神刻 ・ ・ ・聖夜
もう逢えないものだと思っていた。
死を望んでいた相手のこれからには、東亜戦争最後の大海戦が待っていたのだ。
―――レイテ島沖海戦。
あまりにも有名なこの海戦は、フィリピン近海において二日間の間に四つの海戦が起こったものを総称した呼び方だった。
シブヤン海海戦、エンガノ岬沖海戦、スリガオ海峡海戦、そしてサマール島沖海戦。
東南アジアの資源地帯からの海上輸送路の要として、フィリピンは帝國軍の最後の砦であり、死守されるべきだった。絶対に失うわけにはゆかない場所だったのだ。
そして、海空軍の残存戦力の殆ど全てを投入し、死力を尽くした帝國軍。この戦での帝國軍の作戦の柱は、戦艦部隊が南北二方向からレイテ湾に突入して連合軍を挟撃するというものだった。さらに、それを成功させるために、もう一つの別働隊を組み、これを囮として連合軍機動部隊をひきつけるという筋書きも組み込まれていた。
だが、海戦史上最も優れた作戦と謳われたこの「捷1号作戦」は、レイテ湾に突入して連合軍の輸送船団を撃滅させるはずだった栗田艦隊が誤報に惑わされて北方に反転し、船団をみすみす逃してしまったために失敗に終わり、帝國軍は、沈没:空母4隻・戦艦3隻・巡洋艦7隻・駆逐艦6隻と、空母機約100機喪失という結果を残して敗退した。
こうして帝國軍には完全に後がなくなり、このあと底無しの泥沼にはまりこんでゆくことになる―――。
こんな状況の中では、死ぬつもりのない人間ですら命はないだろう。
まして、死をむしろ渇望していた直江が生き残る確率など、ゼロにも等しい。
―――だから、直江はもう二度とオレの前に現れることはないだろう。
この瞬間にも、直江は望みを果たしたかもしれないのだ。悲しいけれど、もう再会は望めないだろう。
最後にあんな風に気まずく別れたのが残念だった。
オレは本当に直江に感謝してるのに。二年前のあのとき、直江に逢うことがなかったら、オレはおかしくなっていたかもしれない。
お前の胸でみっともないくらい泣いて、誰にも見せられなかった弱みを吐き出して、そうしてその上優しく撫でられた。
救われた。
何もかも一切が、あのときのお前に救われたんだ。
……それを、ちゃんと伝えられなかった。そのことが心残りだった。
この間、最後の最後で言った言葉は、伝わっただろうか。
聞こえていただろうか。
待ってる、と。
何の保証も可能性もないけれど、ただ望みをかけて、待つと。
―――ありがとうだけでは足りない。それでも……生きろなんて、死なないで欲しいなんて言えない。
だから、そんなすべてをこめて、待っていると伝えたのだ。
お前に死ぬなとは言えないから、ただオレは待つと。
……でも。
却って、悪いことを言ってしまっただろうか。待ってるなんて、帰る気のないお前には、言うべき言葉じゃなかったかもしれない。
オレはもやもやした気持ちでそれからを過ごした。
直江は何処で風になっただろうかと海戦場跡のプロットされた地図を広げてみたり、初めて逢った後に集めた太平洋戦争関連の資料をまた引っ張り出して読み直してみたり。
そのたびに暗惨たる気分に陥りながら。
オレは直江と別れて一週間後に、再びあの木の下へ行った。
やっぱり真夜中のこと。オレはあの森へ入って、まっすぐあの桜に似た木を目指した。
一週間のうちに、この木は色を変え始めていた。
もう十月に入っていた。
オレはその、平らな中にときおり節の現れる幹に手をついて、目を閉じた。
今夜ここへ来たのは、例の進路決定の締め切りが明日に迫っていたからだった。
進学か、働くか。
選ぶのが随分難しいと思っていたけれど、選ぶことができるということこそが恵まれた状況なのだと、ここで直江に教えられた。選ぶことのできない、直江の叫びに。
オレは決めていた。
自分の選択権を大事にして、これから自分に何ができるのかを探る。
母さんには負担をかけてしまって申し訳ないけれど、オレは自分の可能性を伸ばしてみたいと決めた。
直江は、初めて逢ったあのとき、オレには未来があるからと言った。だからここで心を駄目にしてそれを台無しにしてしまってはいけないと。 そうだ。
未来を持たなかったお前に恥じないように、それを与えられたオレは生きなくてはならない。
だからオレは探そう。
未来を一番生かす道を。
その決心を確認するために、オレはこの場所へ来ていた。
この間よりも冷たくなった風が、赤みを帯びかかった葉を揺らし、オレを撫でては過ぎる。
オレはじっとそれに身を任せ、静かに佇んでいた。
本当はまた直江が現れないかとどこかで期待していたオレだったけれど、あのときオレたちの間を吹いていった風は、二度とは再び吹かなかった。
―――そうして、二度と直江が現れぬままに二年が過ぎた。
空白の二年間。
あれから本気で受験勉強にかかって、譲にも色々と助けてもらい、何とか県立高校に進学できたオレは、二年に上がっていた。
家の方は、母さんの仕事が思いのほか順調で、覚悟していたほどバイトに時間を割かれることなく過ごすことができていた。
美弥もいつも笑顔でいる。友達が大勢いるし、その上クラブの先輩とつきあい始めたとか何とか言っていて、兄としてはちょっと寂しかったけれど。
もう親父の影は消えていた。
ここにあるのは、修羅場を越えてきたせいで却って普通より仲が良い母子三人の家庭だった。
ごく幸せといっていいだろう。
これ以上何を求めるというのか。そんなのは贅沢すぎる話だ。
けれど―――
オレには何ができるだろうか。
探ろうとしていたそれを、オレはまだ確かに見つけることができていないままだった。
それより何より、
オレは、二年の空白に、耐えられなくなりかかっていた。
―――あの鳶色の瞳に、飢えていた。
もう二度と、と覚悟していたくせに、オレはあれから何度も真夜中に家を抜け出していた。
どこかで再びあの風に出逢うことがあるかもしれない、と思ったのだ。そんなこと、諦めていたはずなのに。
とっくに直江は風になっただろうのに。望んでいたとおり、醜い祖国の姿を見続けることなく。
もう二年も姿を現さない。
だから、きっと何処にもいない。
―――そう、頭のどこかで確かにわかっていたのに、オレは待ち続けた。
二年。
最初の出逢いから二度目のつらい時間までに空いた期間と同じだ。もうこれ以上待っていても望みはないと思う。
思うから、狂いそうに飢えていた。
たった二度、出逢っただけの相手。
それでも永遠にも等しいものを、オレの中に刻んだ、相手。
オレの中、誰よりも深いところにいる。
譲より。
母さんより。
美弥より。
いつも側にいて誰より長い時間を共有している人間たちよりも、たった一人、お前の存在がオレの中では一番深いんだ―――
直江……。
思うたび、思い返すたび、色あせるどころかさらに鮮やかになってゆくあの二度の時間。
誰にも言えなかったものを聞いてくれたお前だから。
誰にも見せなかった涙を流させてくれたお前だから。
渇望する。
逢いたい―――
一言もなくてもいい。ただ、あの瞳を見たい。不思議な優しさと静けさをたたえてオレを見つめたあの鳶色の瞳に、逢いたい―――
「なおえ……っ……」
空を仰いで星に見入るときも、思い出してしまう。
星の旅路を話したときに直江の見せた微笑みを。同じものを感じている瞳を、どれほど嬉しく思ったかを。
『とても素敵な、ことですね』
耳によみがえるあの声。びろうどのように、滑らかで優しい声音―――。
オレの名を呼んだときの響きが好きだった。
酔いしれるほど。
「……待ってるのに、どうして来ない? オレはここにいる。いつも待ってるのに……」
身勝手な、小さな呟きは、十一月の寒空に冴えるようだった。
初めて逢ったときから、もうすぐ四年。
今夜は聖夜まであと一月に迫った、星のこわいくらい綺麗な夜だった。
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