神刻 ・ ・ ・聖夜
「何を……話したい?」
二人して大きな銀杏の木の下へ座り込んで、オレたちは空を仰いだ。
すっかり葉の落ちてすかすかになった枝の向こうに綺麗に輝く星を見ながら、オレは敢えて視線をそのままに切り出した。
片膝を立てて腰を下ろし、同じように夜色の天井を見つめていた直江が、いつの間にかオレの横顔に視線を当てているのを、知っていたけれど。
いや、だから、だ。
そちらを向いたら目が合ってしまう。
そうしたら何か困ったことになりそうで、オレはしらんぷりを決め込んで空を見ていたんだ。
―――困ったこと。
たぶんまだ、はっきりとしたものじゃなかった。そのときは。
ただ、オレの心はあのとき、あんまりずたぼろになっていたから、あれ以上直江のあの何もかもわかってくれそうな優しい瞳を見つめていたら、みっともなく泣き出してしまうんじゃないか、と……そう思って目を合わせなかったんだろうと思う。
十三歳のガキだったオレの、それがそのとき最後のやせ我慢だった。
オレの言葉に直江は小さく首を振ったようだった。
「何でも……。何でもいいんです。いい大人のくせに、淋しがってずっと年下のあなたに話しかけている俺を、満たしてください……」
風が吹いていたら聞き取れなかったであろうほど、無声音にすら近い微かな呟きだった。
オレは言葉につまってしまった。
―――何を話せばいいっていうんだ?
平和な時代にのうのうと生きてきた何の苦労も知らないこんな子供が、現に今命を張って戦場にいるこの男に、一体何を話せるだろう。
口を開こうとしないオレに、直江はやがてこう問うた。
「では、あなたのことを聞いてもいいですか?」
「いいぜ。……あんたのことも話してくれよ。後でいいから。
それで、何が聞きたいって?」
オレは沈黙が破られて息をついた。
「そうですね。あなたは今、お幾つですか。……私は春を迎えられたら三十になるところです」
不吉な言い方が、相手の心の根底に恒常的にあるのだろう覚悟を物語っていた。しかもそれは至って自然に流れ出したのだ。
こんな覚悟が―――普通なのか。
直江は、そんな時間を生きているのか。
「十三……」
寒々とした刹那感に影響されたか、オレは言葉少なになった。
「あぁ、まだそんな歳でしたか。あなたは私の知る子供たちより大人びて見えましたが、十三ならまだ動員には達しませんね。
でも、その方がいい。出征なんて、馬鹿らしいだけです」
ごく淡々と、紡がれた言葉。
オレにはその響きが意外だった。
これまで習ってきた限りでは、戦時下の日本は戦争万歳主義一色だったはずだ。もちろん反戦派だって存在していただろうが、一般的に皆一丸となって戦争にかかっているものだとばかり思っていた。
「そんなこと言うと、非国民、とか言われんじゃねーの? 日本は無敵の『神の国』なんだろ」
思ったままに問うてみると、男は皮肉げな笑みを刻んで小さく首を振った。
「そんなことね……今じゃ誰も思ってませんよ。日本が勝ちに見放されて随分久しい。もう二年以上も前に、神の国なんて虚幻の甘い夢は潰えたんです。今は……ただ意地で残っているだけなんだ。
何もかも無くなって地に這いつくばっているくせに、その上まだ身食いしてまで虚言にしがみつこうとする、そんな異様な執念だけで、何とか立っているんですよ」
あぁ、そうか。
この男は自分のことを話せなかったのだ。
自分が身をおいている戦争について、その無意味さを悟っていながら、それを誰にも言うことができないのだ。
当然だろう。
その当時こんなことを思っていたら、まして口に出していたりしたら、大変だ。
―――けれど、今なら。
オレには、話してもいいんだ。
つらいものを溜めないで、オレに吐露していいんだぜ、直江……。
オレが、吐き出させてやるよ。
「あんたはいつからそう思っていた?」
そう尋ねると、直江は一瞬顔をこわばらせた。
核心をついたようだ。
直江はどう返したものかと固まっていたが、相手が夢の中の存在だと思えば肩の力も抜けたらしい。
肯いて、素直に口を開いた。
「実を言うと、最初から。私はこうして軍に在籍していますが、本意ではなかった。状況が許せば、入隊なんてしませんでしたよ。
けれどねぇ、醤油を一升飲み干して病人扱いを狙うなんて問題外でしたから、とりあえず入ることは入ったんです。
だから、積極的に働いたことなんて一度もない。無能扱いされない程度に手を抜いていました。
―――今となっては、もう少し真面目に出世を狙うべきだったような気もしますがね……」
前の方を見たままどこか突き放したように淡々と告白する直江は、最後に意味深な呟きを見せた。それが引っかかって、
「どういうことだ……?」
オレは尋ねてみた。
直江は目だけこちらを向いたが、すぐにまた元に戻して、首を振った。
「いえ、どうでもいいことです。……それよりも、あなたのことを聞かせてください。高耶さん」
聞かれたくないことだったのか。
話を逸らした直江に、オレは髪を引かれつつも、従うことにした。
そういえば相手にばかり質問して、自分のことを全然話していない。
―――でも、話したいことなんて……話せることなんて、あるだろうか。
オレのつらさと直江のつらさは次元が違う。片や、戦地に赴いて地獄絵図を目の当たりにしている男。引き換え、こちらは高だか両親の諍いに耐えられなくなった程度の話だ。
そんなこと、話せるか?たった今、実際に命を張っているこの男に? オレの事情なんてお笑い種じゃないか。
「……」
オレは口を開きかかったまま、沈黙した。
そんなオレに、直江は初めて上半身ごとこちらを向いた。やわらかな声で問うてくる。
「どうして黙っているんですか……?
話したい。
あなたの話を聞きたいんです。何でもいい、話して」
「……だって」
その優しい響きに誘われるようにして、オレの喉から小さな声が引き出された。
「だって?」
見上げて瞳を覗き込むと、オレは再び言葉を忘れてしまった。
鳶色の瞳は、哀しいまでに澄んでいて。それは全てを諦めた人間にしか見られないような澄み方だった。
生き物の根本であるはずの生存欲をすら、捨てた目だった。
すべての執着を忘れた者であるがゆえの、純粋な瞳だった。
―――何も、言えるわけがない……
そんなオレの曇った額をどう見たか、直江は再び優しい声で口説いてきた。
「何か、話したいことがあるでしょう?周りの人には話せなくても、私のような行きずりの人間になら話せるようなこと。いえ、むしろ私にしか話せないようなこと。
私を穴だと思って話してごらんなさい。何も心配は要らないんだから」
「穴……?」
オレは思わず笑い出した。
真面目な顔をしてこんなことを言い出した男の、常のクールさとたった今の言葉のギャップが激しすぎて、オレは笑いを止められなかった。
オレは久しぶりに、素直に心から笑っていた。
直江は笑われて些か憮然とした顔になっていたが、オレの方は気持ちがほぐされて、重かった口をようやく開けることができるようになった。
「―――じゃ、愚痴聞いてやってくれ」
「オレの家……父親の会社が倒産寸前に陥ってて、すごく荒れてるんだ。
親父は酒浸りになって、ぐでんぐでんになって帰ってきては、母さんを殴ってる。オレや美弥―――妹も、よく殴られるよ。
妹はまだ小学生なのに。家がこんなになる前は、家族で一番大事にされて可愛がられてきたのに、可哀そうに今じゃ一番の被害者は美弥なんだ。
家はいつも氷のように冷たくて……オレは美弥と二人、縮こまって震えているしかできない。
今日もそうだったんだ。夜中に帰ってきた親父が母さんを殴って、そこから罵りあいになった。耳を塞ぎたくなるような怒鳴り声の応酬に、美弥が目を覚ましてしまって……オレは何とか聞かせまいとしたけれど、どうだろうな。美弥はオレの気持ちがわかってたのか、素直に、聞こえないふりをしてくれたよ。
本当に寝付いたのかしばらく様子を見て、それからオレは外へ出てきたんだ。
別に、家出するつもりだったわけじゃない。
ただ、外の空気を吸いたかった。澱んで腐った家の中には、いたくなかった。
冬の空気が好きだよ。
冴えるように冷たくて、背筋がきりっとする。何も不純物を含まないようで、綺麗だ。
汚いものに触れた後は、冬の夜の空気に抱かれたくなる。
それで、出てきた。―――ただそれだけ」
親の喧嘩に耐え切れなくなって飛び出してきたなんて、口に出してみれば、何て呆気ない悩み事なんだろう。
―――と、思った。
けれど、口に出したことでそのつらさが一気に戻ってきて……オレは自分の涙腺が切れてしまったのを、自覚していた。
―――馬鹿だな、この程度のことで。
―――でも、つらい。
オレは自嘲からと、涙を隠すために、俯いた。
直江は呆れただろうな。
こんなの、お前にくらべたら、ガキの戯言でしかないもんな―――
……けれど……
ふわ、と相手が動いた。
抱きしめられたのだと理解するまで、数秒かかった。
「おい…… !? 」
温度のない腕の中、相手の鼓動だけが、やけにリアルだった。
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