神刻 ・ ・ ・聖夜
「なお……っ」
息をする僅かな合間に相手を呼ぶが、取り合ってもらえない。
「っ……」
こんな風に奪われ続けたら本当に窒息して死にそうだ。
酸素が足りなくて、頭の奥がしびれて感覚がなくなって、気を失う……。
溺れてしまう。
「あなたが、好きですよ……」
永遠のような貪りの果てにようやく解放された。
酸素が一気に補給されて、オレは激しく呼吸を繰り返す。目には涙さえ浮かんでいた。
やっと息が落ち着いてきたところへ、この台詞だ。
オレは思わず、うるんだままの瞳で相手をギッと睨みつけた。
「好きだなんて言うな !! ……死ぬくせに。いなくなるくせに……っ !! 」
視線で人を殺せるなら、オレは間違いなく直江を殺していただろう。
殺してやりたい。
あんまり憎らしくて殺してやりたい。こんなに好きだから、殺してやりたい。
ひどい男―――
好きだなんて……言うな! 卑怯だ。お前は卑怯だ……っ
もう二度と逢えないくせに。
生きて帰るつもりなんて、ないくせに……
「―――そうですね」
返った肯定の言葉に、オレは叩きのめされた。
直江は目をそらし、ことさらに淡々とした口調で続けた。
「……明後日、レイテ沖で作戦が展開されます。帝國圏の最後の砦ともいうべきフィリピンを守るために、私たちは死力を尽くさなければならない。
私は、航空特別隊に入ります。関大尉配下で……」
その先を、直江はわざと言わなかった。
―――関大尉?
オレは猛烈な勢いで頭の中の戦史を繰り、その名前を探した。
…… !?
やっぱりだ。
それはレイテ沖海戦においてあまりにも名高い敷島隊の指揮官の名前だった。世界史上、最初の特別攻撃を行った隊のことだ。全部で四隊の、最初の神風特別攻撃隊は、本居宣長の歌 「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」 からその名を取り、敷島、大和、朝日、山桜隊と名づけられていた。その第一隊が敷島隊なのだ。
1944年10月25日、サマール島沖海戦において、敷島隊は連合軍スプ艦隊に突入し、見事護衛空母セント・ローを撃沈した。
―――そこに直江が加わるんだって?
命を捨てて敵艦に体当たりする?死をわかっていて突っ込むというのか?狂気の突入を……?
「……嘘だ」
オレは直江の襟首をつかんだ。そのまま力任せにぐらぐら揺さぶる。
「嘘だ……信じない!そんなのオレは信じないからな、絶対っ……!」
信じない……!
「なあ、嘘だって言ってくれよ……頼むから、今のは冗談だって言ってくれ。
また来るって……また逢えるって……な?
……なあっ!」
直江は言わなかった。否定も肯定もなく、ただ揺すぶられるに任せて。
たぶん、それは何を言っても嘘になるから。
直江には、帰る気はないのだ。
だから何も言えやしないんだ……。
オレにはそれがわかった。
「なおえ……っ」
わかって、相手にしがみついた。
それなら帰さない。
みっともないったらないけれど、オレはこのままこの手を離すわけには絶対にゆかなかった。
逢えないだけならいいのだ。どこかに生きていると思えるなら。
でも、このまま帰したらこの男は死ぬ。命を燃やして、あとには何も残らない。それは完全な喪失。
この世のどこにもいない、ということになるのだ。
……耐えられない。
とても耐えられない。
だからこの手を離せない―――。
離したら生きてゆけない。
「……もう行かなければ。鐘が鳴っています。集合がかかっている。もう……行かなければ」
やがて直江が言った。
例の変化が現れ始めていた。
感触が薄れてゆく。確かに触れていた相手が、まるで幻のようにぐにゃりと手ごたえを失ってゆく。
手の届かないところへ離れてゆく……!
「嫌だ!絶対離さない。行かせない……っ」
オレはありったけの力で相手の胸倉をつかんだ。
死んでも離すもんか……!
「……じゃあ約束します」
直江がそう言葉を紡いだ。
「星の綺麗な夜に。また来ます。
降るような星空の下で逢いましょう……」
どこを見ているのか、その瞳はオレを通り越して遠くを見ているようだった。
すらすらと並べる言葉はあまりにも空虚だった。
「空約束なんて欲しくない!今が欲しい……先はいらないから、今だけ側にいてくれ……今……」
「高耶さん、約束しましたよ……。星の夜に、必ず、あなたのところへ行きます。何があっても。どんな手を使っても。
だから、待っていてください……」
「いやだ!」
行かせまいとしがみつく。
死に物狂いでつかんでくるオレの手を何とか離させようともみ合って、直江は、ふいに唇を重ねてきた。
―――噛みつくようなキス……。
「んっ…… !? 」
誤魔化すなと抗うも、相手の動きは正気を保っていられないほど激しくて……。
温度が無いのが嘘のような、リアルな感触。
「―――っ」
嵐のような愛撫にふっと力が抜ける。
その瞬間、直江は無理やりオレの手をふりほどいていた。
―――最後に、何とも言えない微笑みを残して。
そして、空っぽになった腕を呆然と見つめるオレの目の前で、消えた。
残されたのは、最後の瞬間の台詞。
「星の綺麗な夜ですよ……忘れないで―――」
―――――――――・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・―――――――――
次の星降る夜は、六日後のことだった。
まさに降るような綺麗な星空を見つけて、オレは外に出た。直江の言葉に従うなら、今夜は最高の条件が揃っていた。
―――奇しくも、今夜は最初の出逢いからちょうど四年後の日だった。
オレはあの桜に似た優しい木のもとへ佇んだ。
すっかり葉が落ちてどこか寂しげになったこの木に凭れていると、何もかもが夢だったような気に囚われる。
直江が死んでしまうなんて、あれはただの悪夢でしかなかったんじゃないかと。
こうして待っていたら、またいつものように出逢えるのではないかと。
オレはここへ来たけれど、直江が現れる可能性の低さはわかっていた。それでもほんの僅かでいい、期待できるなら、とすがるような想いでここへ来たのだ。その僅かな希だけがこの六日間、オレを支えていた。
六日前、空っぽの腕を見つめてオレはいつまでも立ち尽くした。心は凍りついていた。風に吹かれても、夜が明けても、日に照らされても。
溶けることのない氷の塊が、ここにある。
誰にも溶かすことはできない。たった一つ、お前の声だけが、これを甦らせることができる……
なおえ……
呟いた。
たかやさん ……
ふいに、呼ばれたような気がした。
見れば、空間のゆらぎが始まっていた。
これまでと同じように、闇が歪んで溶けてゆくような感じが見える。
―――けれど。
あの背の高い影が現れることはなかった。
すべてのゆらぎがおさまったとき、その場所には、綺麗にたたまれた空軍正規服と、その上に置かれた鋲を打った制帽があるだけだった。
それが、何を意味するのか。
―――遺品の上に、ぽとりとしずくが落ちた。
「嘘つき」
歪んだ視界。
オレは狂ったように同じ言葉を刻み続けた。
「嘘つき。嘘つき……うそつき…… ! ! 」
こみあげる絶叫。
「あああああっ…… ! !」
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