神刻 ・ ・ ・聖夜
誰も、いるはずはなかった。
けれど……
―――木の下に。
――――――――――――――――――― 、 、
ふと目をやった、大きな銀杏の木の下に……それは現れた。
まるでそこだけ空間が歪んだよう。
ゆっくりと、闇から溶け出すようにして、人の姿が現れはじめる。
―――オレはすくんだまま、一ミリも動けずにいた。
おぼろげな輪郭が現れる。
背の高い、男性のようだった。
次いで、それが質量を伴い始める。
段々と、顔や手指などの肌が、生き生きとした色を帯びてゆく。
彫りの深い、端正な顔立ち。
切れ長の瞳が、今はこちらを見て、驚いたように開かれている。
片側だけ上げられた眉は綺麗な弓形、そして、すっと通った鼻筋。
―――綺麗、だった。……そう思った。
とは言っても、決してひ弱な感じの顔ではなくて。
程よく陽に灼けた肌をして、すっきりと締まった顎のラインが、見惚れるようだった。
男の魅力、なんて言ったらおかしいかもしれないけれど、同じ男のオレから見ても、ため息の出るほどだ。
最後に、髪が風に吹かれてゆっくりとなびいた。……それが元に戻ったとき、
―――そこには、軍服に身を包んだ背の高い男が立っていた。
月明かりの木蔭に、不思議に光を帯びて、その男はいた。
オレは固まっていた。というより、魅入られたようにぼおっと立ち尽くしていた。
相手が生身でないと、わかっていたから。夢か幻か、いずれにしても一瞬の幻覚だと解釈していたのだ。
―――だから、相手が自分を認めて言葉を掛けてきたときには、心臓が止まるかと思った。
『こんなところで、どうしたんですか―――?』
けれど、その驚愕にもかかわらず、オレがその時返した言葉は、普段と何ら変わらぬ、憎まれ口だった。
「それはこっちの台詞だよ」
―――と。
会話することには、不思議と恐怖は覚えていなかった。むしろ相手が言葉を掛けてきたことで、却って腹が据わったのかもしれなかった。
そこでオレは、普段からそうであるように、相手を睨みつけるようにしながら、ひねた返答を返したのだ。
―――本来ならこんな妙な現象は気の迷いと決め付けてさっさと立ち去ったはずだった。
けれどそのときのオレはむしろ、全く何の後腐れもなさそうなこの相手と、何か言葉を交わしたかったのかもしれない。
相手はこの世のものではなかった。明らかに。
これが自分の夢の出来事であるのか、それともユーレイとかいう類のものなのかはどうあれ、近所の大人でないことは確かだった。
今夜こうしてここにいるにしても、そのひとときが過ぎれば二度と再び現れるものではないだろう。
好都合だった。
オレはひねた子供だったから、他人と言葉を交わすことは殆どなかった。けれど、この相手なら、全く何の係わりも無い人間だから話をするくらい構わないだろう。
オレはそんなことを思ったのかもしれない。
知り合いと言葉を交わそうというほど、オレは可愛げのある子供じゃなかった。同情であれ好奇心であれ、自分にかかわってくれるな、と全身に棘を立てて他人を拒んできた。
―――けれど、この男なら全く過去も未来も係わらない相手だ。
家から飛び出して星を眺めていた、今夜のような日に、少し誰かと話したいと思ったところで、そうおかしいことではなかったろう。
男はオレの、ひねくれただけで何の答えも与えていない返答に、少し眉を寄せた。
「―――困りましたねぇ。どうして私はこんなところにいるんでしょうか。兵舎で仮眠に入ったことまでしか記憶にはないんですが……」
本当に困っているのか疑問に思えるような響きのするその呟きだったが、眉間に皺を寄せて腕を組む様子が、真剣なのだと気づかせた。
―――ユーレイにしては、いやに人間くさい仕草だった。
そして、驚いたことに、相手は腕を解くと、歩き始めた。他に誰もいないから仕方がないのだろうが、……オレに向かって。
そう、よく見れば相手にはちゃんと足があった。軍靴というのだろうか、堅そうなブーツに包まれた足で、ザクリザクリと音をたてながら。
(―――音?)
ユーレイに足音なんてあるのか?実体がないのに、地面を踏む音なんてたてられるのか。
オレはぎくりとした。
もしこの相手が生身の人間なら―――いきなり空中から溶け出てきたようなあの現れ方をとりあえず心の隅に追いやってやれば、だが―――側に近寄られるってどういうことだ?
服装を見るかぎり、この男は軍人らしい。服も靴も随分年季が入っているところから考えれば、経験も浅くはなさそうだった。
自衛隊関係者なのか。それとももっとどこか別の機関に属しているのか。
……何にせよ、側へ寄られてありがたい相手じゃない。
そこまで考えてオレは無意識にあとずさった。恐がったつもりはなかったけれど、オレのその動きに、男は足を停めた。
「……すみません。驚かせるつもりではなかったんです。
ただ、どうしてもわからなくて。
―――私は戦場にいます。もしかしたら眠っている間に敵襲を受けて、既に死んだのかと……死んで、ここに魂だけ居るのではないかと、そう思ったら、どうしても誰か他の人間に触れてみたくなったんです。
私は一体、生身なんですか。それとも、もうどこにも存在しないんでしょうか……」
オレに問うているというよりは、むしろ自問するように、そう呟く。
この男が現実の存在だとするなら、確かにとんでもない状況だ。
オレからしてみれば、忽然と空中から溶け出してきた得体の知れない男ということになるし、男の方も、突然こんなところに自分が来てしまっていたことに混乱するだろう。まさに今目の前でそうしているように。
―――いつの間にか、オレはなぜだか自分から相手に向かって足を踏み出していた。
相手が自分の見ている幻の存在だとしても、構わなかった。
都合のいい話相手が欲しくて勝手に頭の中で作り出した虚像でも、よかった。
オレはとにかくこの男を確かに存在するものとしてとらえ、言葉を交わそうという気になっていた。
「……なぁ」
あと一歩というところまで側へ来て、オレはそこで足を停めた。
見上げればやはり、随分背が高い。
ここまで綺麗な体格の持ち主はざらにはいないだろう、と頭のどこかでぼんやりと思った。
オレの視線を受けて、静かな鳶色の瞳がこちらを見下ろしている。
それは鏡のような湖面を見るようで、軍人というものに抱いていた猛々しいイメージや荒々しさは、そこにはなかった。
目が合って暫くの間の後、
「―――伺ってもいいでしょうか」
やはり静かに男は切り出した。
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