13
「一体何を見ているの?私よりも気になるものがあるのかしら」
曇り一つ無いガラスを透かして、眼下に広がる素晴らしい夜景を見下ろしていた男のバスローブの袖を、繊細な切子細工のグラスを片手にした女が、軽く引っ張った。
誘われるまま窓際を離れ、ローテーブルについた男は、慣れた手際で相手の好みのカクテルをこしらえてやり、自分は生のままのウィスキーをグラスに注いだ。
いつもと同じトータルコースの終盤の光景に、ただ一つの相違点を、ふふっと笑ってグラスを唇から離した女が指摘する。
「最近元気が無いのね。一体どうしたの?何だか慰めてあげたくなるって奥様方の間で専らの噂よ。完璧な男の義明はどこへ行ったの?」
完璧ないい男の筈が、僅かに精彩を欠いた表情でグラスを手のひらに転がしていた男は、相手の指摘にはっと二三度瞬いた。
「すみません……あなたに時化た顔を見せてしまって、私はどうかしているのかもしれません。
実は、まともに眠れないんです。どうしても……気に掛かることがあって」
相手が他の女性であれば、何でもないと言ってすぐにいつもの顔に戻るところだが、今夜の相手はお客とは言っても限りなく親友に近い気の置けない間柄であるから、義明は素直にその指摘の正しいことを認めた。
「あらまあ。本当に悩み事なの?いつも愚痴を聞いて貰ってばかりだから、今日は私が聞き役になってあげるわ。何でもいいから話して御覧なさい」
一見未婚女性のように若く可愛らしいながら中身は立派に一家を切り盛りしている、人生経験豊かな女性は、グラスをテーブルに置いて、相手の話を聞く体勢に入った。
「佳澄さんもご存じの彼のことなんです。例のアクシデント以来、個人的に付き合いを持つようになっているんですが」
男もグラスを置いて、手持ち無沙汰に両手を握り合わせて話し始めた。話題の中心人物は女性も旧知の青年だという。
「あんなに歳の離れた友達を持つなんて珍しいのね。あなたは話の通じる大人を好むものだとばかり思っていたけれど、よく考えたら私の我が侭を聞いてくれるくらいだから、案外庇護下に誰かを置くのが好きなのかしら」
佳澄は小首を傾げてから、ふっと目を細めた。男も少し首をめぐらせてから、頷く。
「そうかもしれません。あまりにも立場や感性が違うから、傍にいるととても新鮮で癒されるんです。成人を過ぎた同性を可愛いと思ったのは初めてですよ」
「ええ、確かにあのボウヤは可愛いわね。私もそう思うわ。キラキラした目をして、何だか仔犬みたい。
ところであなたの悩みと彼がどう関係しているの?」
やはり手持ち無沙汰であるらしく、二杯目のカクテルを作り始めた男の手元に視線を当てながら、彼の一番のお得意様である女性は先を促した。
「それなんですが……佳澄さん、あなたはファーストキスがどんなだったか覚えていますか?」
あっという間に出来上がった海の色のカクテルを足つきのグラスに注ぎ、細いストローを添えて相手にすすめ、自分は先ほどと同じウィスキーを注ぎ足すと、男は些か方向の違う話を口にした。
その唐突さに、ストローに上品に口をつけていた佳澄が、長い睫毛をぱたぱたと上下させる。
「え?随分話が飛ぶのね。……ええ、忘れたことはないわ。何と言っても、主人と初めて出会ったときだったんですから。いっぺんで恋に落ちたわ。初恋は実らないなんてジンクスは絶対に破ってみせるわって心に誓ったくらいだもの。
ファーストキスっていうのは、そういうものよ。中にはそうでない人もいるかもしれないけれど、普通は簡単に忘れてしまうようなどうでもいいものではないわ」
その光景に思いを馳せるように瞳を遠くした彼女に、男は男で何か別のことを思い浮かべた様子でため息をついた。
「そうですか……そうでしょうね。軽はずみにするようなことではありませんね。私の感覚がどうかしていた」
「なぁに?あなたったらまさかあの純情そうなボウヤにそんなことをしたの?」
現実世界へ戻ってきた佳澄はくっきりとしたきれいな瞳をいっそう大きくし、対する男は瞳の色を隠すように目を伏せた。
「……どうかしていたんです。自分の勝手な感覚で軽くそんな悪戯を仕掛けた。あの人は私とは違う。まっとうな世界を生きてきた人なのに。軽い気持ちでキスなんてしてはいけなかった」
「あらあら。察するに、彼はそのことで怒っているのね?友達解消って言われてしまったのかしら?」
「……正確には、友達になる前の話なんですが」
「なぁに?初対面でいきなりそんなことをしたの?それはびっくりされて当然ね。無闇と純真な子に手を出してはいけないわよ」
佳澄はそれこそびっくりした顔で、目の前にいる男をまじまじと見つめた。年若い純真な子に戯れで手を出すなど、この男には最も想像し難い姿である。
「いえ、無闇とそんなことをしたりしません。後にも先にも彼にだけです。あの時は私も少しだけ酒が入っていましたし、多少気が軽くなっていたんでしょうが。彼が可愛くて……あんまり可愛くて、仰る通りですが、仔犬のように見えて、思わずキスしていたんです。触れるだけのものでしたが」
男は長い間手のひらに入れていたグラスがぬるくなるのも気づかない様子で、中身を一気にあおった。
「可愛いのは結構だけれど、後になってそんなに落ち込むようなことはしてはいけないわ。もしかして泣かせてしまったの?」
「……いいえ、泣かせたのはついこの間です。帰り際に彼がキスしてきたので、私もし返したんです。この触れ方が好きなら挨拶代わりにこれからもしますかと言ったら、彼は男同士でなんでキスを挨拶にするんだって怒って……それから泣き出してしまったんです。考えてみれば当然だ。男にキスされて嬉しいはずがない。もしくは、からかわれたと思ったのかもしれません」
決してそんなつもりじゃなかった。気に入っているからそう申し出たのに。
頭を抱えんばかりの男を、佳澄はまじまじと見つめた。そうして口の中で小さく呟く。
「私にはボウヤの怒ったわけが別のものにしか思えないんだけど……」
「佳澄さん?何か仰いましたか」
「なんでもないわ」
佳澄は不思議そうに顔を上げた男に首を振ってから、ため息混じりに次の言葉へ移った。
「あーあ。あなたも罪な男ね。あなたにとっては仔犬を抱いてキスするのと同じつもりでも、相手にとってはそうではないの。私だって主人に出会っていなかったら惚れ込んでしまいそうなくらい、あなたは魅力的なのよ。その辺り、あなたは自分の価値を低く見積もりすぎているわね」
「慰めてくれているんですか、佳澄さん。でも魅力も何も、彼にとっては同性からキスされたところで不快でしかないでしょう。嫌がらせか悪戯だと思っているに違いない」
嫌われてしまったかもしれない、と目を伏せる男に、佳澄は心底呆れたような眼差しを向けたが、それはすぐに息子を見守る母親のような微笑ましげな表情に変わった。
「ねえ、義明」
「はい?」
「あなたが私といるときに他の人の話をしたのは初めてね」
男は思いがけないことを聞かされたように、面食らった表情になった。そして、ゆっくりと眉を寄せてゆく。難しい顔をして、
「そうですか?……そうかもしれない。すみません」
と頭を下げた彼に、その常連客であり、一番の理解者でもある女性は声をたてて笑った。
『完璧な男』にはあまりにも似つかわしくない、ナチュラルな表情の変化が、彼女にとっては何よりも見ものだった。
「佳澄さん?」
目の前で大笑い(といってもお嬢様だから傍目には至極上品なのだが)をされて、男はますます似合わない、情けない表情になった。とうとう身を折るようにして笑いを噛み殺した佳澄は、ごめんなさいねと言って目じりの涙を拭い、
「いいのよ。私に謝ることじゃないわ。そんな風にあなたが変わったのなら、きっとそれはその子のおかげなのね」
と微笑んだ。対する男は何も返す言葉が見つからず、無言である。全くもってホストとしてあるまじき態度だったが、相手はとっくにホストと客の間柄など忘れている。
「いつでもそのとき傍にいるお客一人のことを考えて心を砕いてきたあなたが、他の誰かを思ったなんて、初めてよ。『特別』なのよ。その人が」
佳澄は綺麗な微笑みを浮かべてゆっくりと諭すように話した。
「あなたといるときでも私は主人のことを忘れていない。家に帰ったら今日のあなたの話をどんな風に聞かせて嫉妬させてやろうか、なんて考えながらあなたを見ているわ。あなたはそれをわかっていて、私に付き合っているでしょう。たまに私が誘ってもあなたは何もしない。私の本心を知っているからなのね」
「あなたのことは好きですよ?」
すかさず入った合いの手にくすりと笑って、佳澄は首を降る。
「私も好きよ。でも、あなたみたいに完璧な男でも主人には敵わないわ。あの人の瞳以上に私を幸せにしてくれる思いを、あなたの瞳は持っていないから。―――そういうことよ」
「佳澄さん、惚気ているんですか」
「そうかもしれないわね。でも、さっきのあなたも同じなのよ?客の前で他の誰かの話をするなんて、『橘義明』のすることじゃないもの。あなたは今、私の知っている義明じゃあないのよ。義明でないあなたを知っている人だけのものである、『直江信綱』なのよ」
その言葉を咀嚼するのに、この男としては史上最長記録ともいえる時間をかけて、彼は瞬いた。
「そう―――なの」
やがてようやく紡がれた呟きに、佳澄は出来の悪い弟を見るような愛しげな眼差しで、その額を小突く真似をした。
「もぅ。肝心なところで鈍い男ね。
あなたはあなただけの人に出会ったの。認めなさい。他の誰と共に過ごしても心の中から決して消えない、ただ一人の肖像があなたの中には掛かっているはずよ。あなたが押さえ込んできた熱い何かを引っ張り出すだけの勇気を持った、強い人」
真剣な眼差しが男の瞳にまっすぐにもぐりこむ。
「あなたは完璧すぎたわ。全ての女性に平等に優しさを与えたけれど、それはあなたの中の一部でしかない。人間はそんなに穏やかでも綺麗でもないものだわ。激情や、醜いまでの執着があって当然。―――それが、あなたの態度には顕れていなかった。
あなたは穏やかな仮面でその激しさを隠してきたのよ。自分ではきっと気づいていないのでしょうけど。
あなたの中にある激しさを、引っ張り出すことのできる人は一人だけでしょう?現に今、あなたは仮面を外しているわ。あなたはもう変わっている。認めていないだけなの」
佳澄は白い柔らかな手のひらを男の頬に添わせ、揺れる鳶色の瞳を見つめた。ちょうど普段、相手が自分にそうしてくれるのと同じように。
「気づいて」
もう片方の手も同じように頬を包み、両手で相手の顔をそっと揺さぶる。
「気づきなさい」
男の瞳が揺れている。かつて彼女がどんな我が侭を言っても微動だにせず包み込んでくれた鳶色の中には、行方の定まらないうねりが渦を巻いて、内心の混乱を映している。
―――それは、初めての嵐。
やがて男の瞳が定まり、その手がいつものように佳澄の華奢な手首を包んだとき、彼女は男の頬から自分の手を外して微笑んだ。
「あなたは行くのよ」
手首から手のひらへ移って握手するように指を絡め、ぎゅっと一度強く握ってから、彼女はその手も離した。
仮面を外せるただ一つの場所を確保してから、また完璧な義明になって戻っていらっしゃい。待っていてあげるから―――
05/10/10
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