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翌日のこと。

人気のない教室の中に、一人ぽつんと席についた高耶は、明けてきた夜を黙って見つめていた。
校門はまだ開いていない。早朝の5時である。
昨晩はあれから家に戻ったが、制服に着替えて鞄を掴むと、すぐに出てきた。
わざわざ朝早くに学校へ行くような殊勝さを持ち合わせている人間ではないつもりだったが、昨日のようにイチャモンをつけられたりすることのない場所で、確実に一人になれる所を探したら、ここしかなかった。
ここならば、朝練に出てくる連中が登校するまで、誰にも邪魔されずにいられる。

考えるのは、昨夜の騒ぎのことだった。
吉村……といったあの男は確か、バカ高で有名な東高を挙げていたが、家は金持ちだったはずだ。地元の有力者につながりがあるとか何とかで、そうとう好き勝手しても警察沙汰にはされずにもみ消してきた過去がある。

厄介なことになったかもしれない。

昨日の一件はおそらく、あのテの男にとっては大いにプライドに傷をつけられたということになるだろう。自分の拳にやられた傷もそうだが、直江の凄みにあっさり陥落したことなどは無様の極みだ。まして、傍では手下が二人もその醜態を見ていたのだから。
執念深い爬虫類系のあの男のことだ、ただ黙ってはいないはず。

今日あたり、またぞろ呼び出しくらうかな……と、生徒指導の顔を思い出して高耶はうんざりしたため息を吐いた。
あと何発か殴ってやればよかった。全然、暴れ足りない。
何もかも、あの男が邪魔したせいだ。
ナイフくらい、一人で何とでもなったのに……!

バン、と机を叩いた。再び振り上げられた拳は、しかし―――すぐにゆるゆると下げられる。

―――嘘だ。あのままだったら確実に刺されてた。死んだかどうかはわからないけど、かなり危ない状況だったはずだ。
オレ一人なら、別に死んでもよかったけど、美弥がいる以上、そんなことはできない。
それを思えば、直江の野郎がオレを助けてくれたことには感謝しなければならないのだ、腹立たしいことに。

いちいちむかつく野郎だぜ、全く。
礼も言わせないで。
オレだって、助けられたからには礼くらい言えない人間じゃない。
それを、あの男は、わざわざこちらの神経に障る言い方をして、勝手に蔑んで、……本当に嫌な男だ。

(本当は、ちゃんとありがとうと言いたかったのに……)

―――何だと?
オレは今、何を思った?
……ありがとうなんて言いたかったのか。まさか。

―――あんな奴に頼るなんて。馬鹿らしい。
 ―――助けられて本当は膝から力が抜けそうになった。
―――あんな男、世界一気に入らない。
 ―――自分の前に両手を広げて盾になってくれる奴なんて、初めて見た。
―――嫌いだ。大嫌いだ。顔も見たくない。
 ―――古典の授業だけはさぼったり遅刻したりしなかったのはなぜだ。見ていたかったからじゃないのか。
―――ずっと寝てばかりいた。
 ―――本当は寝てなんかいなかった。目は閉じてたけど、耳は聞いていた。あの声を。

―――うるさい!!


一体どうしたいんだろう。自分は。

「何もかもが気に入らねぇ……」

自分で自分がわからない。こんなぐちゃぐちゃしたヘンな心理状態になったのも、あの男のせいだ。
何もかも、あの男が来てからだ。
おかしくなってしまった。

「何もかも、てめぇのせいだ……」

まだ暗い、人気のない教室に、そんな弱い呟きが浮かんで、消えた―――





02/09/22




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「珍しく早いね、高耶」
誰よりも早く教室に入っていた高耶に、朝練のために登校してきて、荷物を置きに入ってきた譲が驚いた顔をした。
「こんな時間に、どうしたんだよ?……その傷、また何かあったの !? 」
傍まで歩いてきて、彼は高耶の頬の真新しい切り傷に目ざとく気づいて声を上げた。
「……夜中に、ふらふらしてたら昔の知り合いに売られたんだよ。久々にやったし相手が三人いたからちょっと分が悪かったかな」
肩をすくめると、相手はため息をついたが、ケンカしたことについてはもう何も言わず、
「傷、それだけ?他は大丈夫なのか?」
「まぁ、な」
本当は幾つか痣になっているのだが、大したことではない。

「……ならいいけど。高耶、あんまり無茶しないでよ」
言外のところを察して、譲は再びため息をついた。
「これ以上生指に突かれたら美弥ちゃんが心配するぞ」
頭を小突くようにされて、痛っ、と呻く。
「高耶 !? 」
驚いて手を離し、顔を覗きこんできた親友に、高耶はにやりと笑った。
「―――驚いたか?ジョークだよ、ジョーク」

かつがれたのだと悟って、相手の茶色い眼が不気味に笑い出す。
「たかやぁ?」
「な、何だよ」
ずいずいっと近寄られ、満面の笑みで圧倒されて、思わずじりじりと後ろへ下がる。
「心配してる友達で遊ぶとは、いい根性してるよねぇ」

ぐいっ、と鼻をつままれた。
手加減もなしに。

「痛ってぇ!」
「当たり前だろ、オレ握力けっこうあるんだぜ〜」
「譲っ!!」

そんな風にじゃれていると、ふと譲が首を傾げた。

「ねぇ、高耶って香水なんかつけないよね?」
「はあ?当たり前だろ。女じゃあるまいし、気色悪い」
突然の言葉に驚いたものの、高耶は即座に首を振った。
相手は不思議そうな顔をして、
「なんか、甘いような匂いがするからさ、お前の方から」
変だな、と眉を寄せている。
「甘い……?あ、」
瞳をくるりと動かして、ふと高耶は小さな声をもらした。
それを耳聡く聞きつけて、譲が尋ねる。
「心当たりでもあるの?」

「いや、それ……直江かも」
意外な答えに、彼の目が丸くなる。
「直江先生?何で !? 」
「……昨日のケンカ、あの野郎が止めに入ってきたんだよ。オレがこの傷をこさえた直後にな」
素っ頓狂な声を上げる親友の心中を察してか否か、高耶はすぐにその種を明かした。
「へぇ……」
「この間の公園だったからさ。あいつの住んでるマンションの目の前なんだよ」
「そうかぁ。それにしても、ほんとあの先生、おかしいよねぇ」
親友は肯いて、首を傾げた。
どうしてわざわざ高耶にだけ構うのだろう。
「ヘンな奴だよ。相手の奴ら、ナイフなんか持ち出しやがったのに、あの男が手首捻り上げたらガキみたいに喚いておとなしくなった。相当慣れてやがるぜ、直江」
高耶は高耶で困った顔をしている。

二人は、微妙にずれた観点から、古典の直江をヘンと評価していた。

「で、何、ナイフなんか出てきたの?」
ふと、顔を上げて譲が問うた。
「ああ。ちょっとやばかったかもな。下手したら刺されてた」
「高耶」
真剣な眼差しになった親友に、高耶は少したじろぐ。
「何だよ」
ひたと視線を合わせると、譲はにっこり笑って続けた。
「とりあえず、お礼言っときなよ。直江先生に。美弥ちゃん悲しませずにすんだのは先生のお陰なんだろ」
「……そうだな」
視線を流して、高耶が呟くように肯いた。

「噂をすれば」
窓の下で、件の男が長身を運んでいる。早朝からの出勤、それほど仕事に熱を入れているとも思えない男なのに、実はこれが習慣なのである。いつも同じ時間に彼を見かける譲は知っていた。

「行ってきなよ」
親友が背を押すのに任せて、高耶はゆっくりと教室から出て行った……




02/09/27




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何だか顔を合わせづらかった。
啖呵をきっておいて、今さら礼なんて。
けれど、義理は果たしておかないと、後味が悪い。

自分をそんな風に誤魔化して、高耶は下足箱の並ぶ一階のホールに下りていった。



「……仰木くん」
教員用の下足箱まで来て簾の子の上にスリッパを並べたところで、足音に気づいて振り返った。
見れば、そこには頬の傷も新しい、昨夜の少年が立っている。
彼は、きまり悪そうに視線を彷徨わせながら、ぽつりと呟いた。
「……オハヨウ、ゴザイマス」
「―――本当に早いですね。君はたしか、遅刻常習犯じゃなかったでしたっけ?」
怒っているようなつっけんどんな物言いが、落ち着かなげな物腰と相まって、何だか微笑ましい。
思わずからかうようなことを言ってしまったが、相手は少し驚いたように顔を上げると、印象的な黒い瞳でこちらをまっすぐに見てきた。

言われた内容は、いつもなら自分の神経を逆なでするに違いなかったが、相手がふざけるような軽い口調を使ったのが珍しくて、腹は立たなかった。
この教師のこんな砕けた雰囲気は初めて見たのだ。不快ではなかった。むしろ新鮮で、少し驚いてしまった。
「悪かったな。今日は夜明け前からここにいるんだよ」
思わず視線を上げたところで、うっかり男とまともに目を合わせてしまい、何だか困ってしまう。
友好的な態度のこの男の瞳は、とても綺麗な鳶色をしていた。
澄んだ目は、まっすぐに見つめられると、まるで心の底まで見透かされてしまいそうで、怖くなった。

「夜明け前って、まさかあれからずっとここに?」

本気で心配しているらしい声音が、耳を強く打った。
顔を上げると、想像どおりの真摯な瞳がまっすぐにこちらを見ていた。

「えっと……まぁ、そうなるかな」
困ったように躊躇う口調であやふやな肯定をする彼が、無性に可愛らしくて、直江は意外な感を抱いた。
「いけませんね。妹さんが心配したんじゃないですか。お家に一人で待たせておくなんて」
言い方は説教めいていたが、その言葉は決してこの少年を怒らせはしなかった。
「……あんたに言われなくても、わかってらぁ」
少しだけ唇を尖らせるさまが、むしろ警戒を解いた表情なのだと、直江は気づく。
これまで見せていた態度が、無理やり立てた棘だったのだと、わかった彼は、ふわり、と本人も無自覚の微笑みを浮かべた。

「……っ」
少年が息をのむ。

驚いた。
綺麗な笑顔だった。
初めて見る、本心からの笑みを、相手は刻んでいた。
自然な笑顔だった。

言葉をなくしている高耶に、直江はその微笑みを崩さぬまま、言葉を続けた。
「それで?わざわざそれを言いに下りてきてくれたんですか?他にご用は」
ぱたん、と下足箱の扉を閉じた彼に、その音で我に返った高耶が目を向ける。
「……あの、」
堅い表情の奥にあるのが、照れる気持ちなのだと気づいている直江は、辛抱強く相手の言葉を待った。
「昨夜は……ありがとう」
「―――おや」
思わぬ台詞に、少しだけ目を見張る。
その表情が気に入らなかったのか、相手はむむっと眉を寄せると、
「オレだって礼くらい言えんだよ。悪かったな」
とそっぽを向いてしまった。
「お、仰木くん―――」
次の瞬間にはくるりと踵を返して立ち去ろうとする。その背に慌てた声を掛けると、
「……それから!」
視界から消える直前に彼は振り返り、声を張り上げた。
何を言うのだろう、と肯くと、一度下を向いてから、彼は再び顔を上げて、一言だけ続けた。
「美弥のぶんも、ありがとう……」


「……驚いた人だ」
じゃあな、と階段を駆け上がっていったその後姿の残像を見つめながら、直江は呟いた。
いきがったひねくれ小僧かと思いきや、実のところはあんな一面も持っている。
突っ張るのは脆いからだ。本当は笑顔が似合う人なのに。

笑ってほしい、と……ふいに直江は思った。

「ほだされたかな」
呟いて、そうではない、と否定する。
同情ではないのだ。
ただ、あの子どもにはあんな風にギラギラした目をさせたくないと思う。
勿体無いと、思ったのだ。

どうにかして、いつも先ほどのように在ってほしい―――

初めて、そんな風に誰かを思った。



02/09/29




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―――先手を打たれた。
ぬかった、と直江は周りからは見えないように唇を噛んでいた。きつく、痕が残るほどに。


「今朝はまた問題が起きました」
毎朝の定例職員会議の席は、生徒指導担当教師のいつもの通りの台詞から始まった。

「今度は誰ですか?まったく、うちの問題児たちときたら、何が何でも退屈しない方法を見つけたいらしいですな」
「二年の岩野か、それとも三年の長岡じゃないですか」
「いえ、違います」
上がった他の教師のうんざりしたような声を遮って、生指の後藤は続けた。
「また奴です。二年の仰木が、今度は骨折騒ぎを起こしたらしい」

「えっ?」
直江はふいを突かれて思わず声を上げてしまった。

彼の手元には、昨夜の三人から取り上げた生徒手帳とカードがある。
これを揃えてこの会議で発言しようと思っていたところだったのに、既に生指に話が行っているとはどういうことだ。しかも、あの言い方ではまるで仰木高耶が事を起こしたかのようではないか。

「どうかしたんですか、直江先生?」
隣の席の現国担当教師が不審そうに問うてくるのに軽く首を振って、
「いえ、その件なんですが、私も―――」
自分の知っているその事件のことを話そうと直江は口を開きかけたが、

「直江先生は後でお願いします。とにかく私の説明を先生方に聞いてもらわなけりゃならん」
後藤はそれを遮って頭から湯気を立てた。
通称『ゴリ』、保健体育科の彼は、もう一つの名前『イノシシ』通りの他人の話を聞かぬ勢いで、事の顛末をまくし立ててゆく。

「昨晩、あの問題児は性懲りもなくまた喧嘩騒ぎを起こしたそうです。
何でも、公園に来た東高の連中に殴りかかっていったそうで、相手は二人が手首を複雑骨折、もう一人は肩を外したらしい。降参したのに馬乗りになって殴り続けたということです。とんでもないことをする奴だ!
それで深夜に学校へ連絡が入りまして、私も叩き起こされました。相手方のご両親は大変ご立腹で、仰木を退学処分にしろと言わんばかりで。
いい加減、奴にはほとほと愛想が尽きましたよ」

「な……」
「本当ですか後藤先生 !? 」
職員室全体がざわついている。
こまごました問題はしょっちゅうだが、複雑骨折に退学要求となるとずいぶん久々のことなのだ。
退学処分を訴えられたと聞いて、その対応の面倒さにうんざりする様子の教師もいる。
誰もが、話の内容をそのまま受け止めて仰木高耶への苛立ちを深めていた。よく考えれば相当に一方的な話なのだが、訴えられている相手が高耶であれば、誰も疑問を持たないらしい。

その空気に満足した様子の後藤は、夜中に叩き起こされた不機嫌をようやく払拭して、大きく肯いた。
「こんなことで嘘をついてどうするんですか。
大体、相手というのがあの吉村さんの息子さんなんですよ。ご両親が嘘をつくはずがない。何たって一つの街の政治に関わっている人なんですから」
「吉村、ですか……」
その名前を聞いて、幾人かの教師が眉を顰める。
父親の立場をフルに活用して悪さを重ねてきた吉村のことは、隣町の生徒とはいえ、教師の間ではある程度知られていた。
その男の言うこととなると、必ずしも事実だけではないだろう。都合のいいように捻じ曲げて話をしている可能性は大いにある。
職員室からは、少しだけ、先ほどまでの一方的な仰木バッシングの空気は薄れた。

微妙に変わった場のその雰囲気をどう思ったか、後藤は少しだけ首を振った。
「ええ、息子に関しては良い噂は聞きませんがね」
だが、すぐに再び机に両手をつき、自論を展開し始める。

「しかし彼らの怪我は事実だ。それは手当てをした病院側が確かに証言してくれたことです。
―――それに、そもそもそんな輩とやり合うような関係があるという仰木が悪いんです。
大体、奴は中学時代から今まで、心配して更正させてやろうと手をかけた教師の言うことに、悉く反発してきたんですよ?自宅まで話をしに行った先生を突き飛ばして危うく車に轢かれさせるところだったこともある。他にも羽交い絞めにした先生に無理に抵抗して痣をつくったり、挙げればキリがない。
あいつには更正の余地がないんです。本人にその意志がないのに周りが何をしたってムダなんだ」

いかにもこれが事実だと言わんばかりの、決め付けた意見だった。
そして、彼は腕を組んで最後通牒をつきつける。
「もういい加減、あんな奴を受け入れておくような余地はうちの学校にはない。
先方の言うように退学処分とするのが妥当でしょう」

聞いているうちに、直江のこめかみには青筋が浮かんでいた。

明らかに疑わしい訴えに対して、この教師たちの諾々とした態度は何なのだ。
そもそも深夜の公園に三人も連れ立って出歩いていたなどということ自体にも問題があるだろう。そこには何も疑問を挟まず、ただ高耶の非だけを問うとは。
喧嘩の原因すら問題にされず、ただ相手が怪我を負ったという事実さえあれば、それら全ての非が高耶にあるのだと自動的に納得されてしまう。
一体、これは何なのだ。
吉村とかいったあの子どもが、議員の父親を持つというだけで、疑わしいところも全て目を瞑る。まるでそんな人間相手に事を起こしたのが悪いと言わんばかりのこの空気。

信じられない。

―――こんな大人たちに囲まれて、だからあんなにも必死に棘を立てていたのか。彼は。
手負いの獣のようだった高耶のあの黒い瞳を思い出し、直江は沸騰するような激しい感情をわかせた。

偽善者、と自分を罵ったあのときの顔。
妹の分もありがとう、と言ったときの笑顔。
―――それらが交互に入り混じり、直江の頭の中でようやく一つに溶け合った。

そして同時に、身のうちに抱えておけないほどの怒りがこみあげる。

こんなことは許せない。
許せない―――


「……先生方、お話があります」
彼は、まだ何か喋り続けている後藤を完全に無視する形で、がたんと音をたてて立ち上がった。


02/10/22




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ふいに立ち上がった古典担当の新任教師の姿に、教師たちが振り返る。
そちらへ注意を向けた彼らは、目に入った男の漂わせる只事でない気配に思わず緊張を走らせた。

普段何ごとにも淡々とした態度を崩さなかったこの新任教師は今、転任してきて初めて見せる、身を切るような冷えたオーラを纏っていた。

「な、何ですか直江先生」
後藤もその気配に圧倒された様子で無意識に体を反らしている。
「……なかなか興味深いお話でしたが、今のお話には、大いに間違った点がありますよ」
直江は、いっそ凄んでいるとでもいえそうな笑みを唇に浮かべながら、彼の方へとゆっくり歩み寄っていった。
そして、その長身で押しつぶそうとでもいうようにずいっと顔を覗きこむと、冷や汗を浮かべる相手の鼻先に、手にしていた件の生徒手帳とカードを突きつけた。

「こ、これは?」
「吉村、三田、川辺。……昨夜、私がこの手で回収したものです」

「どういうことですか?直江先生」
唐突な行動に、周りの教師が説明を求めてくる。
「昨日の件には私もかかわりがあるんですよ。
詳しいことはこれから説明しますが、先ほどのお話には明らかに誤った点があります。何を意図してそんなことを言ったのか―――ある程度見当はつきますが」
直江はそう言うと、自分に集中している全員を見回してから告げた。
「彼らの怪我は私がやったんです」

「―――はっ?」
一瞬の沈黙の後に、その言葉の意味を理解して職員室はざわめいた。
「手首の骨折はちょっと力を入れすぎたようですね。手加減したつもりだったんですが、どうやら近頃の子どもは骨が弱いらしい」
独り言のように呟いた彼は、信じられないものを見るような目で自分を見ている教師たちに向かって事の顛末を語り始めた。

自宅の近くの公園で乱闘騒ぎが起きていることに気づき、下へ下りたこと。
そうしたら高耶が羽交い絞めにされて刃物を突きつけられていたこと。
それを止めさせるために手首を掴んだことと、間に合わずに一筋だけ高耶に傷がついてしまったことも。

「彼の頬を見てもらえば事実だということはすぐにわかります。第一、ここにこうして取り上げた生徒手帳があるんですから、私の話が嘘でないことは理解していただけると思いますが、いかがですか」

―――しばらく、職員室には重苦しい沈黙が落ちた。

直江は敢えてそれ以上は語らず、悠然と構えて教師たちの反応を待った。
自分がわざわざ、体罰問題に発展しかねないようなことを告白したということも、もうどうでもよかった。
本来の自分ならば知らん顔をしていたかもしれないけれど、仰木高耶の素顔をようやく垣間見た今は、先ほどのような一方的で悪意に満ちた訴えを見過ごすことなど論外だった。
これで自分にお咎めが下るとしても、それはそれ。実際、手首を締め上げたのは事実である。
そして、それを問われるのならば、こちらも徹底して相手方の申し立ての真偽を明らかにさせてもらおう。
事実をはっきりさせた上でどんな処分が課されたとしても、文句を言うつもりはない。

とにかく、でたらめな申し立てを甘受するつもりだけは絶対にないのだ。
コネであろうが何であろうが、一切立ち入らせないところへ引きずり出して証言させるまでは、引っ込むつもりはない。


「……なるほど」
さすがというべきか、最初にそれを破ったのは校長だった。
穏やかで知られるその初老の元数学教師は、やんわりとした口調で直江に向かった。
「直江先生の仰ることはよくわかりました。相手方のお話ばかりを追ってはならないということは先生方みなさんもわかってくださったものと思います。
この件についてはきちんと洗いなおすことにしましょう」

鶴の一声、校長がその落ち着いた声で口にした言葉は教師全員に受け入れられた様子だった。
ふ、と息を吐いた直江だったが、
「待ってください。経緯はどうあれ、相手がひどい怪我を負ったことは事実です。それについてはどうご処分されるのですか?」
蛇に睨まれた蛙のように潰れていた後藤が、息を吹き返してそう口を挟んできた。
「複雑骨折を負わせたということは大きな問題だと思いますが?」

「そうですね」
校長はしばし、考える素振りを見せた。
「何度も申し上げますが、怪我をさせたのは私であって仰木君ではありませんので、退学処分のお話は論外です」
直江が、静かに、しかしきっぱりとそう述べると、相手は目元から普段の笑みを消して、まっすぐに見返してきた。
「つまり、直江先生はご自分の非を認められるのですね?」
「はい。事実は事実です。
経緯が完全に明らかになれば、彼らには、負わせた怪我に対しては謝罪しに参ります」
直江は、その普段は温和な光に隠されている、鋭い眼光をまっすぐに受け止め、力強く肯いた。
それをじっと見つめていた校長は、真摯な瞳のまま呟く。
「―――わかりました」



―――直江はその日、謹慎処分を言い渡されて、授業を行わないまま下校した。



教室で、今まさに行われているであろう昨夜の問題についての臨時職員会議の模様を色々と予想していた高耶は、時間通りに1時限目の授業が始まったことに拍子抜けしながらも、自分にお咎めがない理由にまでは、まだ気づきはしなかった―――。


02/10/23




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その日には、もともと古典の授業はなかった。
だから、異変には気づかなかった。授業のない日に廊下で姿を見かけなかったからといって、それは別段おかしいことではないのだ。全校27クラスを抱える学校なのだから。

けれど、その日が終わっても次の日になっても生指からのお呼びはかからず、高耶は翌日の昼になってようやく不審感を抱くことになる。

金曜五限目。本来ならば古典の授業が入るはずの時間だ。
いつも通りに席で椅子の背に凭れ、目を瞑っていた高耶だったが、がらりと扉を引いて教師が入って来る物音に瞼を上げると、面倒そうに半ばだけ覗いていた瞳はその人物を認めて一気に見開かれた。

直江ではなかった。

「あれぇ?直江センセじゃないの?」
「そういえば昨日お休みだったって聞いたけど」
「今日も来てないの?病気かなぁ」

ざわめく生徒たちに、入ってきた別の古典教師が教卓をパシンと叩いて注意を喚起する。

「今日は直江先生はお休みです。各自、適宜の自習をするように。希望者にはプリントを刷ってきますので申し出なさい。
くれぐれも、隣の教室に迷惑を掛けないように。授業中ですからね」

代理で来た教師はそれだけ説明して、後はプリントを希望する生徒を集めて枚数を確認しに入った。
そして、解放された教室はざわざわと煩くなる。尤も、代理教師に注意させるほどのボリュームではなかったが。

「高耶」
後ろから突つかれて、高耶は親友を振り返った。

「……譲。お前もそう思うか?」
顔を寄せて、小声で交わす遣り取り。
相手は眉を顰めて難しい顔をしている。
「昨日から直江先生、お休みなんだって。朝は確かに来てたのに」
「ああ、普通に授業するつもりで来てたはずだ」
「でも、一限目の時点からいなかったらしいよ。さっきお昼休みに部活の部屋に行ったらそんなこと話してるコがいた。おかしいよなぁ」
後輩のクラスの授業も自習になったらしい。譲のその話を聞いて、高耶はため息をついた。
「やっぱ、この間のこと絡みか……」
親友が得たりと肯く。
「高耶には生指も何も言ってきてないんでしょ?それも変だよね。相手があの吉村だっていうのに」
「いい加減おかしいとは思ってたんだ。昨日の朝でも放課後でも、今朝でも、呼び出しくらうはずの機会は三回もあったのに。悉く肩透かしくらった。
―――何かあるんだ、きっと」
高耶は握り締めた手に視線を落として呟くようにそう言った。
そんな相手の姿に、親友が力強く声を掛ける。
「放課後、職員室行ってさりげなく聞きだしてみるよ。もしくは、部活のコたちの噂話から情報収集してみる」
元気付けるように肩を叩かれて、高耶も笑顔を見せた。
「うん。ありがとな。……さすが優等生は先公のウケも違うからな」
語尾の軽口が、彼には珍しいことだった。


「―――高耶!」
放課後になって、珍しく掃除当番を素直にこなしていた高耶は、部室へ急いだ譲の戻ってくる気配と呼び声に振り返った。
階段を掃いていた箒の手を止め、息を切らして走ってきた相手の言葉にこちらも眼差しを真剣にする。

何か予想以上のことが起こっているのだと、そう悟ったのに。
それでも相手の台詞は衝撃的だった。

「直江先生、謹慎処分になってるんだって」

「き、んしん…… !? 」
声がまるで自分のものではないかのようだ。
「何で、直江が処分されたりなんか……っ」

「昨日の朝の職員会議で、直江先生は吉村たちに怪我をさせたのは自分だって、そう言ったんだって。
吉村の親からはやっぱりクレームが入ってて、高耶を退学処分にしろって要求してきてたらしいんだけど、直江先生は怪我させたのは自分だから高耶に落ち度はないって言って、それで」

譲はまくしたてるようにそう告げた。

それを遮る形で、高耶は呟く。
「な、に……それじゃ、まるで―――」
「そう、高耶を庇ったみたい。現国の仲川先生に話聞いたんだけど、別人みたいな顔して後藤をやりこめたらしいよ。みんなが高耶を悪く言うのに物凄く怒ってたみたいだって」

「―――譲!」

話を遮って、高耶が相手の肩を掴んだ。
痛いほどに力の籠められたそこに、真剣な眼差しが加わる。
「……直江の、家!どこだかわかるか?」

わけがわからなかった。
どうしてあの男はオレを庇ったりなんかしたんだろう。
自らの地位を危うくするようなことをわざわざ言うなんて。

オレのことなんか、適当に話合わせて全部着せときゃ済むことなのに。
誰も疑わない。オレが何したって言われても、みんな勝手に納得するだろう。

どうしてそうしなかったんだ、あの男は。

別に罪悪感なんか感じる必要もないのに、オレはそういう奴だってみんな思ってるのに。
どうしてわざわざ本当のことを暴露して自分の立場を犠牲になんかするんだ?
どうして?

要領よく生きればよかったのに。オレのことなんか使い捨てちまえばよかったのに。
どうしてオレなんか庇ったりするんだ?


「―――直江の家行って話つけてくる。住所、教えてくれ……!」

親友の瞳に揺れるもの苦しいような光に、譲は肯く。
差し出された小さな紙片を握り締め、高耶は学校を飛び出した……


02/10/25




next:Drizzly night
back:Bomb shell



ぐるぐる回っている高耶さんでした。ふふふ。(02/09/22)
実はけっこうぐらついていた高耶さん。さて、ちゃんとお礼言えるのでしょうか〜?(02/09/27)
可愛い高耶さんでした。ふふふ。直江さん早くも堕ちた?(02/09/29)
直江さん、かっこいいvv←そういう問題かオイ(02/10/22)
今日もかっこよい直江さんでしたv(しかし謹慎処分……)(02/10/23)
さて、高耶さんが行動開始です!ラストスパート入ります〜(02/10/25)


お読みくださってありがとうございましたvv
ご意見ご感想などいただけたらものすごく励みになります★bbsかメールにて……
泉 都さまに捧げます。

MIDI by TAM's music factory
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