神刻 ・ ・ ・聖夜
―――この世のものならぬ者に出逢った。 それは不思議な空間。 おそらくは神の領域だった、あの時間。 それは、神刻―――
それが現れるのは、きまって真夜中のことだった。
場所は、木の下。
それはその時々によって違う木で、特定ではなかったけれど、見ればすぐに感じられた。
―――あれの現れる場所だ、と。
何故だか、わかるのだった。自分には。
初めてそれを目にしたのは、中学校一年のとき。
つまづき始めていた父親の会社のことで、毎夜のように口論が交わされていたころだった。
自分は無力で、何もできなかった。
目を瞑り、耳を塞いで、現実から逃れようと足掻く。
おびえる妹をただ抱きしめて、父母の罵りあう声を聞かせまいと盾になる。
そのほかには、何もするすべを持たなかった。
―――あの夜もそうして妹が寝付くまで側にいたのだった。
ようやく現実から旅立ったらしい妹の、そうしているときだけは安らかな寝顔をしばらく眺めていたオレは、完全に規則正しくなった寝息を確かめると、途切れる気配すらみられない父母の声から逃げるようにして、部屋の掃き出し窓からふらふらと外へ出て行った。
寒い夜だった。
十二月の頭で街中はすっかりクリスマス一色だったけれど、それはあのときのオレには縁遠いものだったから、街へは向かなかった。
どちらへともなく歩いていたら、神社に行きついた。
空には月が出ていて、明かりはなくとも、不思議と怖くはなかった。
寒い……夜だった。
頬を、凍みるような冷気が包む。
次いで、ゆっくりと服を貫通して体の芯にまでそれが伝わり、上着を着けずにいる夜の外出がこんなに寒いものだということを、初めて知った。
思わずぶるっと首を縮めたが、だからといって家へ戻る気にはならなかった。
もちろん、家出するつもりで出てきたというわけではなかったけれど、今すぐにうちへ帰ろうとは、思えなかった。
……『うち』なんて、もう無いのかもしれない。
そんな言葉で表せる家は、家族は、もうどこにも無かったかも、しれなかった。
「どうしてこうなったんだろ……」
呟いた自分の声すら、静かな夜には大きく響きすぎて、オレ自身を驚かせた。
はっと現実を思い出して辺りを見回してみる。
―――いつの間にか、自分の前には神社の入り口が姿を現していた。
いつだったっけ、父さんや母さんと手をつないでここへ初詣に来たな……
ふと、なぜだか遠い昔のことのように思える記憶が甦る。
小さかった美弥と二人、並んでお賽銭を投げたこと。
おみくじで凶を引いて散々落ち込み、もういっぺん引いておいでと母さんに頭を撫でられたこと。
混雑した社で大人たちにもまれそうになって、父さんに肩車してもらったこと―――
「……」
ふるふると首を振って、その、優しいがゆえに今のオレには苦痛にしかならない記憶を、心の底に再び沈める。
しくりしくりと胸が痛んだ。
優しすぎる記憶は、却って毒だった。
じり
オレは石段を踏んで社へ上っていった。
ひとけのない、夜の神社は空気が違う。
しん、と静まり返ったそこで足を停めると、何もかもが消えて、ただ静けさと夜の匂いだけが残るような感覚に包まれた。
全てが溶け出す。
頭の中で渦を巻いていた様々な感情が、いっとき身を潜めて、一切が夜に溶けた。
空を仰いでみた。
びろうどの闇に瞬く美しい煌き。
夜色のドームに、光る点が吸い込まれて……。
―――そう、吸い込まれてゆくようだった。
あんな風に煌めいていても、人工の光のようにけばけばしくは決してならない。
それはあの夜色の闇が光を吸うからなのかもしれない。適度に余光を収めてしまうからこそ、星の光は純粋な輝きを保っているのだろう。
あの光を目にすると、形容できない何かが、本能的に『綺麗だ』と思わせる。
理屈ではない。述べろと言われても不可能だ。
けれど、こんな空を見上げれば、ひとりでに唇が言葉を刻むのだ。
綺麗だ、と。
どんなに無感動な気分でいても、その重い心の底で、何かが勝手に動くのだ。
―――たった今の、オレのように……。
あの光を見上げていると、自分の苦しみがあまりにも小さなものに思えてきて、少しだけ、気が楽になる。
もちろん星は何かを思ってオレを照らしてくれているわけじゃあない。
星は語らない。ただ、輝いているだけ。
―――それでも、オレはあの光に、あの夜色の闇と瞬く煌きのコントラストに、いつも救われていた。
あの星たちは、とても遠くにいるのだという。
地球から何十光年、何百光年という距離の向こうに、そう、時の彼方といってもいいほどの場所にいて、そして輝いているのだという。
ここに届いた光は本当はずっと昔に輝き出されたものなのだ。
数十年、数百年という時を越えて、こうしてここに届くのだという。
―――それを知ったときは不思議な気分になった。
今ここでオレが見ている煌きは、もしかしたらもう存在しない星のものなのかもしれないのだ。
こうして確かに見えているのに、源は既に時を迎えて眠りについているかもしれないのだ。
あの光はそれほどにも長い旅をしてきたのだった。
星は無くなっても、その放出した光は長い時を経て、こうして届く。
いつか必ず、どこかへ届く。
ああ、と思った。
自分の何と重なる部分があるのかはわからないけれど、あの光の旅路を思うたび、オレは少し救われるようになった。
自分の無力さに歯噛みすることを、いっとき忘れていられた。
……無力。
自分はまだ子供だった。
もちろん幼児ではないのだから分別くらいはあるけれど、それでも、一人で生きてゆけるような年齢ではない。
まして、妹を連れて二人だけで生きてゆかれるはずもなかった。
―――オレはあの頃、自分の無力が地団太を踏むほど悔しかった。
氷室よりも始末の悪いあの家を出て、たった一人の妹を自分の力で守って生きてゆきたかった。
オレが守りたかった。オレだけの力で守ってやりたかった。
あんな親がいなきゃ生きてゆけないなんて、耐えられなかった。
そんなこと決して認めたくなかった。
それでも、オレは子供だった。
どんなに親を切り離そうと思っても、叶うはずもなかった。
子供は親のものだ。
子供のものは全て親から与えられたものだった。
それは身につけるもの、口にするもののような金銭的なものだけにはとどまらない。
存在の根本、命すら、自らのみのものではない。
今の自分を構成するもの、生かしているもの、その全てが親に染められている。
何一つ、オレだけのものであるものはない。
―――心は、魂だけはお前自身のものだろう?と誰かが言う。
―――否。オレは首を振る。
それすら、保証されてはいないのだ。
心、つまり思想すら、結局は育ってきた環境に依るのだから、当然のこと、親の思想に染められている。
多かれ少なかれ、必ず染められている。
決してオレだけのものじゃない。
フリーなんかじゃないんだ。
どんなに切り離して考えようとしても、オレの全てには親の影が染み付いている。
得られた結末は、オレには耐えられないものだった。
少なくとも、あのときのオレには。
そんな嵐を抱えて、オレは夜色のドームを見上げていた。
煌きに魅入られる間だけは、少しだけ楽になれたから。
随分長く、そうしていた。
やがて、吹きつけた刃のような風に、オレはようやく現実を思い出した。
このままいてもいいけれど、いや、このままいたいけれど、もう体が凍りつきそうだ。
そろそろ、戻ろう。
オレは凍死したって構いやしないけれど、美弥を独りにはできない。
あんな家に独り残しておくわけにはいかない。
だから、帰るしかない。
―――あそこはもう、『帰る』場所でなんか、ないけれど。
オレはゆるゆると首を戻した。
あまりにも長く上を向いていたせいで、戻そうとした途端にひどい痛みが襲ってきたけれど、顔を顰めながら無理やり戻した。
そのとき、
「―――?」
ふと、変な感じがした。
オレは辺りを見回してみた。
何か、自分とは別のものの気配がしたようだったのだ。
―――そんなこと、あるはずがないのに。
今の今までオレは静寂の中に立っていたのだ。
その間、かさりとすら、音などしなかった。
石段を登ってくる、誰の足音も、聞こえはしなかった。
だから、他に人がいるはずなどない。
―――それが人なら。
けれど……