神刻 ・ ・ ・聖夜
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それが現れたとき、学校の裏手にある雑木林にオレはいた。
今度は、ポプラの木の下。
ここへ初めて来たときに一目で気に入ったその木の下へ、オレはよくこうして夜中の散歩に来ていた。
今夜もそうだった。
無性に夜の空気を感じたくなって、オレは歩いてきた。家からここまで、ゆっくり歩いても一時間。
ぐるぐる回る頭を冷やすには、ちょうどいい頃合だった。
ポプラの木に凭れてずるずると座り込んだオレは、いつもするように直江を呼んでみた。
―――変化は起こらなかった。
これもいつものことだ。
それでもやっぱりがっかりして、オレは立てた両膝を抱えるようにして顔を伏せた。
しみるような風が、ときおり髪を撫でてゆくのがわかった。
身動き一つせずにいると、風以外に何も動きがない。
まるでこの世には他に誰もいないようで、というより、自分すら全てに溶けて消えてしまったようで、オレはしばらく冬の空気に一体化してただ静かにうずくまっていた。
―――あの変化が起こるのを感じたのは、その風がやんだからだった。
現実の風に代わって、時空の変化に伴う実体のない風が吹く。空間のゆらいでゆく、波が伝わった。
オレはその不思議にはもう驚かなかった。
直江が来る。
また逢える―――
今度はどんな姿で現れることか、と気になったものの、オレは何もかも忘れてただ嬉しかった。
たとえ前回のように痛い言葉を投げつけられても。環境の違いがどれほど苦しくても。
吐いて直江が楽になるなら、今度はオレが穴になってやる。
だから、構わない。
それを覚悟していたから、相手が頭を下げたのには驚いた。
直江は今度は寝巻姿だった。元は白かったのであろう病人着は、幾度も水をくぐったために褪めたらしかった。頭に巻かれた包帯も同様で、物資が底を尽きかかっていた時代であることが実感された。
このいでたちを見れば、直江は病院にいたらしい。いつの戦いで受けた傷を癒していたものかはわからないけれど。
少し顔がやつれたことを除けば、怪我といっても経過はもう随分良いようで、オレはほっとした。
立ち上がって、相変わらず背の高い相手を見上げる。それでも、最初の頃を思えば身長差は随分縮まったと思う。
今はあの鳶色の瞳がこんなに近い。
「……久しぶり。オレだよ。高耶」
なかなか言葉を発しない直江に、さらに二年経ってまた顔の変わったオレは念のため、そうことわってみた。
見間違えられるようなことはあってほしくなかったけれど、そもそも他にどんな言葉で始めたらいいのかわからなかったから。
けれど直江はオレの顔を見間違えたりはしなかったようだ。
焦点が合うと、すぐに反応した。
手を伸ばしてきたのでまた髪に触れられるのかと思ったのだが、違った。
直江はオレの両肩に手を掛けて、そして低く頭を垂れた。
オレの胸に着かんばかりだ。
「直江……?」
不可解で、オレは疑問をのせて名を呼んだ。
「この間は……すみませんでした」
直江はそのままの姿勢で、低い声を発した。それがなぜ謝罪なのかがわからず、オレにはさらに不可解だった。
「何が?」
「……ひどいことを言いました。私を案じてくれたあなたに、ひどい言葉を投げつけてしまった……。
随分傷つけてしまいましたね。許してほしいとも言えないけれど、謝ります。本当に、ごめんなさい……」
震えるような悲しい声で、直江はそうオレに告げた。頑なに頭を下げたまま。
「な……!
違う!オレが無神経なこと言ったんだ。直江が謝るなんておかしーよ。
顔、上げてくれよ。頼むから……。なあ、直江……!」
オレは驚いて相手を向き直らせようとした。
直江があんな言葉を吐いたのは、オレの台詞が無神経だったからじゃないか。
お前の状況をわかってなかったオレが不用意に同情めいたことを口にしたのがいけなかったんだ。
なのに、どうしてお前がオレに頭を下げてるんだよ――― !?
「頼む!こっちを見てくれ。謝るのはオレの方なんだ……!」
なおも何か言おうとしている相手を、半ば強引に引っぱって、やっとオレは顔を見ることができた。
直江の瞳は、最初のときと同じ色をたたえていた。静かで、優しかった。
覗き込めば滑らかな鳶色した面にオレが映っている。
あのときよりも成長して、少しは意志の強さが見られるようになった顔。
しばらく見つめあったあと、直江が微笑んだ。
「ずいぶん……大きくなりましたね。あれからどのくらい経ったのか……。私の方は一週間です。機ごと海中に落ちたくせに、大した怪我もなく私は母艦に収容されたんですよ。死んでもいいなんて言いながら、生き汚いものだ……」
最後は呟くように暗かった。
オレは何を言ったらいいのかわからず、言葉につまってしまった。しかたなく、どうでもいいようなことを口にのぼらせる。
「―――こっちではまた二年経ったよ。もう逢えないかと思った……」
直江は肯いた。
「そうですか。随分長く、私は謝らずにきたわけですね……。
あれからずっと苦しかった……。俺はあのとき、普通の精神状態ではなかった。戦いの後で気が立っていて、あんなひどい言葉をあなたにぶつけてしまった……。何の罪もないあなたを深く傷つけるに違いない言葉を。俺は後で自分の言ったことを思い出して愕然としました。 それなのに、高耶さん、あなたは……
待っていると。
こんな俺を待っていてくれると、そう言ってくれたんです……
ありがとう。
俺は救われたんです。あなたの、あの言葉に……」
真摯な光をたたえて、直江の瞳がオレを見つめてくる。
オレは首を振った。
「あんな言葉……お前の現実には、何の役にも……」
生きることも死ぬことも、選ぶということの許されない世界。そこに、甘ったれたオレの台詞が、何をすることができよう?
けれど直江の瞳は動かない。
「それでも。俺には、待っていてくれる人などいませんでしたから。だから、自分の命一つ、どうにでもなれ、と刹那的に生きてきました。誰の言葉も俺を動かすことはなく。
けれど、あなたの言葉だけは……。
最初のときに交わした言葉も、この間のことも、あなたの言葉だけは、この中に残っているんです。
たった一人、あなただけがここにいる……」
直江の親指が自らの心臓の上を指した。
「オレ、が……?」
オレはそれきり言葉を忘れた。
信じられない。
直江の心の中に、場所を与えられた?
他の誰にも与えられなかったその場所が、オレには与えられたのか?
―――嬉しい……
何もできなくても、もしもオレの存在が直江の孤独な心に、ほんの僅かでも救いになれたのなら。こんなに嬉しいことはない……
「どうして泣くんです……また何か、傷つけるようなことを、言ってしまいましたか……?」
え?
言われて初めて、視界がぼやけているのに気づいた。
慌てた。
止まる気配もない涙をどうしたらいいかわからずにオレは手をやった。
甲でぬぐおうと思ったのだ。
それを、直江の手がとどめた。
直江は左手でオレの手首をつかまえて、右手を伸ばした。
頬を包む。
相変わらず温度のないその手はやっぱり優しくて、オレはますます涙腺を緩めてしまった。
……何だか、直江の前ではいつも泣いている気がする。子供みたいに甘えてばかりだ。
そして、今度も直江はオレに優しかった。
一杯にたまってあふれている涙をぬぐおうと指でそうっと触れてきた。液体が直江の指を濡らすことはなかったけれど、オレの目にたまっていた分は綺麗にぬぐわれた。
あんまりやさしくて甘くて、余計に涙が出てきた。
「何がそんなに悲しいんですか……?」
直江がゆっくりと問うてくる。
―――ばかやろう。
悲しいなんてあるはずないだろう? お前があんまり優しいから勝手に泣けてくるんだよ。
「何でもねえよ……」
言葉の内容だけは強がってみるが、どうせばれてるんだろうな……。
はたして直江は微笑んだ。
そして、驚いたことに唇を寄せてきた。
―――オレとは違う、締まった感触がまぶたに触れる。
たぶん涙を吸おうというのだろう。それはわかるけど……赤ん坊をあやすみたいに唇で触れられたら、もういいかげんがくがくしかかっていた膝がついに音を上げた。
何もかもがあんまり優しくて、毒になるくらい甘くて、全身から力が抜ける。ずるっと崩れるのを、直江が抱きとめた。
「どうしたんですか……?」
何もわかってない。この男はなんにもわかっていない。
その声が一番の凶器だと、気づいていないんだお前は。
抱きしめられ、びろうどのようなその滑らかな声で囁かれたら、どう感じると思う?
「高耶さん……?」
名前なんか呼ばれたら、もうどうしようもなくなる。
思考が溶けて、真っ白になる。
―――その声で名前を呼ばれるのが好きだよ。
もっと呼んでほしい。
何度でも、何度でも。
好きだよ―――
熱い涙がこぼれる。
とどまることを知らない想いの、ように。
再び、直江の唇が目じりに触れる。吸い取られても吸い取られても、涙はとまらない。
流れてる間だけは、お前に触れられていられるから。
「どうしてそんなに悲しい顔をするの……?」
直江はやがて顔を離して少し距離を取り、じっとオレの瞳を見つめてきた。
「悲しいことなんてない……お前が優しくて、嬉しくて。それだけ……」
嘘だ。
嬉しいと同時に、悲しい。お前はもう、長くない。どんなに好きでももう長くはそばにいられない。
そう……好きなのに。
自覚したと同時につらくなる。
もう、じきに喪われる命を、好きになったと―――。
「嬉し涙だ……」
せめてそう誤魔化そう。言葉にすればそれが本当になりそうで。
直江は騙されなかった。
「嘘ですね。嬉しいなら、どうしてこんなに悲しい色をたたえているんですか……?」
頬を包む指が優しく撫でる。
瞳はまっすぐに見つめたまま。
夢に見た、鳶色の瞳がこんなに近くで見つめてくる……
もう耐えられなかった。
オレは目を閉じた。
そうしておとずれる、唇―――。
オレは唇を塞がれたのを感じた。
温度のない何かに。
指でもない、掌でもない。
ついさっきまで、まぶたに感じていた何か。
しっとりと触れては離れる。ついばむように噛まれては、塞がれる。
キスというより、優しいスキンシップのようだった。
オレはこれでも十分溶けそうになっていたけれど。
いつの間にか止まっていた涙に、直江が離れようとした。
「や……」
オレは無意識に拒否してその首にしがみついた。
驚く相手に、正気にかえる。
慌てて身を引こうとしたが、今度は直江が離してくれなかった。
「ん……」
唇がさっきとは打って変わって深くまで重ねられ、開かれた。
割られた箇所から入り込んでくるのは、舌なのか。
固まっているオレのそれに触れて、あいかわらず優しい動きで絡め取ってゆく。
撫でるように触れていたかと思うと吸われ、歯をたてられる。
オレは完全に膝が砕けた。
そんなオレを、直江の強い腕がしっかと抱きとめる。
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