神刻 ・ ・ ・聖夜



温度のない手が背中を優しく撫でてくる。
「なんだよ……」
驚いていたにもかかわらず、突き飛ばすこともせずにオレはただ小さく抗議したのみだった。
こうしていれば、涙を見られなくてすむから。嗚咽を、漏らさずにすむから。
「子供だからって笑うなよ」
強がってそう言ってみるが、体の動作は素直だった。
温かくもないのに、腕の中は優しくて……生気のない奇妙さも忘れてオレは安らいでいた。
逃れようと抗うこともなく、なされるままに任せていた。
幻の存在は、感触だけが本物だった。

「つらいなら休みなさい。今だけでも、肩の力を抜いてごらんなさい」

そして、声はびろうどのように優しく滑らかで、そこにだけ、確かな温かさがあった。

「この時間が終わればあなたはまた、そこへ帰るんでしょう?なら、今だけでも羽を休めなさい。
我慢することはない。意地も要らない。だって私はほんの一瞬すれちがっただけの相手ですからね……」

―――どうして。
この男は自分の命すら危うい、地獄のような現実を生きているくせに、死に直面しているといってもいいほどの状況にあるくせに。
どうしてこんなに静かなんだ。
どうしてこんなに優しい……

「あんただって、よほどひどい状況なんだろう?それなのに何で、他人を慰めたりなんてできるんだ……」
相手の胸に顔を押しつけたまま、くぐもった声で問う。
直江はオレの背を撫で続けたまま、静かに答えを与えた。
―――哀しいほどに、落ち着いた声で。
「こんな状況だからですよ……。あなたは未来のある人だ。まだまだこれからなんです。
でも、私はもう長くない。―――風になる日も、遠くはない……」

オレの頭の中で、ピシリと思考が凍りついた。

え?

『風』って……まさか。

「神風……?」
思わず呟いていた。

瞬間、男の腕がきつく締まり、オレは息を詰めた。

「『神』なんて、知るもんですか。俺が死ぬとしたら、それは自分のためだ。国のためなんかではない。
まして誰か特定の人間のためなんかであるものか。あってたまるものか……ッ」

初めて、直江の激情が見えた。
静かな湖面の底で燃えていた真っ赤な炎。今、噴き上がって逆巻いている。
「一部上層に踊らされ、自らの身を灯心にして、灰になるまで燃え続ける、そんな亡国の姿なんて、見たくない。
もう何も見たくない。
これ以上の醜いものを見るくらいなら、俺は抜けてやる。自分のために、風になる……!」

自らの意思で、自らのためだけに、命を捨てると。
直江―――

それがぎりぎりの選択なのか。
もう何も見たくない、と。だから何も無くなる場所へ行くのだと。

―――もう少しだけ、我慢すれば、戦争は終わるのに。
オレは知ってる。
直江は1944年に居ると言った。なら、あと一年かそこらで終戦の時が来る。

それまで耐えれば、死ぬ必要なんてなくなるんだ……!

「直江っ……」
オレは夢中で叫んでいた。
教えてやろうとしたのだ。あとたった一年で、解放されるからと。
だから死なないでくれと。

「聞いてくれ、直江!戦争はあとい……」
一年で、と言おうとしたが、果たせなかった。
直江がそれこそ窒息させんばかりの勢いでオレを締めつけたので、声が出せなかったのだ。
オレの頭を顎で押さえて、直江はぎり、と唇を噛んだ。
「……言わないでください!
あなたが知っているのはわかっています。これから私の時代がどうなるのか、未来のあなたなら知っているでしょう。
でも、聞きません。
聞いてもどうしようもないことです。俺は今を厭っているけれど、だからといってこの時間に生きた人間であることを放棄することはできない。
するつもりもない。
俺が今、どんな選択をするかは、俺の領分でなすことなんです。俺だけの意思で。
神にも仏にも、惑わされたりしない。まして、すべてを知っているあなたに憐れまれるわけにはゆきません。
何も、言わないでください……!」

押し殺したように低い声には、殺気すら含まれていた。

自分の時間は自分で生きる、と―――知っている者の高みからの慈悲は受けない、と。
この男の意思は、壮絶なまでに硬いのだ。自分の生き方に他からの干渉は一切受けない、そういう激しい自意識の持ち主なのだ。


―――直江……


「……ごめん……」
オレは小さく謝った。
死なないで欲しい、なんて、オレなんかに言う権利はなかった。
誰が死にたくて生きてると思う?
死に向かうのは、生を選ぶことが、許されないからなんだ。
自分の生死すら選べない現実に居る人間に、オレが何を言うことができる?

―――平和な世界にのうのうと生きてきたオレが、凄絶な現実を生きるこの男に慈悲をたれようなんて、おこがましいにもほどがあるよな。

「ごめん」
謝る以外、何もしようがなかった。
「……いいえ、そんなに気にやまないでください……。こちらこそきついことを言ってしまいましたね。
ほら、泣かないでください……」
直江は涙に歪んだオレの謝罪を聞くと、はっとしたように腕の力を緩めて元の優しい声に戻った。
たぶんさっきの言葉はオレ個人に向けられた怒りじゃなくて、常に直江の中にある、消えないくすぶりだったのだろう。
それをオレにぶつけてしまったことを悔やむように、直江はオレを慰めようとした。

けれど、オレは自分を許せなかった。

自分は、少なくとも生命を脅かされることはなく生きられる。家庭に問題があっても、抵抗できない何か大きな力に意志を捨てさせられるようなことはない。何をしようと、何を言おうと、勝手だ。
それが最低限、今の世の中には保証されている。少なくとも、日本では。
それが当然だと思っていた。

そうじゃない時代の人間に、今はそれが当然なのだと告げたところで、何になる?
余計に絶望させるだけだ。
相手の時代には無いことを思い知らせ、追い詰めるだけだ。
そんなつもりはなくても、相手にとっては傷口に塩を塗りこめられるようなものだろう。

「ごめん……」
相手の服をつかんで顔を伏せたまま三度めの謝罪を口にのぼらせたオレに、直江は、もういいんです、と髪を撫でてきた。
やっぱり温度のないその指だったけれど、髪の間に深く埋められ、地肌を滑ってゆくそれは優しくて、オレは余計に悲しくなった。
直江の方がよほどつらい状況にいるのに。
何もできないのだと思うと、つらくてまた喉にこみあげてくる。

何もできないのか。
何かできないのか。

伝えられることはないか。

「―――直江は、星、好きか?」
ふいに、オレはそう尋ねていた。
相手は突然飛んだ話題に戸惑ったのか、一瞬指を止めたが、すぐにその動きは再開した。
「そうですね。子供のころ、つらくなると、よく夜空を見上げました。満天の星に見入っていると、純粋な光に抱かれてそのときだけは他の事を忘れられましたから」
思い出すように言葉を紡いだ直江に、オレは顔を上げた。驚いていた。
台詞の内容が、今のオレとあまりにも似ていたから。
もの言いたげに見上げたオレに、直江はええと肯いた。
「さっきあなたも同じようなことを言っていましたね。冬の空気が好きだと。ただそれだけで救われるのだ、と、そういう思いなんでしょう?
私もそうだったんですよ」
オレを見ているはずの瞳が、すりぬけてどこか遠くを見ていた。
気配が変わったのを受けて、オレはこれから直江が何かを語ろうとしているのを知った。

「……父親が、違うんです。
私の母親は馬鹿な女でした。いい家に生まれて甘やかされ放題だった世間知らずでね、異人にころりと騙されたんですよ。その男が結婚しようと戯れに言ったのを本気にして、すっかりその気になったんです。猛反対した家を飛び出して、一緒になりました。
……もちろん、結末は想像がつくでしょう? 男は二年と経たないうちに、自国へ帰っていきました。女に残されたのは、薄っぺらい約束と、茶色い髪をした男の子だけだったんです。
それでも女は待ちました。何年も待って、とうとう正気を失うまで男を呼んでいました。―――やがて、実家を継いだ兄が女を引き取り、病院へ入れました。外聞を憚って、彼は私も引き取りました。私はそこで使用人たちの聞こえよがしなひそひそ話から、ようやく色々なことを理解したんです。
母親があんな風だった原因を、知りました。一時の遊び相手にされたことを。……相手の男には、本国に妻も子も有ったそうです。
自分が蔑みの目で見られる理由が、ようやくわかりました。
―――けれど」

淡々と話していた直江が、ふいに言葉を切った。
瞳はもはや静かではなかった。

「俺が母親を馬鹿だと思うのは、騙されたことじゃない。
遊び相手にされていただけなのだと、明らかにわかる状況だったくせに、いつも夢見るような瞳をして男の名を呼んでいたあの女……っ……
事実を認めずに、ただ信じ続けて、とうとう心が壊れるまで信じきった、あの姿こそが……俺には耐えられない……」

直江の母親を捨てた男の、それが最大の罪だったのだろう。そういう女性だと、信じ続ける女性だと、知っていたくせに、裏切られたと認めるよりはむしろ正気を捨ててしまうひとだとわかっていた上で、彼女を捨てた男。
裏切ることそのものよりも、その罪は重い。
―――いや、彼女はそれでも幸せだったかもしれない。彼女の中では、相手に裏切られたという意識はなかったわけだから。
けれど……直江は。
そんな母親の姿を間近に見続けた直江は……!

「直江……っ」
オレは身を乗り出して、なおも何かを呟こうとする直江に腕を投げかけた。
首をしっかりつかまえて胸に抱きしめる。
「もういいから、全部吐き出して、忘れろよ……。
オレが聞いたから。お前の母さんのことは、オレが憶えておくから。誰からも忘れ去られた、わけじゃない。
だから、もうお前がかかえていなくてもいい。一旦忘れて。
オレが、憶えておくから……」

直江はたぶん、忘れることを許せなかったんだろう。
実家の者にはひた隠しにされ、無かった者とされて、誰の記憶からも抹消されてきた哀れな母親のことを、せめて自分だけは憶えていてやらなければ、と―――そういう思いで。

「わかったか……?」

胸に押しつけた直江の頭が、ほんの少し肯いたそのときまで、オレは相手の背を強く抱いていた。




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