると、相手はふっと眼差しを和らげて、こう問うてきた。
「―――何を話したいのか、あなた自身わかっていないんですか?」

全てを見透かす仏のように、譲の声は直江の嵐のような胸に沁み入った。

「……俺は、―――私は」

あのとき、生指に腕を掴まれて知らぬと反抗する瞳の奥に悲しみを見ていたのではなかったか。
あのとき、囲まれてナイフを突きつけられる彼を見て、自分は怒りを感じたのではなかったか。
あのとき、恥ずかしそうに礼を言う彼を、自分は……愛しいと思ったのではなかったか。
そして、今朝。
ドアの前で座り込んで眠る彼を見て、頬に触れたいと思ったのではなかったか……

あのときも、あのときも。
自分は彼を……

「答えが出たなら、オレには話さなくてもいいです。ちゃんと高耶に伝えてください」


―――初めて見せた譲の笑顔は、やはり母鳥のようだった。




譲は、休み時間の終わり五分前を告げる予鈴に従って下へ下りた。
しかし教室へは戻らず、職員室の扉を開ける。

「……失礼します。
直江先生が具合を悪くして病院に行かれました―――」


02/10/29




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「すれ違い」をクリアするためにこんなシーンを……ああああ高耶さんがかわいそすぎるぅっ(涙)(02/10/26)
今回も高耶さんがあああああ(02/10/27)
譲くんvs.直江先生……かなり激しいバトルとなっております。(02/10/28)
譲くんvs.直江先生、引き分け?(というか譲くんの手加減か?)(02/10/29)


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泉 都さまに捧げます。

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