神刻 ・ ・ ・聖夜
「何を聞きたい?」
「ここは一体、何処なんですか。……いえ、神社の中らしいということはわかります。だから、ここが国内なのは確かでしょう。けれど、帝都なのかそれともどこか別の場所なのか……。見るかぎり、あなたの服装は私にはあまりにも馴染みのないものなんです。一体どこの衣装なんですか。
―――ここは、私の知る場所ではないんですか……?」
男は困った顔でまだ何か呟いていたが、オレは聞き捨てならない単語に全ての意識を攫われていて、殆ど耳には入っていなかった。
「帝都 !? 」
無意識のうちに叫んでいた。素っ頓狂な声が、静かな闇にひどく滑稽に響いた。
―――帝都。
それは確か、昔の東京の呼び方じゃなかったか。それも、戦前の……。
オレのその反応にますます眉間の皺を深くした男が、心配そうに尋ねてくる。
「やっぱり、違うようですね。教えてください―――ここは何処なんですか」
どこ、というより、いつ、というべきだろう。―――――――――――――、 、
この男は明らかに自分とは違う時間を生きている―――もしくは、生きていた―――のだ。
おそらくは、昭和。それも戦時下の東京に……帝都に、居たらしい。
オレは一つため息をついて、口を開いた。
「……よく聞いてくれよ?―――あんたは今、西暦何年だと思ってる?」
とりあえず現在の時を知らせてやろう。
「……西暦?」
よほど使い慣れない単語らしい。決して学識のない人間ではないと思われるこの男ですら、しばらく頭の中を探すほどに。
―――そういえば戦後からだったんだっけ。西暦がここまで普及したのは。
「今は元号も西暦も、同じくらいポピュラーなんだよ」
でもあんたの時代はそうじゃなかったんだな。
「ポピュラー?」
「えっと……普通、いや、そうだ、一般的ってことだよ」
横文字なんか使ったら、却って混乱させてしまったらしい。こちらは使い慣れた言葉なだけに、和語に直そうと思ってもうまいあて方が思いつかなくて困ってしまった。相手の方は敢えて考えないことにしたようで、
「西暦、というと……千九百と……四十四年ですね」
とオレの質問に答えを返した。
「―――やっぱりな」
オレの呟きに、
「一体、何のことなんです?」
男は真剣な表情で畳み掛けてくる。
「今年は、西暦1992年なんだ。平成四年。もし昭和でいうとしたら、67年だ」
西暦下二桁マイナス25で昭和、と頭の中で計算して答えを返す。どんな風に告げても相手が驚愕することはわかっていたから、敢えてストレートに言った。
はたして、
「はっ !? 」
相手の瞳孔がすうっと小さくなった。
この男なら大抵のことには―――たぶん、例えいきなり目の前に銃を突きつけられたとしても―――動じそうになかったけれど、どうやらオレの言葉はその鉄面を打ち砕いたらしい。
普通の人間なら、そもそもこの言葉の内容自体を本気にせず、すぐに元の顔に戻って笑い飛ばしたところだろうが、この男はオレの話を事実だと認識したようだった。そして、それがゆえに、驚愕していた。
「―――なるほど。とりあえず、今ここは西暦1992年だと、そういうことなんですね」
やがて男は、自分に言い聞かせるように呟いた。事の異常さは脇に置いておいて、とりあえず事実を事実と認めよう、というようだ。
オレはそこで、気になっていたことを尋ねることにした。
「なあ」
呼ぶと、一瞬の間の後に相手は反応を返した。耳から入った音が脳みそで処理されるまでに時間がかかるのは、オレにも経験がある。
この状況ならちっともおかしなことじゃなかった。
「何でしょう」
鳶色の瞳がこちらを見る。オレはもう一歩側へ寄って問うた。
「あのさ、あんた生身なのか?もしそうじゃないっていうんなら、単なる夢か何かってことでカタがつくんだけど。ほら、よく言うじゃん、生霊とか。……って、時代違うけどな。まいいや。
で、どうなんだ?」
瞳の奥に見入られ、なんだか落ち着かなくてオレはわけもなく饒舌になっていた。
「あぁ、そうですね」
相手が肯いてこちらへ少し屈むようにしたとき、どくんと心臓が跳ねた。
あまりにも近くに、鳶色の瞳がある―――。澄んで優しく……。
考えてみたら、こんなに近くで他人の目を見つめることなんて初めてだ。
それを自覚したら、無意識にオレは体を退いた。
「―――と。どうかしましたか」
その素早さに面食らった様子で男が問いかけてくる。はっと息を詰めるのが確かに見て取れた。
……あれ?
ふと、オレは違和感を覚えた。
こんなに近くにいるのに、どうして相手の体温が感じられないんだ?
確かに呼吸しているように見えるのに、何でその息づかいがわからないんだ。
―――やっぱり幻なのか。
でも、姿はあまりにも生き生きとした色を帯びて、とても虚像とは思えない。
そんなことを惑っていると、ふいに相手が手を伸ばした。
「っ?」
頬に触れたそれには、確かに質量があった。肌も肉も、確かな感触を与えてきた。
―――だが。
「何だ、これ……」
そこには温度がなかった。
―――死人のような冷たい手だとか、そういうことじゃない。
けれど、明らかに生身の人間ではない、温度の無さだった。冷たくもなく、温かくもなく。ただ何の温度もないのだ。
「へ……ヘンな感じ……」
感触は確かに本物なのに、全く生気がない。何ともいえず、奇妙な感じだった。
オレの呟きに呼応するように、相手も言った。
「あなたには体温がない……私もたぶんそうなんですね」
同じ違和感を味わっているのだろう。その掌が、オレの頬を、確かめるように触れてくる。
それは動きこそ包み込むように優しかったけれど、温度の無さが無機質に過ぎた。
ヘン―――なのに、なぜだか――― ……
くらくらする。意識が甘く痺れて、溶けそうだ……
って、オレは一体何を考えてるんだ――― !?
ただひたすら奇妙なその感覚に、なぜか溺れるような幻覚をおぼえて、オレは相手の手をゆっくりと自分の頬から外した。
そうしながら、少しだけ笑ってみる。
「……ま、何にしても、生身とはいえそうにないよな。なら、たぶん気にしなくてもいいんじゃねーの?
あんた、寝てたって言ったよな。だったら目が覚めたら元んとこに戻ってるよ、きっと。―――これは夢だと思おうぜ」
そういうことにしておこう。
それならいい。
「まぁ、そうかもしれませんね。―――夢であれ何であれ……未来に、来られたと思えば、面白い経験になりそうです」
『未来』という単語を舌にのせるときに、その瞳が遠くなった。
―――そうか。この男には『未来』なんて、ないのかもしれないんだ。
昭和19年―――それは、日本に未来という単語の無かった頃。
この男が生きている時間は、そんなときなのだ。
「―――お名前を、伺ってもいいですか」
しんみりと黙りこんでしまったオレに、ふいに相手がそんなことを問うてきた。
「私は直江信綱といいます。直江、と呼んでください」
オレが反応できずにいると、男―――直江は先に告げた。
純日本人的な容貌を持っているとは言えないこの相手が、あまりにも重厚な日本名を名乗ったので、オレは少しおやと思った。
「直江、信綱?」
「ええ。―――この髪が気になりますか」
名を舌の上で転がすと、直江は肯いてから少し間を空けて問うてきた。指で梳くように触れたその髪はこわい漆黒ではなく、茶色がかった柔らかそうな細毛だった。当時の日本ではこんな髪は珍しかっただろう。
「ん……あんまり日本人らしくないよな。顔とかも」
頬骨の高さといい、秀でた額といい、平均的な日本人の骨格とはどこか違っている。
オレが首を傾げてみせると、直江はふっと唇を引いた。
一瞬、背筋がひやりとした。
オレを映していない瞳はさっきまでと同じ人間だとは思えないくらい、変貌していた。
「ええ、その通りですよ……。私は異端なんです。異人にのぼせた馬鹿な女のせいでね……」
剃刀で切りつけるような、冷たい声だった。
それはオレへ向けられた刃ではなくて、たぶん自分自身へ切りつけるような―――。
「……」
かける言葉を見つけられずに固まってしまったオレに、直江はひょいと焦点を戻した。
そこには既にさっきの凍れる炎はない。元通りの静かな湖面が広がっているだけだ。
「それで、あなたのお名前は?」
何も無かったように、話を元に戻す。それはまるで質問を拒否しているようで、オレはとうとうどんな言葉も、かけるのを諦めるしかなかった。
相手の意を受けて、答える。
「……あぁ、オレはお……、高耶だ」
何気なしに姓名を告げようとして、オレは嫌なことを思い出した。
「―――名字はいいよな、別に」
思い出したくない家のことを意識に浮かべそうになって、オレはぎゅっと強く瞬きをした。
そんなオレの様子をどう取ったのか、相手は追求することなく、
「では、高耶さん。何か……お話をしましょう」
と、口調をやわらかなものに変えて微笑んだ。
「話?」
一体自分たちは何をしているのだろう、と内心で首を傾げつつ、オレはおうむ返しに呟いた。
―――いきなり目の前に降って湧いたように現れた相手と、のんびりお話だって?
かなりおかしな気がしてしょうがなかったのだが、相手の次の言葉に、オレははっとなった。
「ええ。今この時が夢であれ何であれ、せっかくこうして出逢えたんです。―――短い間でもいい、話をしましょう」
微笑みながらも、その瞳の向こうは、ざわめいて……。
ほんの少しだけれど、声も湿り気を帯びている。
泥沼の戦の只中にある直江の、心の中にある絶望的な孤独と、ぱくりと限りない暗黒に口を開けて待ち構えている不安が見えるようで、オレはゆっくりと瞬いてつまらない戸惑いを無理やり心の隅に追いやった。
「そうだな……」
話し相手を……何の後腐れもない行きずりの話し相手を欲しがっているのは、今のオレも同じだった。
―――ほんの少し、短い間の安らぎを求めたって、……
―――――――――――――――構わないじゃないか―――
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