神刻 ・ ・ ・聖夜



「たかや、さん……?」

オレをその瞳に映して直江が名前を呼んでくれたとき、泣きたくなるくらい嬉しかったのはなぜだろう。
何度でも呼んでほしい、と心の底から欲するのは、なぜだろう。

オレを、呼んでくれ―――
あのびろうどのような滑らかで優しい声で。


「……そうだよ」
一瞬恍惚としてしまったのを誤魔化すように、オレは短く答えた。
直江は驚愕を顔に貼り付けたまま、しばらく硬直していた。
さっきまでの苦悶はどこかへ消えている。苦痛は、意識がこちらにあるときには感じないですむらしい。
再び出逢ったことについてではなく、直江は驚いていたようだった。
「まさか……」
乾いた声で呟いた。
「まさか、高耶さん !?  そんな……まだあれから一週間も経たないのに、どうしてそんなに成長しているんです?
嘘だ……」

ええ?
一週間しか経ってない? オレの方は二年も過ぎたのに。
……いや、驚くことじゃないのかもしれない。
そもそも、同じ時間軸に従って出逢っているとは限らないんだ。はじめっからおかしな空間なんだから。

「―――確かにオレだよ。こっちではあれから二年近く経ってる。……時間の進み方が違うのかな」
肯いて、その話題は終わりにした。
今はもっと肝心なことがあるだろう。直江は悠長に話をしていられるような体じゃない。
オレは相手の上半身を自分に凭せ掛けようと腕をまわした。
「それより大丈夫か、直江? ひどい怪我をしてる……もっとこっちに体重預けていいぞ。力を抜いて」
あのときとは違う。
オレは今ならこの長身の男に凭れかかられても大丈夫だ。
支えられるだけじゃなく、支えることができる。

それがオレには嬉しくて……。

―――けれど、相手はそれを拒んだ。
首を振ってオレの手を離させる。そのやり方があまりにも露骨で、オレはちくりと胸の痛むのを感じた。
拒まれた手のやり場もなく立ち尽くす。
その目の前で、直江は自らの体を抱くようにして、うずくまった。

「なお……っ」
驚いてその肩に手を掛けたが、今度こそ本当に払いのけられた。
―――ずきりと心臓に刺さる何か。
オレは差し伸べた手を拒まれて、自分でも驚くほど傷ついていた。
それでも相手が心配で、声を掛ける。
「なんで……?」
オレの勝手な意志から、拒まれても手を引くことはできなかった。
「無理しないでつかまれよ……そんな体して、
―――死ぬぞ……」
自分で言った言葉にオレは戦慄した。―――死ぬだなんて。
冗談じゃない。言霊ってやつを忘れてる。こんなこと嘘でも口にしちゃいけない。

けれど直江の返答は輪をかけて不吉だった。
「いいえ、構わないで。……こうしていて死ぬというなら、それでいい。むしろ、それがいい。
―――俺は敵機と接触して海に落ちたはずなんです。いっそこのまま死ねればいいのに。おめおめと生き恥晒すこともなく、静かになれるでしょう……」

その言葉は払いのけられた手よりも痛かった。横っ面を張り飛ばされたような気がした。

オレは頭の中が真っ白になった。
血みどろになって荒い息を繰り返す相手の口から出た言葉は、いやが応にも実際の状態とだぶってしまう。
口にしたら最後、そのまま現実になってしまいそうで、オレは奈落の底へ突き落とされるような感覚を味わった。
「……馬鹿野郎っ!」
体は気持ちの影響を強く受けるのに。こんなことを考えてちゃ、ほんとに死んじまう。
「なんてこと、言うんだよ!死ぬなんて。死んだ方がいいだなんて、冗談でも言うな。
―――いやだ……オレはいやだ!
直江、言わないでくれ……頼むから、言わないで!死ぬなんて……ッ」
オレは半分泣きながら訴えていた。

本心だった。
同情したつもりも憐れんだつもりもなかった。
―――だけど、部外者のオレに、ただの傍観者でしかないオレに、直江の気持ちを理解できたはずなんてなかったんだ。

直江の返事は剃刀のようだった。
「何ですって?」
氷の刃で切りつけるような、凄絶な声音がオレを切り裂く。
「―――死んではいけない、ですって? 馬鹿野郎……?」
一旦言葉を切ったのが、決して言い終えたからではなく、むしろこれから全てを叩きつけてくる前触れなのだと―――
オレは裂かれた心のどこかで気づいていた。
そして、
「……ふざけないでください ! !」
果たして直江は激情の堰を切った。
間近に、絶対零度の炎に燃える瞳がある。壮絶な光をたたえて、直江の目はオレの奥深くへえぐるように侵入する。
「あなたに、何がわかるんですか?
すべてを超えた高みから俺を見下ろす、あなたに。選ぶことを許されているあなたに、一体俺の何がわかるというんです?
俺を哀れと思った? 生きるということが当然のものと認められている自分の世界の基準に照らして、俺をはかろうとしたんですか?」

痛かった。
その言葉のいちいちが、痛かった。
オレの浅はかさを糾弾するようでいて、実はこれ以上ないくらいの、独白。

……血を吐くような絶叫が、聞こえた。


返す言葉もなく固まっているオレに、直江は目を逸らして瞑り、くっと唇の端を吊り上げた。
「……お笑いだ」
ひきつったような笑いが、深くなる。
「あんまり可笑しくて、涙が出る……」
乾いた声で、直江は笑い出した。

ただ黙って直江を見ているオレをあざ笑うかのように、そして何より、自らをあざ笑うように……
直江は壊れた笑い声をたて続ける。

今日何があったのか、くわしくは知らない。けれど、たぶん今日が何月何日ごろだったのかは想像がつく。
1944年、10月12〜15日。―――台湾沖航空戦。
凄まじい戦いだったそうだ。12日から始まった台湾への空襲において終日1000余機もの連合国軍機の飛来があったという。航空戦力のすべてを以ってこれに対抗した日本軍側の損失は航空機312機。
当時の主流だった零戦は長大な航続力と高い運動性能、強力な火力を備えていたが、それらを実現させるために防御能力を極限にまで省いていた。
そんな機での空の戦いがどんなものだったか?

直江が精神の均衡を常と同じに保っていられなくなったって、ちっとも不思議なことじゃない。
こんな風に笑いだしたところで、誰が疑問に思うだろう。
―――――――――――――――――――――――――――、 、 、
―――でも、これ以上笑い続けたら、きっとおかしくなってしまう。戻ってこられなくなってしまう。
「……なおえ……」
恐る恐る声をかけようとした瞬間、
直江がカッと目を見開いた。

「……あと一言でも言ったら殺します」
そこにはまぎれもない殺気が、光っている。
「もういい。もうたくさんだ……ッ」

オレは動けなかった。腕を伸ばして抱きしめることも、唇で何かを紡ぐことも。
これが、ぎりぎりのところにいる直江の最後の絶叫かもしれなかった。―――オレに何が言えただろう。
ただ黙ってその血を吐くような叫びを受けるしかなかった。
―――たとえ、それがどれほどオレの心に傷を負わせたとしても。

そうして黙り込んだオレに、直江も疲れたように口を閉じた。
再び逢えて嬉しいと伝えることもなく、オレたちはただ重いばかりの沈黙に時を捧げていた。

―――結局そのまま一言も交わすことなく、二度目の時間は終わりを迎えた。

最初のときと同じように唐突に向こうへ呼ばれてゆく直江は、疲れきったように一言も言わなかった。
オレは何を言えばいいのかもわからないまま、薄れてゆく相手を見ていた。

オレに何が言えるだろう。何を伝えられるだろう。

死ぬなとも生きろとも、言えはしない。
かといって、逢えてよかったとか、あの時はありがとうとか、そんなことはどうでもいい。

一体何を言えばいいだろう?

……

……

―――!

最後の瞬間、オレは無心になって弾かれたように声を上げていた。

「それでも待ってるから……!」


                それでも……待ってる。

 オレは直江に逢いたいから。こっちで待ってる。
              ずっと待っているからな……!

                      聞いてるか直江……なおえ……



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